伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【今日の聖句】 2016/06/24

2016-06-24 06:40:15 | 今日の聖句
箴言 22:4
「謙遜と主を恐れることとの報いは、富と誉と命とである。」

主を畏れず、神の御前に高ぶる者は、この世では富と名声を得たとしても、その末路は永遠の死です。天地万物の創造者なる主の御前にへりくだり、全能の神を畏れ、永遠のいのちのさいわいを得る私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.22.4.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/23

2016-06-23 07:47:49 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 24:1-3
『主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。 すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。」』

神様はイスラエルの人々に、前の章で規定された7つの祭の聖会を守るだけではなく、神の幕屋のために日々油を供え、灯を絶やさないように命じられました。なぜなら分厚い垂れ幕で覆われた幕屋は、灯がなければ真っ暗になってしまうからです。そのためイスラエルの一般会衆は純粋なオリーブ油を携え、祭司は幕屋の内側に灯を絶やさないように供えました。

これは私たちにとって、日々の信仰生活のあり方について学ばされる箇所です。油は聖霊、光は神様の御言葉を象徴するものです。私たちの心の中は、御言葉の光がないと、すぐに罪で覆われて真っ暗になってしまいます。しかし日々聖霊の油が注がれるならば、私たちは御言葉の灯に照らされて明るく輝くことができます。今日も聖霊様に私たちの心の中を満たしていただき、御言葉の光と希望に満ちた信仰生活を歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.24.1-3.ja1955

*****

レビ記 24:5-8
「あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。」

12個のパン菓子はイスラエルの12部族を表します。その上に乳香を置いて火に捧げるとき、煙と共によい香りが立ち上って神様の御許に届きます。

これは私たちの祈りです。クリスチャンが心を合わせて神様に祈りを捧げるならば、その祈りは芳しい香りとなって必ず神様の御許に届きます。毎週の礼拝で、また日々心を合わせて祈りを捧げ、神様の御許に願いを届ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.24.5-8.ja1955

*****

レビ記 24:13-16
『時に主はモーセに言われた、 「あの、のろいごとを言った者を宿営の外に引き出し、それを聞いた者に、みな手を彼の頭に置かせ、全会衆に彼を石で撃たせなさい。 あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。 主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他国の者でも、この国に生れた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない。」』

いかに素晴らしい教えも実践しなければ何の意味もありません。ここで突然、神様の御名を冒涜した人に対する裁きの物語が出てきますが、これはイスラエルの人々が、モーセを通して授かった神様の戒めをどのように実践したかを記録したものです。結局この人は神様から裁かれ、石打ちの刑で命を落とす結果となりました。

神様を冒涜する罪は、決して赦されるものではありません。主イエス様も、人の罪は赦されても、聖霊を汚す罪は決して赦さることはないとおっしゃいました。神様を畏れず、御名を汚す最悪の罪を、私たちは決して犯してはなりません。日々心の中と信仰生活を吟味し、神様の御名を汚す行為を行っていないか、細心の注意を払う私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.24.13-16.ja1955

*****

レビ記 24:17-20
「だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない。 獣を撃ち殺した者は、獣をもってその獣を償わなければならない。 もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。 すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。」

「目には目を、歯には歯を」という言葉のルーツがこの箇所にもあります。しかし私たちがよく使うこの言葉は、どちらかというと復讐の根拠として用いられる場面が多いです。それはおそらくハムラビ法典を原典とするものと思われます。

しかし聖書の基準は違います。ここに記された教えは、決して復讐の基準ではなく、償いの基準です。相手を裁くためではなく、罪を犯した自分に対して自ら制裁を科すのです。ここに聖書の精神が表されています。

神様は私たちに、神様を畏れ愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを命じられました。この愛の基準が、自らの過ちに対する償いとして示されているのです。同じ「目には目を」という基準を、報復と罪の連鎖のために用いるか、償いと赦しの愛の連鎖のために用いるか、それは私たちの判断に委ねられています。信仰をもって正しい判断を下す私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.24.17-20.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2016/06/23

2016-06-23 06:48:06 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 8:37
「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」

人間には到底解決できない罪と死から私たちを救い出すために、一人子のいのちをも惜しまずに与えてくださった神様の愛により、私たちはいかなる艱難や試練にも打ち負かされることはありません。この大いなる神様の愛を疑わずに信じ受け入れ、勝利の人生を歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/rom.8.37.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20周年

2016-06-22 21:30:54 | Weblog
今日は20回目の結婚記念日。会社帰りに花屋に立ち寄って、というか閉店ギリギリに飛び込んで、薔薇を20本、花束にして奥さんにプレゼントしました。



普段は感謝の気持ちをなかなか表せないけれど、ありがとうと、これからもよろしくとの思いを込めて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/22

2016-06-22 07:50:04 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 23:1-3
「主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。 六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。」

神様はイスラエルの民に聖会を守るように定められました。その第一の掟が安息日です。安息日はただ体を休めるためのものではなく、神様を礼拝する日として休むことに意味があります。日常の仕事の手を止め、身も心も神様に向けるために休むのです。

そして安息日は次の週の働きのためにもあります。今日では、教会は週の始めの日、日曜日を聖日として神様を礼拝します。神様に礼拝を捧げてから一週間をスタートする、信仰第一の生活サイクルを守る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.1-3.ja1955

*****

レビ記 23:4-5
「その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。」

次にイスラエルが記念する祭はユダヤの三大祭りの一つ、過越の祭です。言うまでもなく、モーセによってエジプトから脱出し、奴隷から解放されたことを記念する祭です。キリスト教会暦では主イエス様が十字架に掛かられた受難日と重なります。過越はユダヤ人のエジプトからの解放、イエス様の十字架はすべての人の罪からの解放を記念する日です。ユダヤ人たちが3,000年以上も守り続けた過越の祭と同様、主イエスの十字架の購いをいつも念頭に置き、心から感謝して喜び祝う私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.4-5.ja1955

*****

レビ記 23:9-11
「主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。 彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。」

次にお祝いする祭日は初穂の祭です。これは約束の地に入植した後、穀物の豊かな実りを与えてくださった神様に感謝するために、一番最初に収穫した初穂を神様に捧げるためのものです。

私たちが日々の糧を得ることができるのは、すべて神様の恵みのゆえです。自分の努力だけでは決して豊かな実りを得ることはできません。これは自分の努力の賜物だと神様の御前におごり高ぶることなく、よい結果をもたらしてくださった神様に感謝するために、まず最初に神様の御許に携え来るまっすぐな心を持つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.9-11.ja1955

*****

レビ記 23:15-16
「また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。 すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。」

この祭は今の教会ではペンテコステにあたります。イエス様が死を撃ち破ってよみがえられてから50日目に、聖霊様が私たちのもとに下りました。この日を記念して教会では聖霊降臨節、ペンテコステをお祝いします。キリスト教の教会暦はイスラエルの歴史と密接な関係にあることを念頭に置き、旧約聖書の祭に秘められたそれぞれの意味を噛みしめて覚える私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.15-16.ja1955

*****

レビ記 23:26-28
「主はまたモーセに言われた、 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。」

この贖罪の日には断食を行います。身を悩ますというのは断食を意味します。イエス様の十字架により罪赦された私たちは、信じること以外に罪赦されるために何か特別なことをしなくてもよいと思いがちですが、罪の購いとはそうそう簡単なものと思い違いをしてはなりません。罪が赦されるためにはイエス様が命を捨てられたということを決して忘れてはなりません。すべての時間を捧げて断食するかのように身を悩まし、罪からの解放の重みを知る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.26-28.ja1955

*****

レビ記 23:33-34, 42-43
「主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。

あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。

仮庵の祭とは、イスラエルが荒野を放浪し、仮住まいの暮らしを続けたことを記念する祭です。私たちの今の繁栄は、過去の苦難の生活の上に成り立っていることを忘れないために、イスラエルの人々は今でもこの時期には家の前に掘っ建て小屋を建てて住み、この祭を守り行います。

便利な今の暮らしに慣れきっている私たちは、ちょっとしたことにも不満を抱き、文句やつぶやきが絶えません。しかし過去の自分たちを振り返り、また歴史を学ぶことを通して、何気ない日常の中に神様の恵みが豊かに注がれていることを思い起こし、感謝の心を取り戻す私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.23.33-34,42-43.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2016/06/22

2016-06-22 06:40:20 | 今日の聖句
箴言 21:21
「正義といつくしみとを追い求める者は、命と誉とを得る。」

正義と慈しみを追い求めるとは、義かつ愛なる神様を畏れ敬うことに他なりません。御言葉を守り行う者に永遠のいのちを賜り、神の子たる栄誉を授けてくださる神様を信じ従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.21.21.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/21

2016-06-21 07:43:02 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 22:1-2
『主はまたモーセに言われた、 「アロンとその子たちに告げて、イスラエルの人々の聖なる物、すなわち、彼らがわたしにささげる物をみだりに用いて、わたしの聖なる名を汚さないようにさせなさい。わたしは主である。」』

人は権力を持つと、つい濫用してしまいがちです。最近話題の東京都知事の政治資金流用疑惑など、汚職は典型的な事例です。ですから神様は、モーセを通じてアロンとその子たちに、祭司として決して踏み外してはならない道を教えられました。その最も重要な戒めが、神様への捧げものについてです。

神様への犠牲は会見の幕屋の中で捧げられましたから、人の目を盗んで自分のものとしてしまうこともできなくはありません。しかし神様はそのような不正を決して見逃されません。「わたしは主である」との言葉が何度も繰り返されるのは、主なる神様の目はあなたの日常生活のすべてに注がれている、という意味です。たとい人が誰も見ていなくても、主が見ておられることを忘れないならば、私たちは不正を働こうとする誘惑に打ち勝つことができます。神様と人との前に公明正大な生涯を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.22.1-2.ja1955

*****

レビ記 22:15-16
「祭司はイスラエルの人々が、主にささげる聖なる物を汚してはならない。 人々が聖なる物を食べて、その罪のとがを負わないようにさせなければならない。わたしは彼らを聖別する主である』」。

祭司の務めの一つに、一般の人々が主への捧げものに関して罪を犯すことのないように正すことも含まれていました。なぜ主への捧げものに対する罪がここまで詳細に記されているかというと、それは単なる盗みに留まらず、神様のきよさを冒涜する重大な罪であるからです。

私たちは今では犠牲を捧げる代わりに献金や献品をします。献金をごまかすこと、献金に手を付けること、これは神様を冒涜する、神様のきよさを汚す、赦されざる重罪です。初代教会でアナニヤとサッピラ夫妻が共謀して献金をごまかしたとき、主に撃たれて死んだ事件を忘れてはなりません。私たちは、特に献金において神様を畏れ敬う心を最大限に働かせ、金銭への執着を捨て、心から喜んで捧げる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.22.15-16.ja1955

*****

レビ記 22:18-19
「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『イスラエルの家の者、またはイスラエルにおる他国人のうちのだれでも、誓願の供え物、または自発の供え物を燔祭として主にささげようとするならば、 あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。」

私たちの捧げものに対する姿勢の中で、決して忘れてはならないことは、すべて主に受け入れていただけるように捧げることです。自分の好き勝手に、あるいは自己満足のために捧げるものは、神様は決して受け入れてくださいません。神様が喜んで捧げものを受け入れてくださるにはどうしたらよいか常に念頭に置き、自分のやり方ではなく神様の命じられた手順と方法で神様に感謝を捧げる私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.22.18-19.ja1955

*****

レビ記 22:26-28
「主はまたモーセに言われた、 「牛、または羊、またはやぎが生れたならば、これを七日の間その母親のもとに置かなければならない。八日目からは主にささげる火祭として受け入れられるであろう。 あなたがたは雌牛または雌羊をその子と同じ日にほふってはならない。」

愛と憐れみに富む主は、捧げものの動物に対しても深い配慮を示されます。子やぎを犠牲とする場合も、生まれてから最低7日間は母やぎと一緒に過ごさせるとの規定は、母やぎにとってはわが子に深い愛情を注ぐ期間、子やぎにとっては母やぎの愛を受けてこの世に生まれた喜びを満喫する期間として定められたものです。また牛をほふるときも同じ日に親子共々にほふってはならないとの教えも、動物に対する深い憐れみの心の表れであり、すべてのいのちに対する尊厳を守ることです。主は憐れみ深いお方ですから、主の僕たる私たちもまた憐れみ深い者とならなければなりません。

http://bible.com/81/lev.22.26-28.ja1955

*****

レビ記 22:31-33
「あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。 あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。 あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。

神の民イスラエルの使命は、神様のきよさを証する事です。ではどのように神様のきよさを証すればよいか、それは神様の戒めを守り行うことに他なりません。主が授けられた戒めを守ることにより、神様の御名が汚されることなく、聖なる神様があがめられる結末となります。

自分の過ちや罪のために神様の御名が汚されることほど、私たちにとっての屈辱はありません。そのような事態に陥らないよう、私たちは神様の戒めを堅く守ることが大切です。

神の子とされた私たちもまた、神様の栄光があがめられ、きよさと威光とがこの世に光り輝くよう、御言葉を守り行い、神様の御心をこの世に現すことのできる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.22.31-33.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2016/06/21

2016-06-21 06:42:00 | 今日の聖句
詩篇 68:19
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救である。[セラ」

主の救いは決して一時的、一過性のものではなく、今日も明日も未来までも永遠に続く恵みです。日々の信仰生活の中で起こり来るすべての重荷を、私たちに代わり負ってくださる主に感謝し、御名をほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.68.19.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の失敗から学んだこと

2016-06-20 20:35:36 | クリスチャン
昨日から、ミニ・コンサートで思うように賛美できなかった失敗の原因をいろいろと思い巡らしていました。まだ完全に考えがまとまったわけではないですが、学ばされたことを忘れないうちに書き残しておきたいと思います。


まず、何のために賛美を歌ったのか? 賛美は本来、神様の素晴らしさをほめたたえるための音楽です。では昨日の自分は本当に神様をほめたたえるために賛美を歌ったのだろうか? どこか雑念というか、思い違いというか、目的が違っていなかったか?

たとえば、手に入れたばかりのギターのお披露目というか、自慢したい心がなかったか? あるいは自分にはこんな賜物があるとの自己顕示欲に駆られていなかったか?


あるいは、誰のために賛美を歌ったのだろうか? 神様のため、聞く人たちのため、それとも自己満足のため?

昨日は父の日ということで、一緒に出演した子どもたちは、お父さんに喜んでもらうために一生懸命練習して演奏していました。だから、たとえ多少音を外してしまっても、お父さんにとっては何よりのプレゼントになったはずです。では私の賛美は? 父なる神様に喜んでもらいたい一心で賛美していただろうか?

あがってしまう、というのは人の目を気にしている何よりの証拠。人前で演奏するということで、神様の目よりも人の目を気にしていなかっただろうか?


それから昨日の自分の信仰の状態はどうだっただろうか? 聞く人が聞けば、賛美を聴くだけでその人の信仰状態が手に取るようにわかってしまうことを、私は知っています。昨日の私の賛美は、どのように聞こえていただろうか? 賛美を人前で歌うことで心が占有されてしまい、神様に対する感謝の心で満たされていなかったのではないか?


…などなど、賛美に対する姿勢を今一度吟味する必要があると反省させられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/20

2016-06-20 07:43:59 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 21:1-4
「主はまたモーセに言われた、「アロンの子なる祭司たちに告げて言いなさい、『民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。 ただし、近親の者、すなわち、父、母、むすこ、娘、兄弟のため、 また彼の近親で、まだ夫のない処女なる姉妹のためには、その身を汚してもよい。 しかし、夫にとついだ姉妹のためには、身を汚してはならない。」

神様はモーセを通してアロンとその子孫に、神様に仕える祭司に要求されるきよさの基準を示されました。祭司は家族以外の死人に触れて汚れてはならないとの教えは、死はアダムの犯した罪が人間にもたらしたものであるという考え方に基づきます。罪に近付いた者は汚れた者と見なされるため、神様の御側近くで奉仕することなどできないという理由です。

それゆえ死はいのちの源であられる神様に相応しくないもの、神様が忌み嫌われる罪の結果と信じられてきました。この教えを忠実に守った祭司の姿が、イエス様が語られたよきサマリヤ人の譬にも出てくるほど徹底されました。これほどまでに神様に仕える者のきよくあるべきことが示されています。私たちもまた神様に仕える僕として罪汚れから遠ざかり、きよい生活を貫く者でありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.21.1-4.ja1955

*****

レビ記 21:5-6
「彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。 彼らは神に対して聖でなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。」

昔から王の給仕役や料理長は、王に最も信頼される者が務めてきました。これは創世記のヨセフ物語やネヘミヤ記にも記されています。同じことが神様に食事を捧げる役目を負った祭司にも要求されたのです。聖なる神様の御側近くに仕える祭司は、最も神様から信頼される者であり、きよい者でなければなりません。

私たちもまた、きよくないままで神様に近付くことのないように、神様の御名を汚すようなことのないように、普段の日常生活の態度から特に注意を払いたいと思います。

http://bible.com/81/lev.21.5-6.ja1955

*****

レビ記 21:7-8
「彼らは遊女や汚れた女をめとってはならない。また夫に出された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖なる者だからである。 あなたは彼を聖としなければならない。彼はあなたの神の食物をささげる者だからである。彼はあなたにとって聖なる者でなければならない。あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである。」

祭司は結婚に対しても厳格な規定を設けられました。なぜなら結婚によって家系が決まるからです。神の民であるイスラエルは結婚において民族のアイデンティティーを堅く守り、更に祭司はイスラエル民族の中でも最も厳格な家系を保ちました。それは祭司はアロンの家系に基づく世襲制であり、結婚においても神様の御前に汚れることのないようにとの意図です。神の民とされた私たちもまた、結婚において信仰のアイデンティティーを保つことを大切にしたいと思います。

http://bible.com/81/lev.21.7-8.ja1955

*****

レビ記 21:9
「祭司の娘である者が、淫行をなして、その身を汚すならば、その父を汚すのであるから、彼女を火で焼かなければならない。」

これは祭司たちにとって最も厳格な教えです。祭司は子どもの教育においても責任を持たなければなりませんでした。自分の子どもを火に焼いて捧げてはならないとおっしゃった愛なる神様が、姦淫の罪に汚れた娘を焼き捨てなさいと命じられたのは、いかに祭司がきよくあるべきこと、家系において一点の汚れもないようにきよさを保たなければならないことを教えたものです。

私たちも心の中に罪汚れがないか、罪と妥協する心がないか、今一度点検し、罪と汚れから無縁のきよさを保つ者でありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.21.9.ja1955

*****

レビ記 21:10-12
「その兄弟のうち、頭に注ぎ油を注がれ、職に任ぜられて、その衣服をつけ、大祭司となった者は、その髪の毛を乱してはならない。またその衣服を裂いてはならない。 死人のところに、はいってはならない。また父のためにも母のためにも身を汚してはならない。 また聖所から出てはならない。神の聖所を汚してはならない。その神の注ぎ油による聖別が、彼の上にあるからである。わたしは主である。」

祭司の中でも大祭司として任命された者は、いと聖なる神様の最も御側近くに仕える大祭司にふさわしく行動し、たとい自分の両親といえども死人に触れて汚れてはならないと戒められました。神様のきよさと、この世の罪汚れとは、隔ての幕によって完全に分断されなければなりませんでした。それほどまでに神様は聖なるお方であり、また大祭司が仕える至聖所もいかに聖なるものであるかがわかります。

レビ記20章からのテーマは聖別です。私たちも主イエスの十字架によって、きよい者としてこの世から分断されました。いと聖なる神様に仕える者の一人として自らを聖別し、きよさを保つ者でありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.21.10-12.ja1955

*****

レビ記 21:16-17
「主はまたモーセに言われた、 「アロンに告げて言いなさい、『あなたの代々の子孫で、だれでも身にきずのある者は近寄って、神の食物をささげてはならない。」

ここから先は、身体障害書に対する差別と思われるような記述が続くと見なされるかもしれません。しかし聖書の本質は差別ではなく区別です。神様に仕える職業としての職能条件であり、決して身体障害者を門前払いする意図ではないことを読み違えてはなりません。

http://bible.com/81/lev.21.16-17.ja1955

*****

レビ記 21:21-23
「すべて祭司アロンの子孫のうち、身にきずのある者は近寄って、主の火祭をささげてはならない。彼は身にきずがあるから、神の食物をささげるために、近寄ってはならない。 彼は神の食物の聖なる物も、最も聖なる物も食べることができる。 ただし、垂幕に近づいてはならない。また祭壇に近寄ってはならない。身にきずがあるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしはそれを聖別する主である』」。

先ほど祭司の職能に対する要件だと説明しましたが、神様は身体障害者を差別されてはいないことは、この箇所から明らかにわかります。祭司職は代々世襲制でしたから、遺伝的に、あるいは後天的に身体障害者となる可能性があります。しかし神様は、祭司としての職業に就かなくても、その食物すなわち生活の糧は用意してくださる愛と憐れみに富んだお方です。当時は現代よりも身体障害者に対する差別が激しかったことを考えると、これは本当に驚くべき慈愛の心です。私たちは神様の御心を字面だけで表面的に判断してはなりません。

http://bible.com/81/lev.21.21-23.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2016/06/20

2016-06-20 06:38:59 | 今日の聖句
歴代志上 16:34
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」

恵みと慈しみに富む神様に感謝することこそ、私たちが神様に対して表すことのできる最上級の捧げものです。心の底から神様に感謝し、思いの限りを尽くして主の御名を讃美する私たちでありますように。

http://bible.com/81/1ch.16.34.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賛美するに相応しい心を授けてください

2016-06-19 23:43:36 | クリスチャン
今日、教会でミニ・コンサートがあり、一曲賛美させていただいたのですが、久々に人前で歌うことにあがってしまい、心ここに在らずの状態で、全く賛美になっていませんでした。教会の何人かからは暖かく声を掛けていただきましたが、聞く人が聞けば、賛美の体をなしていなかったことは明らかなはず…。

以前の教会で、あることをきっかけに賛美することができなくなり、今の教会に移って、だいぶ賛美の心が回復してきたと思っていただけに、そのことがショックで、帰宅してからもずっと落ち込んでいました。神様を賛美することについて、もう一度深く考えさせられています。

主よ、このような唇の汚れた者ではありますが、再びあなたを心からの歌声をもってほめたたえることができるよう、賛美するに相応しい心を授けてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/19

2016-06-19 06:10:19 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 20:7-8
「ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。」

レビ記20章のテーマは聖別です。再び、偶像礼拝や占い、姦淫の罪を犯す者は主から絶たれることが記されていますが、いと聖なる神の民とされた者は、自らを聖別してきよく生きなければならない、というのがその理由です。

これら神様が忌み嫌われる精神的あるいは肉体的な姦淫の具体例については、聖書の御言葉をそのまま読めばわかりますから繰り返し詳しくは説明しませんが、いかにこの世の罪は私たちの目に魅力的に見えても、私たちは罪を慕って神様の忌み嫌われるこれらの汚らわしい行為を決して真似てはなりません。

私たちは天に国籍を待つ神の民として聖別された者であるとの自覚を堅く保ち、この世の罪に染まることなく、きよく生きる生涯を貫かせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/lev.20.7-8.ja1955

*****

レビ記 20:23-24
『あなたがたの前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなたがたは歩んではならない。彼らは、このもろもろのことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。 わたしはあなたがたに言った、「あなたがたは、彼らの地を獲るであろう。わたしはこれをあなたがたに与えて、これを獲させるであろう。これは乳と蜜との流れる地である」。わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。』

神様がイスラエル人を祝福して乳と蜜の流れる約束の地に入らせようとされたのは、イスラエル人に資格や資質があったからではなく、神様の忌み嫌われることを平然と行いこの地を呪われた地と変えてしまった土着の民族と区別してくださったからに他なりません。ですから神様はイスラエル人に、その地の人々の風習に倣ってはならないと厳しく戒められたのです。

もし他の民と同じように神様の忌み嫌われる罪を犯すならば、イスラエルもまた約束の地から追い払われると神様は警告されました。ですから後の時代に起きたバビロン捕囚は、神様の警告を無視したイスラエルに対する裁きだったのです。

主イエス様の十字架を信じ、永遠の天の御国に招き入れてくださるとの約束を得た私たちもまた、きよい生活を保つことができないならば、神様から忌み嫌われ神の国から追放される者となってしまいます。せっかくいただいた永遠のいのちの約束を自ら失うことのないように、罪から遠ざかり、自らを聖別してきよさを保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.20.23-24.ja1955

*****

レビ記 20:26
「あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。」

繰り返しになりますが、神様は私たちに聖なる者であるように、自らを聖別するように、と求めておられます。神様に愛されるべき理由も、何の資格も取り柄もない私たちを神様が一方的に選び、数々の恵みを注いで特別扱いしてくださるのは、私たちを他の民とは区別してきよい者と認めてくださったからに他なりません。この一方的な選びに込められた神様のご期待に添えるよう、自らを聖別し、罪と交わることなくきよい生き方を保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.20.26.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2016/06/19

2016-06-19 06:05:30 | 今日の聖句
詩篇 119:114
「あなたはわが隠れ場、わが盾です。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。」

神様は私たちを守る盾となって、執拗なサタンの攻撃からかくまってくださるお方です。この神様に全幅の信頼を置き、永遠に変わることのない約束の御言葉に希望をつなぐ私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.119.114.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2016/06/18

2016-06-18 07:43:26 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 19:1-4
『主はモーセに言われた、 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」』

神様はモーセに改めて十戒の要約を語り、イスラエルの民にこれを守り行うように教えられました。十戒の前半部分はまことの神様だけを神として礼拝すること、偶像を造ってはならないとの戒めです。

その中に、きよく生きるべきこと、また父母を敬えとの戒めが挿入されているのは、神様を畏れ敬うことを日常生活の中でどのように実践するか、具体例を示したものと思われます。神様を畏れるとは聖なる神様に倣ってきよく生きること、また目の前にいる父母を敬うことを通して神様の権威の下にへりくだる生き方を実践する私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.19.1-4.ja1955

*****

レビ記 19:9-10
「あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。 あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

聖かつ義なる神様のもう一つの御性質は、愛と憐れみに富む神様であるということです。ですから神様に倣う生き方は、人を愛し、憐れみの心を持つことです。神様は豊かで気前のよいお方です。私たちに豊かな実りを与えてくださる神様に感謝して収穫を得るときは、隅々まで残らず刈り取るのではなく、貧しい人々や寄留者のためにあえて一部を残しておくようにと戒められました。

現代社会では、効率化や無駄の排除を徹底するあまり、収穫を残らず自分のものとして独占する傾向が見受けられます。その結果、貧富の差はますます激しくなり、ほんの一握りの人が大富豪となる一方で、多くの貧困層、経済的弱者を生み出しています。経済的には富んでも、人の心を貧しくする愚かな行為です。

今一度、神様の戒めに立ち返り、すべての人々が神様の恵みを受けることができる、社会全体が幸せになる世界を目指す私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.19.9-10.ja1955

*****

レビ記 19:17-18
「あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」

罪を憎んで人を憎まず、との諺にあるように、私たちは人に対しては愛をもって接し、罪に対しては厳しい態度で臨むことが求められています。過ちを犯した人を戒めるときも、その人を罰したり憎んだりするのではなく、柔和な心で教え諭すことが神様の御心です。もし人を恨み自らの手で罰するならば、私たち自身も罪を犯すことになります。罪は憎んでも人を憎むことなく、自分を愛するように隣人を愛する私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.19.17-18.ja1955

*****

レビ記 19:26-28
「あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。 あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。 死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。」

この箇所には神様が忌み嫌われることが記されています。占いや魔法を行うこと、また信じることは、悪霊に聞き従うことであり、明らかな偶像礼拝です。最近はテレビや雑誌など、あらゆるところで占いを目にしない日はありませんが、決して占いに心を寄せてはなりません。

また入墨も最近はファッションの一部として広く行われるようになりましたが、これもまた神様が忌み嫌われる偶像礼拝の名残です。

サタンは巧妙に私たちの心の隙を狙い、気付かぬうちに忍び込んできます。世の中の風潮や流行に流されることなく、きよい神の民としてのアイデンティティーを堅く保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.19.26-28.ja1955

*****

レビ記 19:35-36
「あなたがたは、さばきにおいても、物差しにおいても、はかりにおいても、ますにおいても、不正を行ってはならない。 あなたがたは正しいてんびん、正しいおもり石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの国から導き出したあなたがたの神、主である。」

最近ニュースのあちらこちらで、不正や不祥事が頻繁に報道されているように、いかに人が不正を犯しやすいかがわかります。私たちはどうして不正を働いてしまうのでしょうか。それは義なる神様を畏れる心がないからです。神様は不正を忌み嫌われるお方ですから、神様を心から畏れるならば、不正を働こうとする誘惑に陥ることなく、また不正を行わせようとする外的圧力に屈することはありません。

不正は自分にしかわからないと思うところから始まります。しかし、全知全能の神様の前に隠されている秘密などないと知る者は、不正を働こうと心にブレーキがかかるはずです。神様を畏れ信じる者は、このブレーキを決してゆるめてはなりません。不正の誘惑と圧力に屈することなく、すべてをご存じであられる義なる神様の御前に正々堂々と生きる私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.19.35-36.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする