十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

天地創造

2016年04月25日 | 佛教
一神教では神が天地を創造したという。
天と地のような広大ものが、人間のような複雑なものが、どうしてできたのか。自然にそんなものができあがるはずがない。超越的な力を持ったものが造り上げたに違いない。
その力の元、その力の持ち主を人格化したものを神としたのである。

そのような力を考えるのはよい。そのような力を信仰するのも悪くはない。

一神教の良くないところは、その力を人格化し人格神としたところである。

あまりにも人間くさくて、人間の持つ性格、悪徳も一杯有している。妬み、怒り、従う者と従わない者へ扱いの差が酷過ぎ等。

自分が造ったものなら、そのことに責任を持つというのが全うな人間だし、神なら尚更というものである。

神に背くようなどうしようもない出来損ないの人間こそ救済の対象としなければならないはずである。それだって神が造ったのではないのか。神なら救済できるはず、全知全能なのだから。

今、世界中を騒がせテロを起こしている連中は、神、神と言いつつ、神の裁きを信じず神の代わりをしようとする。これなんか神を冒涜する行為と言わなければならないだろう。 日本の軍歌に「天に代わりて不義を討つ」なんて歌詞があったが、こういう不遜な精神を懐いたから戦争に負けたのだと言えるのだ。

さて、佛教では天地創造ということはいわないが、佛教としての天地創造を考えてみたい。

天地とは前から述べているように十方世界のことである。十方世界は自分が生まれて来ることによって展開する世界である。生まれて来なくても世界は存在するという主張もあるだろうが、たとえ、世界があってもそこに自分がいなければ何の意味もない。いや、意味がないということすらないのである。

生物にとっては「生命があって、その周りに独自の世界が展開する」、つまり、それぞれが世界を持っているということなのである。何もの、何ごとも「命あっての物種」である。

そこでどのように天地創造するかということであるが、外界からその時その場の状況を五感により情報として取り入れ、頭の中にそのイメージを貼り付け、イメージの世界を作り上げて行くことなのである。

具体的な例として新生児からの発達過程を考えてみると分かり易い。誕生した時、五感のうち目以外はちゃんと働いているようで、目の視力は0.1で、20cmくらいまでならやっと見える程度らしい。数ヶ月経つと0.6くらいの視力を得る。

赤ちゃんの初めの世界には、おっぱいとお母さんの顔くらい、後はぼんやりとしたものだが、段々と認識できるものが増えてくる。世界が広がってくるのである。やがて、教えられた言葉と実物とが結びつき、物の区切りがはっきりしてくる。物を知り言葉を覚えることにより、世界が広がると同時に明確なものとなっていく。

これが佛教的天地創造である。生まれてからこの方、我々は時々刻々天地創造を行っているのであり、その世界の中心で生きているのである。



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