自分の歴史というか、今まで長年やってきた土木建築の仕事の歴史を書くと
随分と、下水の仕事をやってきたなーと思います。今日も麻雀の松岡社長と
平田氏と3人ではなしている中で、仕事に関してやはり誰かの引きというか
引っ張ってくれる人がいて、うまく立ち回れたら、つずくのではないかとの話
が出ましたが、僕の場合も、日本上下水道株式会社の村上氏がおられなかったら
今日の僕はないともいえる。
独立した時から建築を離れた浄化槽の仕事をこなすうえで下水処理の仕事に代わって
いったのです、日本の下水の遅れが指摘されて全国的に処理施設の普及が急がれて
いったときに上手く載れたのです、そして引っ張ってもらえた、その村上氏が
広島、福岡の支店長をも紹介していただいて、仕事が増えていった。その中でも
名古屋の支店の仕事で、金沢の鶴来と言う所の大きな仕事をさせてもらったのが下水の
関係では建築の部分が主となったものでした。
総工事費が30億ぐらいで、10億ほどの物が3か所に分かれての発注ものでした。
この発注の時の現場説明が2度と経験しない100人からの人が集まっての説明会でした。
金沢の大学の講堂を借りての現場説明で、昭和53年の事でした。
下水の仕事は水槽関係が主になりそれの付属建物として建築物が付きましたが、
この鶴来は管理棟から処理棟迄すべてが入っていましたので大きな工事になり
現説時の業者が大手と地元を組み合わせての30社からになったのです。
仕事としては楽しい仕事でした。