ふろしき王子のブログ◎
出前講座開催☆
http://furoshikiouji.asia
メール isamix@gmail.com
 



家は自分たちの住居としてだけでなく、
商店やカフェ、撮影スタジオ、演奏会、
賃貸も可能なように作っておきたい。

限定された用途に造り固めず、
形を変えたり元に戻せるようなシンプルな仕組みならば、
メンテナンスもしやすく長持ちし、
住む世代に応じて多目的に変更が可能。

体自体が多目的である。
手は土や石ころ、草をいじり、おむすびやひもを結び、
赤ちゃんに優しく触れたり細かい字も書く。

何かひとつの分野に限定して秀でているのも魅力的だが、
誰もが、ある程度ひと通りのことをこなせるという前提があれば、
何でも専門家にまる投げということがなくなり、社会全体が底上げされる。

たとえば家を建てるにしても、土台や骨組みは
大工さんにお願いするが、壁塗り、シンプルな家具、
仮の小屋程度は作れる腕があれば、目線を上げた相談ができる。
そのための知識や技を、学校の図工の授業で教えてほしい。
セロテープやホチキスで安直にこさえるのではなく、
木を組んだ棚、竹を結んだ縁台など、大人になってからも
生かせる技術。

仕事場の掃除はするが、自室は散らかり放題とか、
他人前では笑顔を振りまいて、家では家族に怒鳴るなど、
決められた仕事だけきちんとして、
他には心を配る余裕が無くなるようなスタイルは、
本業のパフォーマンスの長続きや向上も妨げるだろう。

裏表、波の振り幅が大きいほど、けじめよく意識を切り替えて
集中を高める必要が出る。
それは一見プロっぽいかもしれないが、
ニュートラルでいて、いつでも即応できるほうが
生きる能力が高い。

草を食べているウサギが、逃げモードに切り替えようと
呼吸を調えていたら、すぐに捕まってしまう。
真の剣士ならば、宴席で酔っぱらっている時に
敵が来襲しても、普段通りに立ち回れるだろう。

切り替えなければならないのは、自然体がいけてないということ。
だから、少なからず無理を演じることになり、
そのストレスの反動で、例えば仕事後に暴飲暴食したり、
人に難癖つけて憂さを晴らそうとしたりする。

先に専門技術があるのではなく、まず日常生活における
こまごました作業、掃除洗濯炊事、片付け整理収納、
歩く背負う縫う結ぶなどの動作の質、段取りの感覚を身につけておき、
その上に、なりわいとしての仕事が乗っていれば、
仕事は日常の延長あるいはひとコマとして
大きく意識を切り替える必要がなくなり、リバウンドも小さい。

だから、子どもの将来のためにと
何か一つだけレッスンを続けさせるよりも
生きていくのに必要な、当たり前の動作を
ひと通りきちんとできるようにやらせることが、
結果的に将来の職業の選択肢や可能性を増やし、
広く確かな土台の上で、専門技術も飛躍するだろう。

ささやかなスケールであれ、森づくり、田畑、
お裁縫、木工、料理、心身の調整、道具の手入れなどの
生活技術の修得に、教育はもっと時間を費やしてもよいと思うが、
こういうことは、その時だけ習うというよりは
普段の暮らしと直結していれば自然と身につくものだから、
子どもだけのレッスンではなく、親のライフスタイルの影響がつよいだろう。

まあ、せめて学校では、あえて差別するならば
男子は木工(木組み)、かんながけ、包丁砥ぎ、
女子はかご編み(竹や葛など)、裁縫(浴衣程度の和裁と編み物。希望者は織り物)、料理(炊飯・味噌汁・漬物)、
共通して、掃除、風呂敷・ひも結び、田畑づくりを
必修にしてほしいと思います。

追伸
国語の授業では墨をすって筆で書く。よって、書道と国語では墨をつかう。

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本日、無事に34才の誕生日を迎えました。

9/9生まれの僕にとって、33才は3×3=9で一つのしめくくり、
34才は新たな門出、鼻向けという感じがします。

今までが、居場所を求めてたゆたう綿毛の遊子(旅人)だったとすれば、
これからは、泥に頭を突っ込んで根を張り巡らし、旅人や虫たちを迎え、
育む側に転ずる折り返し。



とはいえ、どのグループにも所属しないマージナルな生き方は変わらないでしょう。
分け隔てなく、袖触れ合った人がたと助け合う裏の拠り所、居場所となれるように
生き物と植物と人、太陽と水と土、風と星々と歌 の三位一体を
具体的にかたちにしよう。

人も生き物も、食べ物のあるところに集まる。食べ物の元は植物だ。
植物は、少なからず光と水分があれば、その土地に適したものが自生する。

それが、人の食べられる植物でなかったら、その植物を食べる動物の命をいただくのが
自然なかたち。バッタを食べるというわけにもいかないから(イナゴは食べるが)、
そうなると、バッタを食べる蛙、というようにさらに食物連鎖の上を見る。

蛙を食べるヘビやイタチ、鷹にまでなると、ちょいと濃くなりすぎて薬食いになる。
湿地であれば、まにまにいただくサチは 蛙ということになる。
実際、タイの田舎などでは普通に少女が蛙を集めてきて、家族の夕飯にしたり売ったりする。

少し乾燥した草原になると、草を食べるのはノウサギ。人は草の結晶としてのウサギを食べる。
樹混じりの半日蔭の野では、もっと葉が柔らかくなり、鳥が食べる。飼うならばニワトリ。

うさぎと鶏は、食べる草葉の種類が違うから、一緒に飼っても取り合いにならない。



でも、やっぱりこうやってカエルやうさぎ、キジが自然の野原だけで
増えたのを食べるには人が多すぎるから、
彼/女らを育むファームとしての里山がある。
田んぼはお米を採るためだけではなく、同時に、フナ、蛙、へび、うなぎ、スッポン、
鯉(在来ののごい)、どじょう、たにし、キジ、鴨といった
人の食すこともできる様々な命を育む場となる。

最近は肉を食べない、ベジタリアンの方も徐々に増えてきているようですが、
肉をやめて健康になる人は、今まで食べすぎていて、体内にストックがあるため、
米や野菜だけの食生活でも、実際は過去に摂った肉の栄養を使って生きている。
だから、長年続けてストックがなくなると慢性栄養失調状態となり心身の不調に
つながるため、海苔や発酵大豆食品などで上手にバランスをとらなければ、
生涯完全ビーガンというのは難しい。



肉食の問題は、第一に家畜の劣悪で非人道的な育てられ方があるから、
工業製品のように生産するのではなく、田んぼのように、自然に生き物が
やってきたり湧いたりしたのを、必要な分だけおすそ分けいただく形がよい。
最後は捕って食われようが、生きている間は自由でしあわせだった、という在り方。
動物の命を奪うのは残酷であると、100%菜食を叫ぶよりも、
まず不自然な家畜の扱いと肉食過多を減らして、歯の割合(32本中4本が肉用の犬歯)に沿った
87.5%菜食を増やすことが、現実的です。
となると、1日3食とおやつ(卵や乳入りの菓子など)で4食とも
動物性食品を食べている人が、その摂取を1日1食にするだけでも
それまでの肉食100%から、肉食25%になり、かえって質とありがたみを上げて
美味しく吸収よく健康的にいただけて、大量生産の家畜のシステムも変わる。

このくらいの量であれば、家でニワトリを飼って(鳴き声が心配ならメンドリだけ)
その卵を食べる程度でだいたい足りる。野菜くずや残飯でまかなえるので、エサ代はかからない。
鶏糞は75%栄養が残っているのでよい窒素肥料となる。家庭菜園におすすめ。
土にすき込まず、地表に置いておけば、小虫などが食べてさらに分解し、
雨水でしみ込んだものに土や根の微生物が酵素をかけて、植物の栄養となる。

田んぼの栄養と水源になる大元も森。
森には食べられるどんぐりや木の実、果樹もあり、何よりも命の水のダム、浄水機能を持つ。

ミネラルを供給し、海までも浄化する。
海はその波打ちによって酸素を生み出している。
植物は光合成で酸素を生産しても、夜間の呼吸で同量消費する。



県や国単位の大きい森の保全は何よりだけど、市や町、そして家ごとにも森があるとよい。
ちいちゃくても、木が2本で林、3本で森、5本で森林という。
その樹種は、その土地に元々生えていた極相(安定状態)を司るものがよい。

ここいら多摩では樫の木かな。南へ行けば椎。海辺はタブノキ、のように。

家と庭で、家庭という。持続可能な文化のためには、庭がメインで、
庭に住むにあたって雨風をしのぐ施設を家ととらえる。
電気、ガス、水道、燃料が途絶えても、何とかやっていける庭をめざす。

雨を溜める樹や池、雨水を浄化し、排水を再生する水生植物、燃料になる樹枝、
各家庭に、雨のしみこむ庭と樹があれば地下水も豊富になり、井戸も可能、
そういう昔ながらの知恵と同時に、安定水素(H-)を燃料として
過去と手を結びながら、未来へ進化する。

駐車場を借りる金を惜しんで、本来使用価値も大きい思い出の庭を壊し、
プラモデルのような素っ気ない家を、大金はたいて建てても
原価は安い粗悪品、何十年ともたずに劣化して
資産価値にもならないという現状。



家というのを、単なるうわべの箱ものではなく、内にも外にも
命に対して貢献する一つのかたちとして、
もっといえば、庭の一部分としてとらえて、未来への佳き遺産と
なるように熟慮したいもの。

ともあれ、今日は晴れて誕生日。最近は小言が多いですが、懲りずに
氣楽にご来訪ください。



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ひと雨ごとに、秋の氣配。
部屋から庭へ見やれば、ヨシズの向こうに、ヨシの細長い茎葉が風に揺られていて、
まるで昔の水辺、海辺のような光景だ。

勝手口からそのまま、べかのような小舟に乗って
夕飯のおかずを採集にいくような、そういう風情が好きです。

そういえば、2020年に東京オリンピックが決まったようですね。

僕の生まれる15年前、1964年の東京オリンピックは
戦後の復興を果たした日本を世界に見てほしいという
多くの国民の乗り氣があっただろうが、今度のオリンピックは、
逆に、それまでにこの国をもっとすてきにする義務があるように感じる。

しかしいずれにしても、無理をせずありのままをさらせばよいと思うのだが、
いい振りこきな大義の元、必要以上の土建が幅を利かせる傾向がある。
前回の東京オリンピックの折は、首都高速の開通を急いで
日本橋と川の真上に沿うように建設し、光と風情を奪った。
また、当時は渋谷に幾筋も流れていた美しい小川も埋められている。

そのときだけええ格好見せようとして、風が過ぎればまた元に戻すことは
人間の性のようなものだけど、戻せないほど造り固めてしまうほどの
価値が、スポーツイベントにあるのだろうか。

もはや、上へ上への超高層化が進歩とは感じられない時代であるから、
東京でオリンピックをやるとなった以上、
1.福島の原発の事故状態の解決。
2.汚染された日本全土と海洋の浄化。
3.健康被害の回復。
4.世界各国の原発の、とりあえずの安全、安定的な対策。
5.世界各地の環境汚染の解決を担う高度な科学技術の、日本からの提供。
6.町並みの情緒、自然との調和を、住人主体ですすめていく。
7.高度な科学技術によって土台を安定させ、アメリカの傀儡政権としての日本ではなく
 自由意志を尊重できる、真の国になる。
8.それぞれの国ぐるみの洗脳、刷り込み教育を解き、人同士の友好を築くための
 サポートができる国へ。
9.敵味方の区別なく、全ての人の安全保障=生きがいある生活の邪魔をせず
 後押しできるように、国同士が手を結ぶ。

2020年までに完成といえなくても、具体的な道筋を決めて同意を得、
後片付け、道づくり、種まき、水やりを実地で進めて
ふくふくとつぼみが膨らんでいるくらいまでにはしておかなければ。

オリンピックなんてやってる場合じゃない!と今さら愚痴るのではなく、
せっかくオリンピックで世界中から人々が来るのだから、この機会に、
今までつい見過ごして腐らせてしまってた所を直視し、
ぴかぴかに蘇らせてしまおうじゃないか、と景氣つけて協力し合いたい。

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昨日は、風呂敷本のイラストの加筆、修正で
編集社の奥の院に缶詰、という貴重な体験をさせていただきました。
結局、半分ほどで時間が来たので残りは自宅で描いて送ることに。

この9月は用件が重なっているので氣を抜けないところがあるのですが、
今日はまず、風呂敷用の生地を裂いて、15枚縫いました。
ようやく、これまでに50枚以上と、半数を超えましたが
それらに1枚ずつ、墨と筆で奥さんに描いてもらうにあたって
僕は、ひたすら墨をすずりですり続ける作業が残っています。
水につよくするために生大豆の汁でするので、
作り置きは向いてないでしょう。

日ねもすミシンに向かっていられるなら、50枚/日も可能でしょうが、
同時にご飯を炊き、お菓子を焼き、洗濯して干し、おむつを洗い、
掃除して、風呂を入れ、布団を敷きたたんで、
植木に水やり、買い物に行くという、主婦の天晴れな日常の代理も
兼ねた現在では、いちにちはあっという間。

坂口安吾さんのような、専用の仕事部屋があれば、
ミシンも据え置きできるのですが、
2部屋とキッチンだけなので、何かを行なうたびに
いったんそこを片付けて掃除する、という儀式が必要です。
夜は畳全面を小ぼうきで掃いてから、布団を敷きます。
適度な運動と氣分転換になるし、部屋に余分な物が
増えにくくなるというメリットもありますが。

思い返せば、一つ前の、小平市の平屋に住んでいたときは
1部屋とキッチンだけに家族3人で暮らしていた。
家具や荷物は少なく、縁側の前は原っぱだったので
窮屈さはそれほど感じなかったけど、
よく暮らしていたな、と後から感慨にふける。

それでも、昔の長屋なんて、もっと人の密度が濃かっただろう。
そして、家族やご近所の人がたはもっと一体感があり、
心身とも他者感が少なくて、ストレスが少なかったのかな。

家の外も家のつづきのように、作業場所として共有できたので
現在のように自動車が席巻しておらず、近所の皆が家族のようだった時代では
自宅の広さというのはそれほど生活に影響がなかったのかもしれない。

だけど、災害時の避難場所などは、一氣に密度が高まるから
現代人にとっては極端にストレスとなるだろうけど、
日本人は通勤ラッシュなどには慣れている。
広さというよりも、きちんと一人になれるプライベートな空間が必要で、
面白いと思うのは、屏風やついたて1枚あると無いとでは別次元。

川や線路をへだてて町の雰囲氣がまるで異なるのはよくあること。
そういう、境界線というのを上手く使えば、町や家、国づくりにまで至る
個と公や、開発する/そのまま残す、の共通不文律になったり、
たとえば僕の前の住まいのように、家は狭いが塀で囲われていないお蔭で
周りがみな庭のように広々と感じることもできる。

だけど、こういう境界というのは、コミュニケーション拒否のサインともなる得る。
もう、そういう時代じゃないから、心理的な壁に感じさせるものはなるべく用いず、
日よけ、風よけ、防音、調湿、プライベート空間の目隠し、など
暮らす上での機能的な境界線くらいにして、ほどよく周りの人たちと
助け合える住環境がよいと思う。他人の接触断固おことわり的な性格で
家の周りを要塞のように囲っていても、いざ何かあったときに頼りになるのはご近所だから。

縄文人はきっと、家に鍵も無くて、所有の概念がなく、みんな仲良く、旅人にも親切
(というよりも、縄文人そのものが、定住せずに日本を歩きながら暮らしていたという
説もある)、
その平和で豊かな人柄につけこまれて、大陸から渡ってきた弥生人に土地を所有されて
迫害されてしまったが、
そういう教訓を忘れないながらも、彼/女らから学ぶ点は山ほどありましょう。
何しろ、1万年の間、戦さの形跡もほとんど見られず続いた民族。
人に対して不信感ばかり持っていたら、楽しく生きられない。

風呂敷もまた、縄文時代から使われています。名称は分かりませんが、
織物をすれば四角い布ができて、風呂敷として、物を包んだり運んだりできる。
ふろしきの歴史=布の歴史です。

いずれにせよ、今度新たに引っ越すならば、ミシンなど作業用の部屋がありたい。
今回の風呂敷づくりでますます体が慣れたので、
来年あたりから、本格的に風呂敷の生産に入ろうかと。
もちろん、他では売られていない素材やデザインをモットーにします。

娘が誕生し自宅に着いて、ほっとしてはじまった僕の夏風邪は、
夜になると咳が出るという症状だけが長らく続きましたが、次第に減って、
ようやく今晩から、全く出なくなりました。自然の経過で治しているので
今後しばらくは大丈夫でしょう。
折しも、明後日9/9が誕生日です。

まだまだ、(珍しく)仕事に追われる毎日が続きますが、
次の1年は、よい変化に乗って参りたいです。
畑のできる新居や、丈夫で素適な風呂敷の生産など。

そんなこんなでも、誰しもいつか死が来る。
次世代の人たちにつながるものを、途中でもよいから
のこしておきたい。
生態系の安定した畑、風呂敷その他の生活技術、
時代によって変わる常識にとらわれず、真実を探ろうとすること。
周りの評判を気にするセツナの事なかれ主義にならず、
100年先を見通した未来志向で、仲間と助け合うこと。

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畑の野菜づくりは、手間がかかったり
上手く育たないこともあるのに、
庭や空き地には、目くらめくほどに
雑草が生い繁るのを見て、
あ これたちが食べられる野菜であったらなあと
つくづく感じる人もいらっしゃるでしょう。

こんなに元氣な理由は、神の定めし役割だから。
ただの土地があるとしたら、まずねこじゃらしのような一年草が生え、
次にススキなど多年草、そして落葉樹(陽樹)、
最後に常緑樹(陰樹)の林となって安定します(温帯の場合)。

そういう仕組みだから、草は自然に繁茂しますが
野菜はある意味部外者で、森へ至るプロセス上の
使命を持っていない。
条件を整えなければ、理に沿った草が勝つのは当然だ。

だからと、草を根こそぎ抜けば
野菜がよく育つわけでもなく、
かえって乾燥したり、虫の集中を呼びます。
野菜は仕組みの中にいない故に、土壌が安定していないと
自然の厳しさについていかれない。

安定した土壌は森にあります。一番は極相林(陰樹林)ですが、
厚くて数も多い葉の下は日蔭が多いので、
林の中ではなく、脇を畑にしたらよいです。
畑の北側に、樫や椎などの陰樹林があれば
日当たりは確保され、風を防ぐ。
樹の近くは、根による保水性もあって
朝露や夜露を生みやすく、栽培に適しています。
たった一本の樹があるだけで違います。

常緑樹(だいたい陰樹)は冬も葉があるため
小鳥たちの居場所にもなります。
すると、畑の虫を食べて糞を置いていくので
虫採りと肥料にもつながる。
周りに雑草も生えていることが、
過剰な養分を分散して吸収したり
虫の天敵の隠れ場にもなります。
草は抜くことなく、野菜に当たる日を
さえぎる部分だけハサミや鎌で刈れば、
土壌の構造を壊さず、保湿の機能も保ちます。

ただ、ヨモギなど多年草は 根が他を圧倒していくので、
イワンの馬鹿のように根ごと抜いたほうが
よい場合もあります。

一方、畑の南側にも樹があるとよいですが
こちらは落葉樹(だいたい陽樹)。
日が漏れるし、冬は葉を落として畑を光で暖める。
周りを樹で囲うならば、東も落葉樹、西は常緑樹(夏みかんなど果樹もよい)。

このように、樹がともにあると
風よけ、保湿、生態系の点でも
環境が安定し、人が作り出した、生命力のやや劣る
野菜でも育ちやすくなります。

森というのは山奥だけの話ではなく、
身近にあることが、
たくさんの有用な機能性で
心身に貢献します。

鉢植えの樹がそばに置いてあるだけでも、
何も無いよりは畑が安定するでしょう。

ことごとく除草したり、全面を平らに耕して
毎度畑をリセットをしなくても、
もっと自然の仕組みを生かした、健康で
効率的なやり方があるかもしれないと、
100年先を見据えて畑を作っていきたい。

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今日は、風呂敷を縫った後、息子と高尾へ行った。

高尾と聞けば、高尾山だから えっ 遠いじゃない?と思われるかもしれませんが
すでに自宅が豊田なので、ここから西へ3駅、とご近所なのです。

友達が住んでいるので、引越し先候補として雰囲氣を感じようと行ってみたのですが、
16時前は西日がぎらぎらです。

西日と朝日は、同じ赤外線ながらも波長が違っていて、
西日は酸化(熟成)させる光、朝日は生長させる光といいます。
浴びるなら朝日の方が体に優しい。

駅から5分の友達宅に寄って、調子のよくないというミシンを見ていました。
コンピュータミシンでなければ、中のホコリや糸くずを取ったり、
上糸と下糸の滑り具合を合わせれば、だいたい正常化するもの。
あれこれいじってみて、何とか普通に駆動するようになったころ、
外もやや涼しげな風になってきて、いざ高尾を散歩です。

山に登るときは、もう1駅(京王線で)乗って高尾山口からですが、
風景は山に川に、そして町なみは昭和な趣きを残す。

川沿いを歩きました。南浅川とあります。
豊田の自宅の近所の浅川につながっているのでしょう。
周辺は、公園的な整備がされていますが
川自体は、自然に近い状態が割合残されています。

放射能の問題がなければ、下駄履きの僕はそのまま入ってしまうに
違いない、流れが緩くて浅い、遊びやすそうな川です。
とはいっても、川は少しの雨でまるで様変わりしますので、
小さいお子さまは、大人がしっかりと保護しながら、
そして子どもも救命胴衣が不可欠と思います。
川辺や川底の土砂を採取して、きちんと行政で放射性物質の量(ベクレル)を
測定し、比較的安全な場所や、危険なホットスポットを明確にすることが
責務でしょう。

畑を借りたり、庭が広めの家があれば、高尾という町も
JRと京王線があって交通の便がよく、住みよいように感じました。
他、飯能や 変わって 横浜近郊も 候補としてあります。

受身傾向のある僕は、嫌なことが無ければなかなか移動しませんが、
100年先がイメージできるような住みかを求めていきたいと思います。

横浜の、川和町や寺家町も、行ったことはありませんが関心あります。


追伸

子どもは、外が暗くなると眠たくなるようで、
駅からの帰り道はおんぶしました。
体重計が壊れてから量っていませんが、今度の正月で4才となる
息子は、かなり前に15kgだったので、現在はもしや20kgあるかないか、
というほどに、ずっしりとしてます。
見た目よりも重いのは、密度が濃く、引き締まっていてよいことかと。

かぼちゃ天日に干して、見た目より軽いのが(水分が抜けて)甘いといいます。

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いつも、この思うママのブログにご訪問くださり
ありがとうございます。

いや~ やはり 植物は愛(め)でたき存在です。

ヨシの幼木に胸きゅん としたり
夏みかんの小さい芽からも噴き上がる芳香に腰を抜かし、
樫の苗木をなでながら、いつかの大樹を夢想、
クチナシの葉をもりもりと食べて、美しい薄水色をたたえた
オオスカシバ(蛾)の幼虫を観たり、

マイケルジャクソンの仰る通り、植物に接することは
優しい心を思い出させるようです。

でも、植物を好き過ぎるのが、逆に人間嫌いの裏返しとならぬよう

人もまた、植物を食べて、または植物を食べた動物を食べて
できた身体ですから、人も植物の結晶です。
植物は、大地と水とお日さまの結晶で、
これらによる生命循環の仕組みを、神といいます。

神さまは、たぶん  神社にはいません。


ちいさき草や虫も、ミネラルな石ころも、そして自分ら人も含めた
生態系、環境そのものが神なので、どこかの誰か、尊き存在というお方という
わけにはいきません。


さて  新しい本のための、4つのコラムを
先ほど、書き終えました。編集の方にいっぱい修正いただくと思いますが。

日々こうしてブログを書いているので、拙いながらも書き慣れてはいますが、

やはり確固とテーマが在り、加えて文字数制限もあるとなれば
ちょいと姿勢も変わってきます。一日中座り込んでてお尻が痛くなりました。
その合間の氣分転換のように、おむつを手洗いしたり、子どもと手をつないで
買い物にいきます。その日暮らし???なので、今日はアボカドを1個だけ買って帰りました。

もう1個欲しくなったらまた行けば、2人してよい運動になります。

そして、百日紅(さるすべり)といいながらも、いつか散るときが来るので
近所のその、ちょっと損しているような名前のお花を
息子と一緒に眺めています。ああ、庭木にいいな、サルスベリ。

一方といって引き合いに出すのもあれですが、ハナミズキは
猿滑りよりも名前がよいかもしれないけれど、外来種で、乾燥にも弱いので
街路樹や庭木には不向きのように感じる。
だけど、歌の人気や名前の響きのよさから、今もたくさん植えられている。
無理して生えるハナミズキを減らす愛護?の精神からも、
「鼻水樹」という漢字を当ててネガティブキャンペンしようかしら。

それは冗談としても、庭つきの一軒家に住んでいたお年寄りが天に召されたり
老人介護施設へ預けられたりすると、子や孫、親戚がいらして
元々の家を解体し、プラモデルみたいにすぐに家を新築して住む、という
パターンがよくあるが、2つもったいなき点がある。
1つは、家の柱など、再利用に値う立派な古材であれ、バキバキに解体してしまうこと。
土台や配管を直せば、そのままのおうちの方が今後も長持ちして
住みやすかったかもしれないかと。

2つめは、そこん家のおじいちゃんなりおばあちゃんが、毎日手や目をかけて
慈しんできた庭木も、たいていこま切れに伐られて、材として生かされることもなく廃棄される。
(家の柱は銭湯の燃料になるかもしれないが、生木は焼却場かチップになるだろう)

新築の庭に植え替えたり、材木として使えるように時期を選んできちんと切って
残しておくという選択がほとんどなさそうなのが、悲しい。
庭などどうでもよく、土地ぎりぎりまで建物を広げて、
あとは駐車場にするタイプの多いこのごろでは、
何十年もここで育ってきた樹は邪魔者でしかないかもしれないけれど、

せめて、冬の新月に切っておけば、それを裏庭に放置でもよいから
自然乾燥させて、家具などに充分使えるのになあ。
(生長する暖かな季節や満月周辺の日は、水分や糖質の関係で、かびや虫食い、変形しやすい)。
植物に対する畏敬や慈愛がなさすぎるようで、こういうことは
これから、意識を変えていかなければならないと思う。

神社に神さまがいると信じて願いごとをする前に、
自分たちの命を支えてくれている大自然に頭を下げようと。

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ペットボトルで育てていたヨシの苗木を、
料理には使えなくなったアルミの寸胴鍋に植え替えました。
この鍋は、2年前くらいに味噌の大豆を煮るために
合羽橋の実家で買ったのですが、確か洗浄にクエン酸を入れたのが原因で
底が錆びたようになりました。基本的に金属は酸で溶けるという常識を忘れていた。



高く伸びているヨシ。

僕のやりたいことに一つに、一軒家の周りに、ヨシの生えた堀による生垣を作りたい。
注ぐ水の源は、台所と風呂からの排水。
ヨシは窒素分を多く吸収し、水質浄化に貢献する。

そして、周りに水路や小川をくねらせて、ヨシと水のきらめく
美しい町を広げる運動もするのだ。

夏の日よけのよしずも、地域で生産できる。

人心を清めるには、その環境に美しい水が流れている必要があると考える。

いつか壊れて片付けも面倒な、でっかいビルを建てるよりも、
100年先を考えるならば
排水を浄化して、二次、三次と地域で利用できる
ヨシの水路をこさえるのが現実を直視した選択と思えるのだが、

いかにコストのかかりそうな形に見せて、費用を取り、
浮かして差額を多く取ろうとしか考えていない企業の多い現代。

こころを亡くしていない人がたが、各家庭から
地味に着実に、うねり続けていくのが肝要。

環境は、想像を超えて悪化する一方。
それでも首の薄皮をつなぎながら
何とか回復させるために、できることを続けて積み重ねることが、
ある静かな朝に、吉報をはこぶ。


追伸
自然に生えて伸びている、クチナシの鉢植えが路地にある。
今朝、地面に黒いぽつぽつが落ちていて、虫の糞のようなので
観察したら、おそらくオオスカシバ(蜂と間違われる、羽の透明な蛾)の
幼虫が、2匹もいた。アゲハの幼虫よりも長く、きれいな薄緑色。

ここに載せようと撮影したが、なかなか生々しい写真で、
いも虫が苦手な方はぞっとするかもしれない。
今度もし、もっと可愛く撮れたときに載せます。

素適なのは、鉢に対して伸びすぎている部分の葉を優先して食っているため
むしろよい間引きとなっている。幼虫にとっては、単に先端部の
葉が柔らかくて美味しいだけなのかもしれないが、
そうなる大自然の仕組みが神といえる。

小さい庭での園芸も楽しいが、やはりもっと広く、畑や植物とともに
生きたいので、遠からず、そういう処に引っ越すかもしれない。
そんな氣に乗ってきたので、体が導いてくださるでしょう。

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昨日は何とか、染めの土台となる風呂敷を20枚縫った。
ミシンは多少音なりするので、
長屋のタナコである我が家では時間帯を選ぶ必要がある。

今日は外出。
今号で、連載まる3年となる
自然育児友の会の季刊誌での『ふろしき王子のなみぬい工房』の
原稿を届ける。
自らの勉強のためにも続けているページです。

本日は珍しく、洋服と靴のすがた。
先日の撮影で用意したユニクロのシャツにズボンと
マリーナチックな紺の布靴。

普通ぽいが、例に漏れず 風呂敷を斜めに背負っているし
足を締め付けない軍足に、下着はふんどし。

さて はや9月に入り
夜はこおろぎが鳴いているし
緑色の稲穂も垂れ出して、
ヨシは天高く風を泳ぐ。
庭にはカナヘビ(とかげ)の子どもがちょろちょろ。
オンブバッタも肥えている。

日々の洗濯は、たらいに衣類と風呂の残り湯を入れて
足踏みして洗い、絞ってから新しく水を入れてゆすぎ、
多いときは洗濯機で脱水。
足踏み洗濯は、圧が効くのか汚れがよく落ちるし
体も疲れず、水遊び感覚で楽し。

先に体のたのしさがあってこそ
心も自然に楽しうなるだろう。

心の持ちようというのは奴隷を自己完結させる手法になりかねない。
汚れて悪臭漂う部屋でも、氣持ち次第で
すっきりいられるかといっても限度があり、
掃除をして、自然と清々しく感じられるのが普通だ。

心はコロコロ移ろうから、こころそのものの
コントロールは難しい。
体や周囲の環境を調えるほうが確かであるし
それこそが心身を結んで一致させる。

世の中には、色んな人間や人がいる。
共感できることは褒めたり、
理解できないことは
(本意や比喩、脚色を察せない場合も含めて)
批判したりするが、
本当にどうでもよいことには無関心となるから、
ファンでも、アンチでも
リアクションすることは対象にエネルギーを送り、応援になる。

演技であれば、劇場の悪役の俳優を
本氣で憎むことはないように
感情はすぐに冷めるけれど、
自然体に対しては、
心の奥にひそむ目論見や不安に基づく
好き嫌いの感情がつづく。

そういう意味でも、あまり自分を演じたり、
逆に事なかれ主義で、 毒にも薬にもならない
表現ばかり選択するのは
自分を亡きものにし 相手も無関心の、無色となる。

デザインせずに素直であるほど、透明だけど色がある。
たとえば透き通った青色のように。

透けていれば、第3者からの賞賛も批判も
素通りしてしまうだろう。
他人は他人、自分は自分で坦々と。

何かや誰かを好きすぎたり褒めすぎるのは、
嫌いで氣に入らないものが在ることの相対にすぎない。
共通の敵を作って仲良くなる国のように。

だから、嬉しいでも悲しいでも、感情の起伏が大きいのは
自分自身の不安定を意味する。

感情は胸だから、胸に重点(重心)のある者が
氣を昇らせると、頭に血が進む。
すると、今度はその感情を頭で論理的に解釈しようとするが
基点が胸という不安定な位置なので、
その論理も後づけの空論になりやすい。

感情のゆらぎを行動の指針にすると
同情を誘われて騙されたり、
的外れの対応になりやすい。
本当は寝不足がイライラの原因なのに、
全てを隣の喫煙者のせいにしてしまうとか。

感情や条件反射ではなく、
本当にそこに確かな実害が存在するかどうかで
問題であるかを判断すべき。

問題ではないことを問題と思い込み、
真の問題に氣付くことなく消耗していって
瞬く間に人生のついえることのないよう、
自分自身も改めて襟を正そう。

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ふろしき本新刊におけるコラムを書くにあたって
内容を箇条書きにしているところですが、
本日の連続投稿は、おそらく、これから文章を書くための
ウォーミングアップとして、体が自然にこう導いているのかな。


僕のブログの内容は、ふろしきの件があまり多くなく、
お庭の生き物だとか、そこから環境問題に広げたり、
縫い物、歩くこと、料理などと、一見一貫していないように
見えるかもしれませんし、自分でも引き出しはバラバラと思います。

逆に、人間によっては、料理なら料理、アロマならアロマオンリー、
ヨガならじゃすとヨガ、星うらないなら星うらない、というように
ひとつのテーマに対して律儀に沿っている、そういうブログなり
活動なり、作品の表現をするほうが多いでしょう。


だけど、個人的には視点が多いほうがよいと思っていて、
たとえば、水道管が古くて、実は赤錆だらけの水を
日々飲んでいて、もしかしてそれが元で体調が優れないかも
しれない人がいるとして、
その人が、たまたまアロマテラピーにはまって
「私には香りが足りなかった!アロマで無限の美と健康をとり戻せる」
として、アロマの勉強と実践に励むこと、それは
とても素晴らしいことであるし、本人の氣が乗っていることは何よりも
心身に好影響があるとは存じますが、

「アロマできっちりと調えておけば、全て上手くいく」とくくってしまうと、
飲んでいるお水を、ちゃんと味わえば錆の匂いがするかもしれないのに
その感覚までもフタがされかねない(アロマというのは、一つの例であり
個人的にアロマは好きです)

例を変えれば、自然食を志向する方の中にも、
「玄米菜食をきっちりと貫いているから、何もかもうまく行くに決まっている」として、
他の、基本的なプロセスのつめを甘くして、かえって周りに迷惑をかけないともいえない。


まあ、だとしても、ブログならブログ、仕事なら仕事で、あるテーマで
まとめようとするのは、自然な感覚なのかもしれません。

だけど、一つのテーマだけで連ねていくのは、僕には不自然さや
無理している、演じているように感じられてしまう。

確固たる核心があれば、表面的な表現形態が変わることに違和感を感じないはずで、

逆に、表面的なパッケージングで統一しつづけなければならないというのは
自らの中心に、核が無いことの表れといえないか。

たとえば、何でもかんでも、鮮やかな紅色の色調の作品を発表する
アーチストがいたとして、そのコンセプトが「命」であったとしても、

命は紅色でしか表現できないともいえないので、
全て紅色で統一するというのは、やはり核が無いために
表面を揃えないと身もふたもない、ということであり
命というコンセプトも後づけさくさくと思われても仕方ない。

青でも表現できる。白でも。透明でも。猫でも。にわとりがモチーフでも
命を表現できる。砂つぶでも、カレーでも、ほうきでも。

第一、命という抽象的な言葉ひとつで自らの核心を表せるはずもなく、
言葉に置き換えられる時点で、表現する意味をなくす。

自分でも分からず、言葉にも表せないけど、れっきとして自らにある泉から
湧き上がる作品は、紅色の表現とフォーマットを決めることも
かなわぬほどに自由であるけれど、底の土台は、えもいわれぬ安定感がある。
それゆえ、どのようなスタイルを選ぼうが、ままに、自然に振舞える。
それが本来、生きること=芸術であり、
全部紅色でイこう!って設定することは、洗練はされても創造的とはいえず、
むしろデザイン(設計)の範疇でしょう。

僕だって、「おし!あたきはこれから、風呂敷で生計を立てていこう!!」と
はじめに決めて活動をすることになったのなら、もっともっと
計画的に、風呂敷の展開を設計して、世に繰り出していたかもしれないが

はじまりが、単に学生時代に使い捨てゴミを減らすために
個人的な趣向で使っていただけのところに、
受身的に、結び方を披露されたしと依頼を受けて
出向くようになったものだから、

ブログにしても、戦略的に、 講座に呼んでもらえるように、とか
風呂敷がたくさん売れるように、こういうターゲットが
心理的にこう感じるように、ほのかに誘導されるには
こんな風に記事を仕立てていこう、 とは書いておらず

マイブームだけで、庭のカエルとか、ヨシとか書いているのです。

それで、現在は確かにふろしき関係で、お蔭さまで仕事になっているのですが
めっきりと呼ばれなくなれば、何とか復活しようともがくことも、
仕方ないと嘆くこともなく、マイペースの自然体で
そのときのマイブームを追究しているでしょう。

そんななのに、一見ばらばらなマイブームが手を結んで
互いに向上させ合うことがあるのは、どれも基点が僕の重心(中心)の
足裏あたりから発されていて、核を共にしているからでしょう。

夏には夏の、冬には冬の役割がある。
挙動はまるで異なるけれど、同じ一年の環を共にする。
輪の中心にはお日さまがいる。
自分の奥の奥にある、お日さまに正直に生きる。
そのためには、何かを演じてては、ずっと冬、とかずっと夏、となり
地球(自分自身)は壊れるだろう。

仕事だからって、その世界のみにアンテナを張って表現するのは
その人のほんの一部分しか見えてこなくて、嘘くさくなる。
しかも、たとえどんなにその分野を掘り下げて熱く語ろうが、
本意は、ちょっとした端々に表れて、野性を内在する
人には見抜かれてしまう。

僕だって、誰でも閲覧できるブログであるから、
書く内容は、逐一判断して、書いても載せなかったり
削除することもある。ただし、はじめからこのテーマだけで
書こう、と決めることはしない。
こういうのを、ポジティブフィードバックともいって
この一歩を出さないと次の一歩が見えないという、
目的目標点が無い代わりに、虫探しのように
自分で発見する楽しさがある。
日本人は目標中毒だ。

何か、夢や目標を立てて、それに向かって進まなければならないという。

でも、本質のところは、一歩一歩が完成されていて、その一歩ごとに
スケールが大きくなっていくことだと思うので、
分け隔てなく、優先順位も付けず、全ての瞬間の愛を奏で響かせていくことが、
勝ち負けを超えた花を咲かせることになる。

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裏庭に発砲スチロールの箱を置き、
増えすぎた水草などを入れておいたが、

ここ2,3日は水の減りが早く、とうとう今朝は
ほぼ水が枯れていた。
小エビやメダカが少なからずいたのを救い、

水草を他の容器に移してから
箱を裏返すと、
発砲スチロールながら、虫に食い掘られたような小穴が
たくさん開いていた。それがついに貫通して決壊したのだろう。
底に穴とは、まるで原発とリンクしているようだ。

虫が発砲スチロールを食すとは思えないが、
巣穴のように掘り進んだのかもしれない。

猜疑心の深い人間なら、近所の住民の嫌がらせと思ったかもしれないが
問題の原因というのは、対立する敵ではなく、想定外にある。
たかをくくっていたわけでなくても、まさかということがあるから、
はじめから、安定という視点を持つべきでしょう。

安定という意味では、猫が引っ掻いてもポロポロ落ちてまう
発砲スチロールを使うというのは、やはり一時しのぎであるから
陶器のカメや睡蓮鉢のほうがよい。

発砲スチロールを使うにしても、
置く場所が土まるだしではなく、
小石のようなものを敷き詰めた上に
角材などですのこ状にして
水はけや通氣をよくしておき、
さらに箱の周りは厚手のビニルなどで覆ってから
しっかりとロープで巻いておくとよい。
やはり日本では風通しが命だな。

庭の田んぼも発砲スチロールを埋めているが、
確かに水の抜けが早い箱がちらほらあり、
実際、毎年新しい箱をスーパーなどからもらっている。
来年の田植えからは、発砲スチロールは卒業して
プラ舟など、もっとがっちりした容器に進化させたい。

話が少し変わるようだが、

おそらく戦争というものも、スケールの大小を問わず、
何かトラブルがあったときに、裏庭のさらに裏側の石の裏から
誰にも知られずに発されている毒素のごとき全く目立たないものに
氣付くことなく、
その原因を、かねてより憎んでいた対象のせいだと思い込んで
疑心暗鬼を濃くしていき、ちょっとしたきっかけから、
むしろ戦争をしたい人間たち(それが利益につながる業界など)が
タイミングを計ってけしかけることで起こされるのかもしれない。

要するに、内政問題の憂さ晴らし的に、弱い(見下している)相手に八つ当たりして
追いつめて戦争状態に発展させることになりますが、
そういうことは、国同士のみならで、友達や家族の間でも起こり得ること。

既に嫌なことが2つ重なって内心イライラしている人間に、
何か些細なことであれストレスを与えたら、
その最後に事を起こした人が全ての厄の元のように攻撃されてしまう。

だから、怒るという感情は自然なもので抑える必要はないとしても、
反射的に怒るのではなく、ひと呼吸、ふた呼吸おいて、
それでも、相手のためにもここはひとこと伝えておかなければ
全体的な損失になるという場合に、冷静に怒るという姿勢が大切で、

そうでなければ、怒りの原因は、最後の一滴でコップからあふれさせた
事案ではなく、既に、むしろ日常の自分の習慣化されている
心や行動の嘘によるストレスの蓄積が、コップの大部分でしょう。

そして、とても問題なのは、自分が知らずと潜在的に
見下したりしている、弱い(弱く見なしている)相手に
怒りや憎しみを当てがちなので、正義心での怒りに見えても
実際はただの弱い者いじめにすぎないことが怒りの表出の99%でないかと。

溜まりに溜まったストレスを、自分より弱い者に対して
さも正当な言い分をつけて攻撃しているのを
本人のために叱っている、しつけている氣になっている人間が
非常に多いのではないか。
その怒りはもちろん相手のためにもならず、相手に新たなストレスを
加えるだけで、負の連鎖を生みかねない。

たいてい、自らを抑圧しているものがあるとすれば、
それは自分よりも立場が上という意味での強い人間によるものだ。
そこに、死を恐れぬ勇氣で歯向かおうとするならよいけれど、
近代における支配側というのは悪賢さに長けているのが
支配側たるゆえんだから、
上に対して抗議の行動を起こしても、噛ませ犬のような役割の人間や
対応があてがわれ、ガス抜きで終わらせられる可能性がある。

まず、自分の日常における心身を安定化させておくこと。
重心の低い土台から発せられる感情や行動には、
自我を超えた大地、大自然の法則にのっとっているという
揺るぎない理がある。
すぐに結果や賛同が得られずとも、そのように、自分を媒介した
大宇宙のぶれない真実を愚直に歩んでいたならば、
必要なタイミングで、ことはなるように、よきに運ばれるでしょう。

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今日から9月!

ちなみに9日は誕生日です。


今月は、人生の中で5番目くらいに忙しくなるかな?(5という数は勝手に決めた)

・風呂敷を100枚以上、縫って染める作業
・掃除、洗濯(おむつ含)、炊事
・水やり
・新しい本のイラストやコラム


と、書いてみれば 日々愚直にたんたんと続けていれば
何とかなる(あとは天が決める)だろうから
むしろ、今後はもっと忙しくてもよいという思いをこめて
今月は生涯で20番目に忙しい月、に訂正いたします。

先日、ユザワヤから生地が125メートル届いた。これをひたすら
・裂く(ハサミで裁たず、薄手の生地なら3cmほど切った後に糸目で裂くほうが正確ではやい)、
・縫う(祖母が、足踏みミシンの本体を机からはずして、モーターを付けたもの。重いけど長持ち)、
・染める(このたびは、生大豆の汁ですりすりと大量に墨をすったもので、書初め用の太筆で直接描く。
    字の得意な妻に依頼)




大きめのミシン糸は傾いてしまうので、


ヨシの茎(中が空洞)を芯にはめたら都合よい。



昨日は10枚縫いましたが、今日は何とか15枚以上はいきたい。
その合間に、おやつのホットケーキを焼こう。

粉は、近所の製粉所で北海道の地粉(道産粉・どさんこ)を
5kg単位で買っている。スーパーよりも安くて新鮮。
小麦は米に比べてミネラルが少ないので、それだけでは主食にならず
あれこれ混ぜたり、発酵させて栄養を増すことになります。

今日のホットケーキには
粉 油少々 重曹 みりんかす(酒粕の味醂版。甘みと芳香)
塩 水をこねて、フライパンで両面蒸し焼く予定。

妻は本日、クリームチーズが食べたいというので後でそれを乗せる。

こういう、毎日のこと、洗ったり掃除したり食べたりは、形には残りにくいけれど
(食べ物は子どもの成長という形ではのこるが)
だけど、細胞レベルでは遺伝子に刻み込まれ、また、宇宙の何か見えない
データバンクのようなところには残るのだろう。

それが、また想像もできないような形で、見ず知らずの存在に
お互い影響を与え合っている可能性があるから、
日常の繰り返しの、地味で目立たない、せつな的なことであっても
いっこいっこ大切に扱おう。

たとえ、いつか地球が死ぬときが来ても、
この星の上で育った植物を誰かが糸にして、
織って、縫って ふろしきになって、
そのいちまいの風呂敷を、ひとりの女の子が結んだ瞬間に
生まれたちいさなきらめきは、いずれ
宇宙の新しい星を形づくるエネルギーになるでしょう。



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