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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

天地人

2009年11月23日 | 生命

  戦国動乱の時代を生きた直江兼続の物語、NHK大河ドラマ「天地人」が昨日で終了した。


 いつの時代も動乱の時代、現代もその真っ只中というべきだろう。天も動き地も動く、それに合わせて人も動く、忙しなく動く。であるから人は落ち着かない、不安定で不安を感じる。どこかの動きを止めなければ安定しない、安心はない。


 動かぬものに身を寄せたいが、大地は動かぬものの代表だが地震で動くこともある、自然は決して優しくない。天も動き放しで嵐も吹けば雨も降る。人の世は浮世、どこに流されるか、分かったものでない。


 果たして不動の頼りになるものがあるだろうか。国、社会、会社、家族、金、権力、神、仏などどれもこれも不動と言えたものではない。皆、動くのである、都合よく動くとは限らない。「他に依止するものは動揺す」で、他を頼りにすればその頼りが動揺すれば自分も動揺せざるを得ない。


 そんな万物流転する中で動かぬものがあるだろうか。そう、たった一つ動かないものがある。「今、ここ」という一点である。何処に赴こうとも「今、ここ」は「今、ここ」、この一点は動かない。自分のいるところが「今、ここ」であり、「今、ここ」にしか居りようがない。「今、ここ」は時空の中心点、この一点を中心として時空は展開しているのである。時間については過去は過ぎ去り未来は未だ来たらず「今」しかないのだし、空間は「ここ」を東西南北上下に展開している。


 この不動の一点は誰にでもある、誰もが持っている。誰もが時空の中心にいるのである。誰でもであるから平等であり、普遍である。前に挙げた諸々は持っている者と持っていないものがある。不平等であり普遍とは言えないものは、頼りにならないものである。


 いずこに赴こうが、どんな目に遭おうが「今、ここ」を見失わない生き方、これが釈尊の説かれた「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」の生き方である。自らとは「今、ここ」にいる自己、法とは一切法、何から何まで、つまりは時空のことである。 


 私の言い方で言えば、「時空の中心をキープせよ」である。


 神たら仏たら言うものも所詮は自分じゃないつまりは「他」、アテにはならない、帰依することなかれだ。そんなものに折角の自分の人生を任せてはならない。 

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永遠の生命

2009年09月11日 | 生命

 宗教に嵌っている人がよく使う言葉に「永遠の生命」というのがある。どんなものかと聞いてみると、死んでも死後の世界というものがあって、そこで生き続けることができる。この世の所業によって天国や地獄に行き、そこで永久に生き続けることになると言う人がいる。また、未来永劫生まれ変わるのだと言う人もいる。


 どちらにしても個体が永遠だという話である。諸行は無常だし、万物は流転する、生じたものは必ず滅するのである。この道理をわきまえず永遠の生命なんて簡単に言う。「死んでも命がありますように」という願望が生んだ妄想なのである。道理に反する願望のあるところにインチキ話の供給者が現れる、宗教家である。有りもしないしないあの世とやらの偽情報を流し、無知な大衆から金を巻き上げているのである。


 個体が永遠ということは絶対ないのである。
では、永遠の生命というものがないのかというと実は有るのである。


 人でも物でもあらゆる個体は個体性と全体性を併せ持っているのである。全体性とは何か、個体は個体それ自体では存在し得ない。たとえば身の回りに空気が密着してある、外せない。地球の引力が働けばこそ今ここにいる、これまた外せない。大きくいえば宇宙全体の力が働いているからこの身は存在しているのである。


 逆にこの個体がなければ全体もない。今現に有るものをなくすることはできない、ないことにすれば全体はバランスを失い全てがなくなってしまう。


 しかるゆえに個体は個体性と全体性を併せ持つというのである。


 個体的生命が永遠であることは絶対ない。全体なるものこそ永遠である。全体なるものは個体的生命を中心にして展開しているのである。 

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身体を作る力

2009年08月04日 | 生命

 若田光一宇宙飛行士が地上へ帰ってきた。無重力で長期間過ごしたので地上の重力のかかった生活に戻るために長期のリハビリ要するらしい。無重力では骨量が減少し骨粗しょう症状態になる。重力が生命保持に大きな影響を持つことは明白。


 しかし、無重力状態でも人間の身体を一定の形状に保っているのは電磁力の働きなのである。原子を結びつけて分子を作るのも電磁力、分子を結合して有機物質を作るのも電磁力、それらの物質を結びつけて細胞を作るのも電磁力、脳神経内を情報伝達する電気信号もまた電磁力、複雑な電磁力の働きによって生命は生きているのである。


 死はこの電磁力の働きがバラになることである。バラになったものが元の働きを取り戻すことはない。生まれ変わりなどあろうはずがないのである。


 

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脳死は人の死

2009年07月05日 | 生命
 臓器移植法のA案が衆議院で可決し、参議院に送られたが慎重意見が多くて簡単にいかないようだ。死の定義することに引っ掛かっているようだが、人間としての機能を失い回復の見込みがないことを死とすればいいのであって、脳が死ねばそういう状態になるのだから脳死が死でいいのである。

 脳死を死と認めない、認めたくないという人は自分が脳死状態に陥ったことを考えればいいのである。いつまでもそんな状態を続けたいであろうか。私ならノーである。断じてノーである。

 脳死状態で生かしておくことは、その人にとって苦しみでしかではないではないか。チューブをいっぱいくっつけて寝たきり状態、正常に脳が働いていれば痛い、苦しいに違いない。その状態を長く続けることは残酷なことではないか。
 チューブだけではない、周りに親、子、医師、看護士等がくっついて動きがとれない。治療費だって多くかかって多くの人がそれを負担している。そこまで頭が働くなら「もういいよ」というに違いない。

 まあ、一昔なら脳死状態に陥れば皆、短時間のうちに死んだのである。 
 
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千の風になって(考)2-追記

2009年02月13日 | 生命

千の風になって(考)2に追記します。


 実際には水が全て海に流れ込むわけでないし、かき混ぜて均等にするわけにもいかない。広範囲にわたって均質化するには相当長期間を要する間違いない。


 一方、人体を構成するのは水だけでない。残りの30~40%は酸素、窒素、炭素、カルシューム、その他ミネラルなどがあるが、それらも微粒子として分散し新たな命の構成要素となるのである。


 四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)の教えの集諦について、かくの如くの考えを取り入れると滅諦への繋がりがよくなるのではないかと思量する。

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千の風になって(考)2

2009年02月12日 | 生命

 千の風になって(考)にコメントをもらったのでもうちょっと考察を膨らませてみたい。

 

 人が死んだらどうなるか。構成要素がバラになる。バラになったものが新たな生命の構成要素となる。その循環が地球上で地球的広がりの中で行われているのは容易に想像がつく。それがどの程度のものか、深く追求されたことはないと思う。

 

 分りやすくするために水を例にとって考えてみよう。ネットを閲覧していたらいいのがあった。

 

 コップ一杯の水を全世界の海水に混ぜるという記事。
コップ一杯180ccの水を海水に注いで均一になるようにかき混ぜたとして、そのコップで水を汲んだら元のコップにあった水の分子はいくつ戻ってくるか。 答えは700個というもの。

 

 さて、死体に含まれる水分子の量は体重の60~70%、痩せた死体が多いだろうから、50Kgの人の60%として30Kg。コップの水の166.7倍。700個にこの倍数を掛けると116,690個

 

 次にそれを生まれたから死ぬまで人体を循環する水分子の数も考えてみよう。
 一日に必要な水分摂取量は2.5Lといわれている。
2.5L×365日×80年=73000L(Kg)

 

コップ一杯当り   700個×73000/0.18=28389万個
水分量30Kgの人には  473億2446万個
子供など1日2.5Lも摂取しない人も多いし、話半分としても途方のない数となる。

 

 御釈迦さんの寿命は80年、その身体を廻った水分子がそれだけ常時自分の身体に来てるとなると感慨が深い。

 

 「千の風になって」に話を戻すと、雪や鳥を〇としたのは、ご理解いただけると思う。
 光と星はそうはいかない。人間が出した空気中の水分や炭酸ガスの影響の屈折が変わったりすることは考えられるが、無視できるものでしかないと思う。とても太陽光や星になるとは言えない。

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千の風になって(考)=死んだらどうなる

2009年02月10日 | 生命

 「千の風になって」は2006年に秋川雅史の歌声でヒット、秋川はこの曲で紅白に3年連続で出場を果たした。

 この歌は人が死んだらどうなるか。従来の宗教の説く死後の世界で個体として生きるという考え方、個体が別の個体として生まれかわるという考え方、また、死んだらお終いという考え方もあるが、それらとは別のあり方を示している。


 多くの人に共感を呼んで、経済的事情もあって墓なんかいらないと人も増えているようである。かくいう私も墓無用論者である。「遺骨」なんて有難がっているが、要するにカスである。骨なんてものは生きている時は新陳代謝して老廃物して捨てられてしまうもの、10年も経てば全部入れ替わってしまうのである。
そんなものに手を合わせてみても仕方がないと思う。


  そこで、歌詞を検討してみよう。


≪私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています≫


 ここまではOKだが、次がおかしい。

≪秋には光になって 畑にふりそそぐ≫      ×
≪冬はダイヤのように きらめく雪になる≫    〇 
≪朝は鳥になって あなたを目覚めさせる≫   〇
≪夜は星になって あなたを見守る≫       ×

 星や畑にふりそそぐような光にはなれない。親に死なれた子供に「お星様になった」というようなメルヘンになってしまっている。 
雪や鳥になるのはあり得る話であって、これは私の採るところで「そうだ、そうだ」と言いたい。


 ”一滴の水も大海に入れば大海となり、一塊の塵芥も大地に埋もれば大地となる”


 我々はどこから生まれてきたのか、母なる大地、大海から生まれてきたのである。大地、大海は命の根源。死ぬとはその大地、大海に帰ること、つまり大地、大海になることである。その大地、大海から新しい命が生まれてくる。鳥も雪も風も生まれてくるのである。


 星や畑にふりそそぐような光は地球の外からの話なのでそうはいかないから否定せざるを得ない。

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宇宙一杯の生命

2009年02月08日 | 生命

毎年の年賀状には内山老師をまねて人生詩もどきのものを書いてきた。平成16年の年賀状には次のようなのを書いた。

 宇宙一杯の生命


物質の最小単位である素粒子には四つの力が働いている
強い力、弱い力、電磁力、重力である
うち、電磁力、重力の影響範囲は実に無限大である
一個の素粒子は宇宙のあるゆるものと繋がっているのだ
ゆえに
一個の素粒子は宇宙全体の力で支えられ、
一個の素粒子の力によって宇宙全体が支えられている
素粒子の塊である私の命は宇宙一杯の広がりをもっているのだ
私の命の中に日月星辰森羅万象一切のものが存在しているのだ


 この詩もどきはへたくそであるが、言っている事は大したことを言っているのである。 


  そもそも、仏教は自己が根本、その中味は縁起である。
縁起とは仏教の中心思想で一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えで因縁生起の略である。


 ところが一般に縁起の考え方が限定的で漠然としているようである。 十二因縁にしても普通言われるところは縦の流れが繋がっているだけだが、それぞれに周辺条件があるわけだし、その条件にもそれぞれ縁起があるのである。。


 もう6,7年も前になるが、本屋を覗いた時科学本の中に四つの力のことが書かれていた。驚いたのは電磁気力と重力の影響範囲が無限大であることである。


 無限大ということはどういうことか。この自分と遠く離れた星々ともダイレクトに繋がっているということである。地球上のものは地球に引っ張られ地球という塊として太陽に引っ張られるということではないのである。力の総和が見かけ上地球の中心にあるだけで直接太陽とコンタクトしているのである。


 太陽の中の1素粒子と自分の中の1素粒子はいかに微小な力であったとしても相互作用している。その結びつきは分離不可能である。
  「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」という縁起もこの力あればこそなのである。何故縁起なのかその答えは四つの力があるからということになる。


(参考)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)から


 素粒子の相互作用、自然界の四つの力、相互作用とも。


(おことわり)一部記事の貼り付けを行いましたが、文字色の変更ができず背景色と同系の色なので読み取りが困難です。削除いたしました。上のリンクから直接ウィキペディアをご覧いただければと思います。

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ぶっ続きの生命

2009年02月04日 | 生命

 内山興正老師から生命の実物、つまり世界ぐるみの自己を教わった。ただ、当初は自分とは関係なく世界が動いていてそれを体験するだけ、繋がりがもう一つ感じられなかった。
 見えるものは確かに自分の体験だし、自分のありようで見えるものもそのようにある。それは確かに自分の世界だと思えるし、以前のように自他の別がはっきりして孤立していた時とは明らかに違ってはきたがすっきりしない状態が続いた。
 
 長年宿題として抱き続けてきたが、これを解決したのが、やはりお釈迦さんの縁起という考え方、
 「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」


 具体的には「三億分の一の確率」で書いたように、世界は非常に微妙精緻にできていてちょっとした物事の動きが伝播し、それが増幅されるような仕組みなっていることに気がついた。


 この世の一切のものは皆のっぴきならない関係で皆繋がっている、たとえば、あなたと私、あなたがいなければ私はいない。私が存在しなければあなたの存在もない。今日の日本でもっともとんでもない人間といえば、麻原彰晃でしょうが、私がいて麻原彰晃がいる、麻原彰晃がいればこそ私もいる。繋がっているのである、のっぴきならない関係なのである。

 そんなことと思われるかもしれないが、証明は簡単である。自分というものを否定してみればいいのである。生まれてからのことを全て否定してみればいいのである。自分だけでなく自分が関わった一切のものである。それは全宇宙を否定することになるのは容易に想像できると思う。

 過去にもヒトラー、スターリン、毛沢東、トルーマンなんてとんでもない人間がいたが、彼らが存在しなければ私の存在はない。また、御釈迦さんや道元禅師といった方々もいなければ私の存在はない。

 とにかく、過去現在未来、存在するものは全てのっぴきならない関係で繋がっていて無限の広がりを持っているということなのである。 

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チェンジ!自己革命の勧め

2009年02月01日 | 生命

  今日テレビを見ていたら、”革命”という言葉が流行ってきているらしい。ゲバラの映画が上映されている影響からだろうか。


 革命とは辞書によれば、「易経(革卦)」による。「革」はあらためる、「命」は天命の意」とある。私が「自己の生命体験によってある世界」を縷々述べてきたのも自己の生命のあり方を単なる一個体でなく世界ぐるみのものに切り替えることなのである。”革命”の勧めなのである。


 個体としての自分なんて、生まれて生きて老いて病んでそして死ぬ、残念ながら永遠ということはない。全体なるものこそ永遠なのである。

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過去・現在・未来

2009年01月22日 | 生命

 過去は過ぎ去り今はない。未来は来たらず今はない。現在は過去と未来挟まれてしかも幅がない、幅のないところに刻々と一切のものが展開している。


過去はどのようにあるかというと、我々の頭の中に過去の情報が記憶として蓄えられているだけ。未来は予想、予測としてこれまた頭が描きだしたイメージとしてある。


さて、現在は今この瞬間、五官で捉えられた情報を頭が情報処理して認識したものですでに時間がかかっていて、今そこに存在していると思っているものもすでに過去のものである。気がついた時にはすでに過去のもの、つまりはないのである。


過去もなく、未来もなく、現在はとらえようがない。ないもの、とらえようないものをあるがごとく見せるのは生命の働きである。生命が時間というものを造り出しているのである。 

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自己曼画

2009年01月11日 | 生命

私が昭和45年秋、内山興正老師のところへ行った時、老師の本で初めに読んだ本「進みと安らい(自己の世界)」の中にある「自己の構造」を図示されたものです。
本には解説があるのですが、ここでは図だけでお示しします。それとなくお解かりになるところもあろうかと思います。







自己にとって生命体験がなければ世界はない。植物人間には認識できる世界はないから世界はない、目覚めたところで世界が現れてくるのである。

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<生命>は爆発だ!

2009年01月07日 | 生命

今日は何の日。
20年前、昭和天皇が崩御された日で、陵墓で行われた行事に天皇を始めとする皇族や麻生首相などが参加したそうである。しばらく公式行事に参加していなかった雅子皇太子妃が久しぶりに参加されたとか、少しはよくなられたのだろうか。


1996年に亡くなった岡本太郎画伯の命日でもある。
岡本太郎は大阪万博会場の太陽の塔の作者で有名だが、TVなどでの変った言動が面白い人だった。
「芸術は爆発だ」が有名。


さて、岡本太郎は芸術が爆発だが、私は「生命は爆発だ」といいたい。自分を核にして瞬間瞬間連鎖反応が起こる、その波動は地球を覆い宇宙の彼方まで広がっていく。

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三億分の一の確率 2

2008年11月26日 | 生命

 前回相手3億の競争を経て人間が生まれてくると書いた。
 中央競馬のフルゲートは18頭、それの単勝つまり1着を当てるだけでも中々難しいものである。万が一、万に一つという言葉は普通の会話にもよく使われるが滅多にあることではないという意味で使われる。


 三億分の一の確率とは、万が一×万が一の3分の1であるからまず絶対あるべきことではないと考えるのが普通である。統計的には100万分の1で可能性がゼロということなのである。


 過去へ時点を遡れば遡るほど確率はどんどん下がっていく。生まれるはずもなかったのが生まれてきた、奇跡なのだろうか。
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三億分の一の確率

2008年11月24日 | 生命

 自分がどのように生まれてきたか考えてみたことがあるだろうか。
 両親の生殖行為の結果生まれてきたことぐらいは誰でも知っているがそれはどのようなものか。


 母親の体内で精子と卵子の結びつきで受精卵ができて、子宮内で細胞分割を繰り返し次第に大きくなって十月十日後誕生となる。


 ここで問題とするのは精子と卵子の結びつきまでである。
 性交時に男性から1回に放出される精子の数は3億といわれる。そのうちの一つが卵子と結びつくのである。3億というとたいそうな数という気はするが大方の人にとってピンとこないのではないか。


 そこで3億の精子を米粒に見立てるとどうなるか見てみたい。かつて内山興正老師が1勺の米粒を数えてみたことがあり730粒あったそうでその数を使ってみる。


 すると、3億の米粒の体積は約7.4立方メートルとなる。これを例えば4畳半の部屋に敷き詰めると高さ1m になる。その米粒一つ一つに尾っぽをつけておたまじゃくしのように 動き回っていると想像してみるといい。その中からたった一つが選ばれるのである。これほど強烈な生存競争はない。


 ヨーイドンで一斉に飛び出して卵子めざしての競泳。真っ先かけても駄目で、先駈けするのは皆討死にする。女性の身体には細菌等の異物を排除する防御機能がはたらく。前の精子が切り開いた道を後ろの精子が進ん
で行く。力も必要でもあるが展開にも運にも恵まれんと優勝は覚束ない訳である。


 最善のコースを最善のペースで 泳ぎきらなければならない。その瞬間その瞬間に確実にその位置におらなけ ればならない。非常に微妙だから母親の体の動き一つで位置は変わってしまう。たとえば前日に蚊にかまれたような軽微な出来事でもその有る無しで生まれる子は違ってしまいます。


 自然界の仕組みは微妙精緻で極微の動きも増幅されて新しい生命がそこから生まれてくるのである。死んでから自分だけが生まれかわるのではない。生きている命からその分身として新しい命が次々と生まれてきているのである。一切衆生皆我が子なのである。

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