レビ記 26:3-4
「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。」
神様が十戒と様々な教えを守るようにと定められたのは、イスラエル人が住む地で豊かな祝福を受けるためでした。神の民とされた私たちもまた、神様を畏れ、御言葉を守り行う者となり、この世での祝福のみならず、やがて受け継ぐ天の御国に永遠に住まう特権を得させていただきたいと願います。
http://bible.com/81/lev.26.3-4.ja1955
*****
レビ記 26:14-16
「しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、 わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、 わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。」
神様の祝福の契約には、戒めを守り行うならば、という条件がありました。この契約を人間の側から破るならば、むしろ裁きとなって私たちに害が襲いかかると神様は警告されました。この警告は単なる脅しではなく、私たちに神様との契約を決して破らず、豊かな祝福を受け継ぐ者となってほしいという強い願いに他なりません。
神様に聞き従わず、戒めを守らず、定められた掟を忌み嫌う者に下る裁きは、本当に恐ろしいものです。しかし裁きを恐れて嫌々神様に従うのではなく、神様に喜ばれる、ご期待に添える者となる私たちでありたいと願います。
http://bible.com/81/lev.26.14-16.ja1955
*****
レビ記 26:18-20
「それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。 あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。」
神様の裁きは段階的に及びます。これは裁くこと自体が目的なのではなく、人が神様に立ち返ることが目的だからです。もし神様の懲らしめを受けたとき、私たちの取るべき態度は、直ちに悔い改めて神様に従うことです。逆ギレして自分の主張を曲げない態度を取るならば、更なる重い裁きが待ち受けています。主の懲らしめを神様の元に立ち返る機会として真摯に受け止め、過ちを素直に認め、心から悔い改めて神様の祝福のうちに立ち返る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.18-20.ja1955
*****
レビ記 26:23-25
「もしあなたがたがこれらの懲らしめを受けてもなお改めず、わたしに逆らって歩むならば、 わたしもまたあなたがたに逆らって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。」
神様の懲らしめは、何段階にもわたります。どれほど神様が私たちを愛し、早く立ち返ってほしいと願われているかがわかります。しかしそれでも悔い改めないならば、最後の裁きが待っています。主を畏れず神に敵対する者として、神様自ら私たちに敵対し、私たちを敵の手に渡されます。イスラエル人がせっかくエジプトの奴隷から解放されたのに、また罪の国バビロンの捕囚となることが予表されているかのようです。
イスラエルの歴史は神様と人間の関係、そしてその結末を如実に示しています。私たちは歴史から学ぶ必要があります。過去の人々と同じ過ちを繰り返すことのないよう、主の戒めと警告を真摯に受け止め、神様を畏れ敬い、御言葉を守り行い、主との関係を正しく保って、まことのさいわいを得る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.23-25.ja1955
*****
レビ記 26:33-34
「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、つるぎを抜いて、あなたがたの後を追うであろう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は荒れ地となるであろう。 こうしてその地が荒れ果てて、あなたがたは敵の国にある間、地は安息を楽しむであろう。すなわち、その時、地は休みを得て、安息を楽しむであろう。」
この箇所はまさにバビロン捕囚と、イスラエルの荒廃を預言しているかのように思えます。しかし神様が戒めに背く者を約束の地から追い払うことの真意は、この地に安息を賜ることにあります。約束の地は神様のものであり、神様の御心に適う地となるのです。私たちは一時的に約束の地で祝福のおこぼれに与っているに過ぎません。この世を自分のもの、自由に使い倒して良いものと勘違いすることなく、神様の御心に従って祝福のおこぼれに与らせていただく、さいわいな生涯を歩む私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.33-34.ja1955
*****
レビ記 26:40-42
「しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、 たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、 そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。」
神様は憐れみ深いお方ですから、裁きを受けた後にも、再び立ち返る機会を与えてくださいます。この世に生ける限り、私たちには主に立ち返るチャンスが何度も用意されていることはさいわいなことです。主の懲らしめを自らの犯した罪の故であると素直に認め、心から悔い改めて主の憐れみを乞い求め、祝福の契約を再び思い起こしていただける恵みに与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.40-42.ja1955
「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。」
神様が十戒と様々な教えを守るようにと定められたのは、イスラエル人が住む地で豊かな祝福を受けるためでした。神の民とされた私たちもまた、神様を畏れ、御言葉を守り行う者となり、この世での祝福のみならず、やがて受け継ぐ天の御国に永遠に住まう特権を得させていただきたいと願います。
http://bible.com/81/lev.26.3-4.ja1955
*****
レビ記 26:14-16
「しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、 わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、 わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。」
神様の祝福の契約には、戒めを守り行うならば、という条件がありました。この契約を人間の側から破るならば、むしろ裁きとなって私たちに害が襲いかかると神様は警告されました。この警告は単なる脅しではなく、私たちに神様との契約を決して破らず、豊かな祝福を受け継ぐ者となってほしいという強い願いに他なりません。
神様に聞き従わず、戒めを守らず、定められた掟を忌み嫌う者に下る裁きは、本当に恐ろしいものです。しかし裁きを恐れて嫌々神様に従うのではなく、神様に喜ばれる、ご期待に添える者となる私たちでありたいと願います。
http://bible.com/81/lev.26.14-16.ja1955
*****
レビ記 26:18-20
「それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。 あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。」
神様の裁きは段階的に及びます。これは裁くこと自体が目的なのではなく、人が神様に立ち返ることが目的だからです。もし神様の懲らしめを受けたとき、私たちの取るべき態度は、直ちに悔い改めて神様に従うことです。逆ギレして自分の主張を曲げない態度を取るならば、更なる重い裁きが待ち受けています。主の懲らしめを神様の元に立ち返る機会として真摯に受け止め、過ちを素直に認め、心から悔い改めて神様の祝福のうちに立ち返る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.18-20.ja1955
*****
レビ記 26:23-25
「もしあなたがたがこれらの懲らしめを受けてもなお改めず、わたしに逆らって歩むならば、 わたしもまたあなたがたに逆らって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。」
神様の懲らしめは、何段階にもわたります。どれほど神様が私たちを愛し、早く立ち返ってほしいと願われているかがわかります。しかしそれでも悔い改めないならば、最後の裁きが待っています。主を畏れず神に敵対する者として、神様自ら私たちに敵対し、私たちを敵の手に渡されます。イスラエル人がせっかくエジプトの奴隷から解放されたのに、また罪の国バビロンの捕囚となることが予表されているかのようです。
イスラエルの歴史は神様と人間の関係、そしてその結末を如実に示しています。私たちは歴史から学ぶ必要があります。過去の人々と同じ過ちを繰り返すことのないよう、主の戒めと警告を真摯に受け止め、神様を畏れ敬い、御言葉を守り行い、主との関係を正しく保って、まことのさいわいを得る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.23-25.ja1955
*****
レビ記 26:33-34
「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、つるぎを抜いて、あなたがたの後を追うであろう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は荒れ地となるであろう。 こうしてその地が荒れ果てて、あなたがたは敵の国にある間、地は安息を楽しむであろう。すなわち、その時、地は休みを得て、安息を楽しむであろう。」
この箇所はまさにバビロン捕囚と、イスラエルの荒廃を預言しているかのように思えます。しかし神様が戒めに背く者を約束の地から追い払うことの真意は、この地に安息を賜ることにあります。約束の地は神様のものであり、神様の御心に適う地となるのです。私たちは一時的に約束の地で祝福のおこぼれに与っているに過ぎません。この世を自分のもの、自由に使い倒して良いものと勘違いすることなく、神様の御心に従って祝福のおこぼれに与らせていただく、さいわいな生涯を歩む私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.33-34.ja1955
*****
レビ記 26:40-42
「しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、 たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、 そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。」
神様は憐れみ深いお方ですから、裁きを受けた後にも、再び立ち返る機会を与えてくださいます。この世に生ける限り、私たちには主に立ち返るチャンスが何度も用意されていることはさいわいなことです。主の懲らしめを自らの犯した罪の故であると素直に認め、心から悔い改めて主の憐れみを乞い求め、祝福の契約を再び思い起こしていただける恵みに与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.26.40-42.ja1955