伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2016/06/05

2016-06-05 07:20:30 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 6:1-5
『主はまたモーセに言われた、 「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、 あるいは落し物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、 罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落し物、 または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない。」』

神様はモーセに、人に対する罪の赦しと償いについて告げられました。ここで大切なことが二つあります。

1つは、人に対する罪は主に対して不正をなしたと言われていることです。それは神様はこれほどまでに深く人を愛しておられるからです。神様が愛された人に対して、私たちは罪を犯してはなりません。これは犯罪の抑止力でもあり、自分を愛するように隣人を愛することの実践でもあります。

もう1つは、罪は必ず償わなければならないことです。一般的な裁判でも賠償が求められますが、クリスチャンの中には「私は神様の前に悔い改めたからすべての罪は赦されている」と言って、償いの責任を放棄している人がいることは悲しい現実です。罪は罪、償いは償いです。私たちは神間に対する罪と、人に対する責任と、両方共に委ねられていることを決して忘れてはなりません。

http://bible.com/81/lev.6.1-5.ja1955

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レビ記 6:8-11
「主はまたモーセに言われた、 「アロンとその子たちに命じて言いなさい、『燔祭のおきては次のとおりである。燔祭は祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない。 祭司は亜麻布の服を着、亜麻布のももひきを身につけ、祭壇の上で火に焼けた燔祭の灰を取って、これを祭壇のそばに置き、 その衣服を脱ぎ、ほかの衣服を着て、その灰を宿営の外の清い場所に携え出さなければならない。」

今朝、この燔祭のおきてについて記された箇所を読んで、イエス様の十字架の出来事について気付かされたことがあります。それは、イエス様が十字架に掛かる前に徹夜で裁判を受けられた情景です。

そのとき裁判が開かれたのは、大祭司の邸宅の庭でした。そこには祭司長たちが同席し、夜通し火が焚かれていました。そして裁判が終わるとイエス様を宮の外にあるゴルゴダの丘に連れ出しました。イエス様は、私たちの罪を購う傷のない全き子羊として、まさに燔祭のいけにえとなられたのです。

しばらく律法に関する箇所の聖書通読をしますが、このように旧約聖書の律法と新約聖書の記述を関連させて読むとき、一つ一つの御言葉に秘められた神様の摂理と深い御旨を味わい知ることができますから感謝いたします。聖書は読む毎に新しい発見がある、実に奥の深い、神様の知恵が何重にも凝縮された書物です。

http://bible.com/81/lev.6.8-11.ja1955

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レビ記 6:12-13
「祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。 火は絶えず祭壇の上に燃え続かせ、これを消してはならない。」

祭司の務めは、祭壇の上の火を絶やすことなく燃え続けさせ、燔祭を捧げ、酬恩祭の脂肪を火に焼いて芳しい香りとして主の御前に捧げることでした。

先に救われた私たちもまた、主に仕える祭司として、この世に信仰の火を絶えず燃え続けさせ、常に祈りと讃美を捧げる大切な役目を担う存在とされています。神様の御側近くに引き寄せられたクリスチャンとして、信仰に燃え、常に祈りと讃美をもって神様に仕える私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.6.12-13.ja1955

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レビ記 6:25-27
「アロンとその子たちに言いなさい、『罪祭のおきては次のとおりである。罪祭は燔祭をほふる場所で、主の前にほふらなければならない。これはいと聖なる物である。 罪のためにこれをささげる祭司が、これを食べなければならない。すなわち会見の幕屋の庭の聖なる所で、これを食べなければならない。 すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。もしその血が衣服にかかったならば、そのかかったものは聖なる所で洗わなければならない。」

祭司たちは、人々の罪を購うために捧げられた罪祭を主の御前にほふり、聖なるものとされた肉を、聖なる場所で食べなければなりませんでした。またこの肉に触れる者は聖となると記されています。これは今の私たちにとって、聖なる場所すなわち主の教会で、人々の罪のためにとりなして祈るべきことを意味しているのではないでしょうか。

私たちはこの世の罪のために、滅び行く魂のために、主の御前にとりなして祈る責任があります。そして主の御前に聖なる祈りを捧げる者は、聖なる者とされる恵みに与ることができますから感謝いたします。「教会で熱心に祈る」という基本姿勢に対して忠実に、まだ福音を知らないこの世の人々の救いのために、祈り続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.6.25-27.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/05

2016-06-05 05:55:19 | 今日の聖句
ヘブル人への手紙 12:2
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」

人生はマラソンにたとえられます。走っている途中は辛くとも、耐え忍んで走り続ける者だけが、完走の喜びを味わうことができます。私たちが受ける以上の試練を耐え忍び、信仰のマラソンコースを完走して天の御国のゴールで待ち構えておられるイエス様の御姿を仰ぎ見て、走り続ける力をいただきたいと願います。

http://bible.com/81/heb.12.2.ja1955
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