出エジプト記 19:1-8
イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。 すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。
エジプトから脱出して3ヶ月目に、イスラエルの民はシナイの荒野に入り、シナイ山の麓に宿営しました。モーセが山に登ると、神は全イスラエルに対し、奴隷生活から救い出された神の大いなる御業を見たあなたがたが、わたしの言葉を聞いて守り行うならば、あなたがたをわたしの宝の民、祭司の国、聖なる民とすると告げられ、全イスラエルの意志を問われました。神はいつでも、なにをするにしても、私たちの意志を問われます。私たちが神を信じるのも信じないのも、私たちの側の意志です。神は目には見えなくとも永遠に存在されるお方ですが、その存在を認めるのも認めないのも、私たちの側の意志です。主の御言葉を聞いて従うのも従わないのも、私たちの側の自由意志によります。しかし、信じます、主に従いますと答えた者には、神は限りない祝福をもって私たちを宝の民、祭司の国、聖なる民としてくださいます。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.1-8.ja1955
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出エジプト記 19:9-15
主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。 主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、 三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。 あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。 手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。 そこでモーセは山から民のところに下り、民をきよめた。彼らはその衣服を洗った。 モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。
主に従う決意を表明した全イスラエルに対し、主は3日の内に衣服を洗い、身をきよめて主と出会う備えをさせるようにと、モーセに命じました。それは全イスラエルに神がモーセと語り合う場を直接見せて、彼らが神を畏れ、信じ続けることができるようにするためでした。また神は、シナイ山との間に境界線を設け、イスラエルの民が神の領域にみだりに触れて死ぬことのないようにと配慮されました。本来、人間は聖なる神と直接触れあうことなどできない、罪に汚れた存在です。にもかかわらず神は私たちを召して、聖なる民、神と人との仲立ちとなる祭司の国、受ける資格など本来ない私たちを宝の民としてくださいます。神と人との間の断絶は死をもってして然るべきものであるのに、神は私たちを召してくださったのですから、大いなる畏敬の念と心からの感謝と真実な信仰をもって、どこまでも神にお従いする者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.9-15.ja1955
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出エジプト記 19:16-25
三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。 主はモーセに言われた、「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。 主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。 モーセは主に言った、「民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたがわたしたちを戒めて『山のまわりに境を設け、それをきよめよ』と言われたからです」。 主は彼に言われた、「行け、下れ。そしてあなたはアロンと共に登ってきなさい。ただし、祭司たちと民とが、押し破って主のところに登ることのないようにしなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。
イスラエルの民が身をきよめて神と出会う備えをしてから3日後に、神はシナイ山の頂に降られました。その様子はまるで激しいゲリラ豪雨が降るときのよう、分厚い雲の中で雷鳴と稲妻が轟き渡り、シナイ山は全山雲に包まれて、噴火する火山のように煙が立ち上り、震え動き、全イスラエルは恐怖のあまり死んでしまうと思うほど、圧倒的な権威を示されました。神は山の頂からモーセを呼び、モーセが山に登ると、イスラエルの民が興味本位で山に押し入って、神のきよさに触れて死ぬことのないように戒めなさいと命じられました。モーセは既に民が山に近付くことのないように境界線を設け、民もまた恐怖に震えているから大丈夫ですと答えましたが、神はそれでも行きなさいと命じ、モーセは従いました。何度も山頂と麓を往復したモーセの忠実さとは対照的に、多くの民は神の真実な御姿を口で言うほど身にしみて理解しておらず、まるで珍しい見せ物を見るかの如く、みだりに神のきよさに触れてしまう、鈍くて愚かな存在です。親しき仲にも礼儀ありという言葉の如く、私たちは神のきよさを真に畏れ敬うべきことを、骨の髄から身に染みて知り置かなければなりません。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.16-25.ja1955
イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。 すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。
エジプトから脱出して3ヶ月目に、イスラエルの民はシナイの荒野に入り、シナイ山の麓に宿営しました。モーセが山に登ると、神は全イスラエルに対し、奴隷生活から救い出された神の大いなる御業を見たあなたがたが、わたしの言葉を聞いて守り行うならば、あなたがたをわたしの宝の民、祭司の国、聖なる民とすると告げられ、全イスラエルの意志を問われました。神はいつでも、なにをするにしても、私たちの意志を問われます。私たちが神を信じるのも信じないのも、私たちの側の意志です。神は目には見えなくとも永遠に存在されるお方ですが、その存在を認めるのも認めないのも、私たちの側の意志です。主の御言葉を聞いて従うのも従わないのも、私たちの側の自由意志によります。しかし、信じます、主に従いますと答えた者には、神は限りない祝福をもって私たちを宝の民、祭司の国、聖なる民としてくださいます。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.1-8.ja1955
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出エジプト記 19:9-15
主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。 主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、 三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。 あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。 手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。 そこでモーセは山から民のところに下り、民をきよめた。彼らはその衣服を洗った。 モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。
主に従う決意を表明した全イスラエルに対し、主は3日の内に衣服を洗い、身をきよめて主と出会う備えをさせるようにと、モーセに命じました。それは全イスラエルに神がモーセと語り合う場を直接見せて、彼らが神を畏れ、信じ続けることができるようにするためでした。また神は、シナイ山との間に境界線を設け、イスラエルの民が神の領域にみだりに触れて死ぬことのないようにと配慮されました。本来、人間は聖なる神と直接触れあうことなどできない、罪に汚れた存在です。にもかかわらず神は私たちを召して、聖なる民、神と人との仲立ちとなる祭司の国、受ける資格など本来ない私たちを宝の民としてくださいます。神と人との間の断絶は死をもってして然るべきものであるのに、神は私たちを召してくださったのですから、大いなる畏敬の念と心からの感謝と真実な信仰をもって、どこまでも神にお従いする者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.9-15.ja1955
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出エジプト記 19:16-25
三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。 主はモーセに言われた、「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。 主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。 モーセは主に言った、「民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたがわたしたちを戒めて『山のまわりに境を設け、それをきよめよ』と言われたからです」。 主は彼に言われた、「行け、下れ。そしてあなたはアロンと共に登ってきなさい。ただし、祭司たちと民とが、押し破って主のところに登ることのないようにしなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。
イスラエルの民が身をきよめて神と出会う備えをしてから3日後に、神はシナイ山の頂に降られました。その様子はまるで激しいゲリラ豪雨が降るときのよう、分厚い雲の中で雷鳴と稲妻が轟き渡り、シナイ山は全山雲に包まれて、噴火する火山のように煙が立ち上り、震え動き、全イスラエルは恐怖のあまり死んでしまうと思うほど、圧倒的な権威を示されました。神は山の頂からモーセを呼び、モーセが山に登ると、イスラエルの民が興味本位で山に押し入って、神のきよさに触れて死ぬことのないように戒めなさいと命じられました。モーセは既に民が山に近付くことのないように境界線を設け、民もまた恐怖に震えているから大丈夫ですと答えましたが、神はそれでも行きなさいと命じ、モーセは従いました。何度も山頂と麓を往復したモーセの忠実さとは対照的に、多くの民は神の真実な御姿を口で言うほど身にしみて理解しておらず、まるで珍しい見せ物を見るかの如く、みだりに神のきよさに触れてしまう、鈍くて愚かな存在です。親しき仲にも礼儀ありという言葉の如く、私たちは神のきよさを真に畏れ敬うべきことを、骨の髄から身に染みて知り置かなければなりません。
https://www.bible.com/bible/81/exo.19.16-25.ja1955