戦国動乱の時代を生きた直江兼続の物語、NHK大河ドラマ「天地人」が昨日で終了した。
いつの時代も動乱の時代、現代もその真っ只中というべきだろう。天も動き地も動く、それに合わせて人も動く、忙しなく動く。であるから人は落ち着かない、不安定で不安を感じる。どこかの動きを止めなければ安定しない、安心はない。
動かぬものに身を寄せたいが、大地は動かぬものの代表だが地震で動くこともある、自然は決して優しくない。天も動き放しで嵐も吹けば雨も降る。人の世は浮世、どこに流されるか、分かったものでない。
果たして不動の頼りになるものがあるだろうか。国、社会、会社、家族、金、権力、神、仏などどれもこれも不動と言えたものではない。皆、動くのである、都合よく動くとは限らない。「他に依止するものは動揺す」で、他を頼りにすればその頼りが動揺すれば自分も動揺せざるを得ない。
そんな万物流転する中で動かぬものがあるだろうか。そう、たった一つ動かないものがある。「今、ここ」という一点である。何処に赴こうとも「今、ここ」は「今、ここ」、この一点は動かない。自分のいるところが「今、ここ」であり、「今、ここ」にしか居りようがない。「今、ここ」は時空の中心点、この一点を中心として時空は展開しているのである。時間については過去は過ぎ去り未来は未だ来たらず「今」しかないのだし、空間は「ここ」を東西南北上下に展開している。
この不動の一点は誰にでもある、誰もが持っている。誰もが時空の中心にいるのである。誰でもであるから平等であり、普遍である。前に挙げた諸々は持っている者と持っていないものがある。不平等であり普遍とは言えないものは、頼りにならないものである。
いずこに赴こうが、どんな目に遭おうが「今、ここ」を見失わない生き方、これが釈尊の説かれた「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」の生き方である。自らとは「今、ここ」にいる自己、法とは一切法、何から何まで、つまりは時空のことである。
私の言い方で言えば、「時空の中心をキープせよ」である。
神たら仏たら言うものも所詮は自分じゃないつまりは「他」、アテにはならない、帰依することなかれだ。そんなものに折角の自分の人生を任せてはならない。