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【COGHCC聖書通読】 2019/08/23

2019-08-23 08:00:06 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 21:1-6

「これはあなたが彼らの前に示すべきおきてである。 あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。 彼がもし独身できたならば、独身で去らなければならない。もし妻を持っていたならば、その妻は彼と共に去らなければならない。 もしその主人が彼に妻を与えて、彼に男の子また女の子を産んだならば、妻とその子供は主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。 奴隷がもし『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、 その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。」

モーセの十戒は神が私たちに望んでおられる基本的な指針を示したもので、具体的な事例を挙げて、主の戒めを実践することを教えられました。その基本的な精神は、愛と憐れみです。当時、家畜や物と同様に扱われていた奴隷に対し、その人格を尊重し、憐れみの心をもって接すべきことを教えられました。特に同族のヘブル人が奴隷となった場合には、7年目には無償で奴隷の身から解放するべきことを定められました。これは7年毎の安息年、そして50年目毎にすべての負債を帳消しにするヨベルの年の考え方にも通じるものです。なぜなら、この世のものはすべて自分のものではなく神様のものであり、私たちがこの世に生を受けている期間だけ、神様から管理を委ねられているだけに過ぎない、という基本的な考え方に基づいたものです。しかし奴隷となった者が自分の意志で主人の下に仕え続ける場合について言及されていますが、これは私たちの主との関係に通じるものです。主イエスの十字架によって罪購われた私たちは、自分の意志で、主イエスに仕える僕となった者です。

https://www.bible.com/bible/81/exo.21.1-6.ja1955

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出エジプト記 21:7-11

「もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。 彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。 彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。 彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。 彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。」

神はさらに、奴隷の子として生まれた女性についても言及されました。当時の社会では女性の奴隷は物以下、家畜以下の扱いを受けていましたから、自分の娘と同様に扱うようにとの教えは、実に驚嘆に値するものです。この中にも神の愛と憐れみの精神、人は生まれながらにして自由の身であるべきことを教えたものです。神の視点は常に人格を尊重するものです。

https://www.bible.com/bible/81/exo.21.7-11.ja1955

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出エジプト記 21:12-17

「人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。 しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。 自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。 人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」

殺人は最も重大な罪です。なぜなら人にいのちを賜るのは神の領域であり、同じように神からいのちを受けた私たちには人のいのちを奪う権利などないからです。しかし殺意を抱いたものではなく、過失によって人を殺めてしまった場合については、神はその加害者のいのちに対しても手厚い保護を設けられました。そして殺人と同列に挙げられているのが、自分を産み育ててくれた両親に対する悪意や暴力と、人を誘拐することです。いずれもいのちの尊厳、人格の尊重に基づいた基本的な考え方です。人が人であるために、私たちは人のいのちと人格を何よりも重んじなければなりません。

https://www.bible.com/bible/81/exo.21.12-17.ja1955

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出エジプト記 21:18-27

「人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、 再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。 もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。 しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。 もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。 しかし、ほかの害がある時は、命には命、 目には目、歯には歯、手には手、足には足、 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。 もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。 また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。」

「目には目を、歯には歯を」との教えは、一般的にはハムラビ法典に起因する報復に関する教えとみなされていますが、聖書の中では意味する内容が全く正反対です。神様は私たちに、罪や過失は必ず償わなければならないこと、そしてその基準について教えるために、この規定を定められました。神の視点は常に弱い者、被害を受けた側を守ることにあります。すべての人々が聖書の神の基準に従うならば、無益な報復の繰り返しもなくなり、この世に真の平和を実現することができます。

https://www.bible.com/bible/81/exo.21.18-27.ja1955

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出エジプト記 21:28-36

「もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。 牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。 彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。 男の子を突いても、女の子を突いても、この定めに従って処置されなければならない。 牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。 もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、 穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。 ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。 あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。」

神は人だけでなく、その所有する家畜が犯した過ちについても教えられました。それはこの世において起きた事件の責任の所在を明らかにし、人類が神が造られたこの世界を正しく治めるための基本的な考え方に基づいています。私たちは自分の利益や欲望を実現するために生きているのではなく、神の御心をこの世に実現するために生きているのだということを忘れてはなりません。私たち人間に与えられた高度な知恵や管理能力は、そのために備わっているのだということを、私たちは常に心に留めて、自らの言動に責任をもって、公明正大に日々の生活を送ることが、神に喜ばれる生き方です。

https://www.bible.com/bible/81/exo.21.28-36.ja1955
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【今日の聖句】 2019/08/23

2019-08-23 05:30:51 | 今日の聖句
ホセア書 6:6 新共同訳

わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。

人の心の内を見られる神は、全焼の生贄を捧げることよりも、心から神を畏れ、愛し仕えることを喜ばれます。形式的・儀礼的な礼拝、見せかけの愛で神を欺くことなく、神を畏れ敬い、心の底から神を愛し、喜んで御言葉に聞き従う私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/hos.6.6.新共同訳
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