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【COGHCC聖書通読】 2016/06/26

2016-06-26 08:10:28 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 27:1-4
『主はモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は、 あなたの値積りは、二十歳から六十歳までの男には、その値積りを聖所のシケルに従って銀五十シケルとし、 女には、その値積りは三十シケルとしなければならない。』

レビ記の最後は、神様に対する捧げものについて記されています。前半は特別な誓願の捧げものに関する教えです。その最初が、自らを神様のものとして捧げる献身の誓願についてです。私たちは聖会などで主に心を動かされ、自らの一生を神様のために捧げたいと献身の思いを抱くことがあります。それはとても素晴らしい恵みですが、その思いが一時的な感情の高まりによるものか、あるいはその目的が本来の献身とはずれていないか、客観的に吟味する必要があります。そのため神様は、献身に対しては相応の捧げものを命じたのです。

この誓願の捧げものを記した箇所がサムエル記にあります。長い間子どもを授からなかったハンナが、主の前に心を注ぎ出して祈り、子を授けてくださるならば最初の子を神様のために捧げますと誓願を立てました。そして神様の憐れみによりサムエルを授かったハンナは、この誓願の通りに幼いサムエルを、誓願の捧げものと共に祭司エリの前に連れてきて、神様にわが子を捧げたのです。これが神様に対する誓願のあるべき姿です。

そのときの誓願の捧げものについては、その人の性別や年齢によって定められていました。成人男性の銀50シケルというのは、4年強の年間収入額に相当するものでした。ここで重要なことは、誓願の捧げものの額は、その人そのものの価値ではなく、労働力に換算した額であるということです。ですから男性より女性が、成人より子どもや老人が低いのは、あくまでも収入に応じた額であり、神様が人をそれぞれの状況に応じて正当に評価してくださることを表しています。

神様に対する誓願は軽々しく行ってはならないこと、しかしその誓願は最も神様の喜ばれる捧げものです。献身はその最たるものです。聖なる思いをもって神様の御前に自らを捧げ、誓願を果たす者に豊かな恵みをもって応えてくださる主の素晴らしい御業を見させていただく私たちでありように。

http://bible.com/81/lev.27.1-4.ja1955

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レビ記 27:8
「もしその人が貧しくて、あなたの値積りに応じることができないならば、祭司の前に立ち、祭司の値積りを受けなければならない。祭司はその誓願者の力に従って値積らなければならない。」

先にも説明しましたが、誓願の捧げものはその人その人の状況によって正当に見積もられました。成人男性で聖所のシケルで50シケルというのは、今の日本のサラリーマンの平均月収を40万円とすると2000万円にも相当する額です。これほどの高額な捧げものは、貧困家庭ではとてもできません。そこで神様は貧しい人のために値積もりを祭司に委ねたのです。

そして祭司はその人の能力を正しく評価しなければなりません。信仰による神の祭司とされた私たちもまた、人を正しく見る目が必要です。どこか色眼鏡を掛けて人を見ていないか、感情的に人を見ていないか、私たちは反省することしきりです。神様の愛によって人を正しく見る目を持たせていただきたいと心より願います。

http://bible.com/81/lev.27.8.ja1955

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レビ記 27:25
「すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。」

神様に捧げるものは、神様の判断基準に依ります。決して人の価値基準によるものではありません。ですから私たちは、自分に都合の良いように捧げものをしてはなりません。神様の価値基準に従い、常に神様が喜んで受け入れられるように捧げる私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.27.25.ja1955

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レビ記 27:30-31
「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。 もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。」

ここに什一献金(じゅういちけんきん)の教えが記されています。この地球も、この世界も、本来はすべて神様のものです。そして私たちがこの地で得る収入もまたすべて神様の恵みにより得たものですから、本来はすべて神様のものです。しかし神様はそのすべてを自分のものとされず、人がこの世で生きるための生活の糧として私たちに与えてくださっているのです。この恵みに感謝するのが献金であり、神様はその額として什一献金を定められたのです。

収入の十分の一というのは私たちにとって大きな金額でもあり、献金に手を付けたくなる誘惑に駆られます。しかし什一献金をおろそかにする者は、神様の恵みに感謝する心を忘れ、しかも神様の価値を値引きする罪にもつながることを、私たちは決して忘れてはなりません。什一献金は決して義務ではなく感謝の表れであることを常に認識し、献金において神様の御前に罪を犯すことのない私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.27.30-31.ja1955
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