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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

自己世界図(改)

2015年01月17日 | 生命

以前、自己世界図をアップしたが、今回のもっと分かり易い形に作り直しました。

四角い部分が部分が真実世界、丸で囲った部分が事実世界です。四角の上に丸が載っていると見てください。
真実世界は自己の周りに展開する真実の世界で無限の広がりを持っています。日月星辰森羅万象、何もかもその中に包摂されて全てが網羅されています。当然我々もその中でその一欠片として存在しているわけです。
一欠片ということではその辺に転がっている石ころも同じです。ただ、石ころは宇宙の法則で状況により転がっているだけですが、人間は物事に対する認識を持ち独自の意志で行動できる能力を有しています。生命力を持っているのです。どうしてそのような能力が得られたのかはここでは問わないことにしましょう。

人間は真実世界の中で真実を体験しつつ真実を生きています。しかし、この真実を体験するというのが結構厄介なのです。何でもって把握するのかというと五感です。五官(眼耳鼻舌身)というセンサーを用い視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という感覚を得て周囲の状況を把握しているのです。
でも、この五感で捉えたものは狭い範囲に限定され、曖昧で、歪んでいるのです。
分り易い例として家の中にいて落雷に出会った時のことを考えてみましょう。真実の出来事として「落雷」が近所でありました。そこから「光」「音」が発生します。まず、光が眼に届きます。網膜に映し電気信号に変えられ視覚野で<光>と認識されるのです。「光」から<光>は時間もかかっていますし、<光>は光そのものではなくて頭の中で作られてイメージになってしまっています。そこで私は「光」を真実、<光>を事実と言いたいのです。
ここで<光>だけ認識されても<光>だけの話です。「音」も同時に発生したのですが、光速より音速の方が遅いのですから当然「音」が耳に届くのは遅れます。鼓膜を震わし同じように聴覚野で<音>が作られます。この<光>と<音>を合わせ、過去の記憶と照合し<雷>と認識されるのです。

つまりは、どんなものでも認識された事実、それがイメージとして描き出されるのです。これは真実とは程遠いものです。私の眼は以前書いたように近乱老乾白緑です。これでは碌な見え方をしていない。マサイの戦士の5.0の視力とは大違いです。
しかし、マサイの戦士の目をもってしてもよく見えていない。虫眼鏡をかざせば見えてくるものがある、それだけの情報がそのものから発せられているのに解像度が足りないのです。

それにそもそも大方の物そのものではなく反射光を見ているに過ぎないし、発せられるその光の極々一部しか眼に入ってこないのです。光を発しているようなものは大概眩しくてそれもまた全容を把握することはできません。

そんな五感で捉えたイメージを頭の中に次々と映し出しているのです。それを順次ビデオを撮るように頭の中に記憶していっているのです。そんな記憶の断片を年表のように地図のように頭の思考空間に並べているのです。インデックスは言葉です。

太陽といえばいろんな体験によるイメージが記憶されていますが、それを抽象化し一つの太陽として認識しているのですが、富士山でのご来光という個別の記憶された太陽も呼び出せるということです。

そうです。今現に体験している世界、それ以外の頭の中に記憶された体験世界、他者からの情報に基づきイメージする世界、荒唐無稽なイメージだけの世界、そういったもので彩られているのが頭により認識されイメージ化された世界なのです。これを私は真実ならざる事実で出来た世界、事実世界と呼ぶのです。

つまり、船や飛行機が霧の中でレーダーを頼りに航行するようなものなのです。闇夜に懐中電灯を頼りに夜道を歩くようなものです。向こうに何があるか記憶された情報が頼りなのです。

命あるものはそれぞれ独自の体験の事実を持ちそれを頭のスクリーンに投影して世界を描き出しその中でそれを頼りに生きているのです。そうとしかできないのです。

ところが誰も真実を認識として捉えたことがないので、事実を真実と誤認してしまっているのです。知りもしないのに知ったかぶり、それを素に動きまわるのだからモメも事故を起こってくるわけです。

内山興正老師の言葉に「思いは幻影 行為は現実 結果は化けて出る」というのがあります。

「思いは幻影」つまり事実を真実と見誤ることです。「行為は現実」行為するということは真実を動かすということです。「結果は化けて出る」予想外の事実展開があるということです。

老師の話で思い出されるのはこの話。丁度寒い時ですからついでに披露しておきますと、
寒い日に夜道を歩いていたら、何かに引っかかって転倒した。何だとよくみると財布だった。財布が道に凍りついている。たんまり入っていそうな財布だがなかなか取れない。そこでグッドアイデアが浮かんだ。腹の下の方に温たいものが溜まっている。それを放出し氷を溶かし財布を取り出したところで目が覚めた。財布は夢で小便は現実、ふとんは洗って干さなければならない。
私の今回の話では、財布は実物はなく夢の事実、小便する行為は真実、布団干しは行為で真実、それら引っ括めで体験事実ということになります。

つまり、真実中に真実を生きているのだけれど、皆、いい加減不十分な形で頭の中に取り込まれイメージ化されてそれを真実と思い込んでしまっているということです。内のスクリーンに映されたものを外の世界のように思い込んでいるのです。

認識された世界は自己の内の世界なのだと認識すべきなのです。それは自己が作り上げた世界です。良い悪いは別にして世界を創造しているのです。天地創造を私が、あなたが現に刻々行っているのです。その世界の中で生きるのですからどんな世界を創造するか、人生の一大事です。 

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独楽2

2014年12月25日 | 生命

年賀状を一昨日印刷、昨日添え書きをして本日投函した。
今年は年賀状を交換している本人が亡くなったという喪中はがきが1件もなかったが、初めての経験である。

しかし、喪中はがきもおかしなのがよく来る。家族が亡くなれば1年間は喪中だからとはがきが来る。
1年間喪中は服忌令では実父母だけなんだが・・・。誰に対してどの期間どのように服喪するのは勝手なのだが、折角の年賀を止めるのは如何なものかと思う。

吾輩の親父は4月に亡くなったが、親類以外喪中はがきを出さなかったし、正月も普通にお祝いをした。天寿全うしたのに服喪もないと思ったからだ。

服忌令は今日有効なものではないが、服喪の期間の参考にされるとよい。配偶者以外姻族は関係がない。この間も妻の兄がなんていうのが来ていた。

参考:服忌令
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/fukkirei.htm

さて、独楽で思い出したことを書いてみる。
まず、内山老師のことである。老師は創作折り紙の創始者で折り紙の名人である。いや、老師は名人の師匠なんだから、「俺神様」(オリカミさま)なんて笑いながらいっておられた。
晩年には折り紙で独楽を作って回して楽しんでおられたのを思い出す。
親父さんが家紋を折り紙で作るということをされていたので、それをヒントに作られたということだった。

折り紙というのは認知症予防に有効ということだ。折り紙、お手玉、けん玉が有効とためしてガッテンでやっていた。けん玉をやってみようかなと思っている。

認知症&受験に勝つ!脳フル回転する昔遊び
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/fukkirei.htm

 

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自己世界7ー出会うところ我が生命

2013年11月06日 | 生命

今日は自己世界の中味について、考えてみる。

法華経の譬喩品の言葉に、『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子』」 (今この三界は、みなこれ我がものなり。そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子である)

三界とは欲界、色界、無色界の3つ。欲界は欲望の世界、その欲望のない物質だけの世界、無色界とは、その物質の存在を超えた世界ということで、早い話が自己世界のことである。

その世界は我がものである。その中のあらゆるものは皆我が生命の分身としてある、ということを法華経は説いているのである。それを内山興正老師は「出会うところ我が生命」と表現された。

この言葉は実に素晴らしい。嬉しいこと、楽しいこと、つらいこと、苦しいこと、皆、自己の中で起こっている、それを体験しつつ生きている、自己でないものは何もない。この言葉に従えばどんな境遇も受け入れることができると思う。

この言葉を知ってから、ずっと事あるごとにこの言葉を耳鳴りさせてやってきた。私の呪文である。

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自己世界6

2013年11月03日 | 生命

先に認識力をロウソクやプロジェクターの光に例えたが、似た話を思い出したので書いておきたい。

法華経の序品に釈尊が無量義処三昧の禅定に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれている(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。白毫(びゃくごう)とは佛の額にあるポッチのことで、あれは白い毛の塊である。

佛というのは光を放つ存在であるようである。金身つまり金ピカで光り輝いているし、光背というオーラがあったりする。佛光明という智慧と慈悲の光でその世界をを照らしていてそれが浄土といわれるものである。

我々もまた周囲にプロジェクターで光を発しているが、佛のように清浄なものでないから照らし出されたその世界も汚れたものとなる。、自己世界はどんな光を発するかで決まってくるのである。

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自己世界5

2013年10月31日 | 生命

自己世界は五感による世界が基本だが、以前外部からの光や音等の情報を頭で情報処理し心のスクリーンに投影しているのだと書いた。

スクリーンというと映画館のスクリーンを思い浮かべるが、あんな白い平面のものではない。どちらかというと、インジェクションマッピングの方がぴったりする。インジェクションマッピングとは、その映像を見られた人も多いと思うが建物なんかにその枠に合わせていろんな映像を投影し見せるものである。東京駅や大阪の中之島公会堂で行われたのがよく知られている。

たとえば、目の前に人の顔があるとすると、その顔から発せられた光情報を眼で捉え、その信号が脳に送られ脳で情報処理されてその結果がその元の顔に投影されてその人がそのようにあることを認識するということになる。

そうでないと距離感というものが出てこないし、一体感が得られない。

見たり聞いたりするものは、心のスクリーンに映ったもの、つまり、心の影、ないと思えばないというようなものではない。たとえば、向こうから自動車がやって来る、ないと思えばないと避けずにじっとしていれば車に轢かれるか、バカヤローとどなられるといった仕儀となる。実物はちゃんとあるが、それに自分の造った映像を載せているのである。

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自己世界4

2013年10月25日 | 生命

このブログの読者にはぜひ自己世界を持ってもらいと切にのぞむところであるが、まだもう一つピンとこない人があるかも知れない。そこでそれを実感できる一法を示してみたいと思う。

ロウソクを用意して部屋を暗くする。
ロウソクに火を灯して部屋の中でじっとしている。
ロウソクの光に照らし出された世界がそこに展開してくる。
つまりはロウソクの世界である。光の加減でその世界の様相は変化するのもよく分かるはずである。
そのロウソクを自分に見立てるのである。自燈明するのである。
どんな光を放っているかと認識力という光である。光の届いたところから反射光が帰ってくる。つまり、これは法燈明である。

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自己世界3

2013年10月17日 | 生命

台風26号は各地に大きな爪痕を残しましたが、皆様のところはいかがでしたでしょうか。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。

今日は五感世界について、もう少し補足してみたい。

大概、この五感世界に皆,自信を持っているようで確かに見た、聞いた、これが現実だと思い込んでいる。ところが澤木興道老師の言葉に次のようなのがある。
「よう真実、真実というが俺の見た真実でしかない」
目で見た現実というのは、自分の目の癖で自分の視点からその時の光線加減によって物の表面を見たに過ぎない。
光線が目に飛び込んでも近視、遠視、老眼、乱視等眼に異常があると網膜に像が正常に結ばれない。網膜にも盲点があり剥離があったり、脳への伝達路にも脳の情報処理にも必ずしも正常と言えない。
五感というものは思っているほど確かなものではない。
そして、自分の都合に合わせて見たいものに焦点を合わせるようなことを日常茶飯に行っているのだから、まあ、いい加減なものでしかない。

それに外界の状況は把握する時、どうしても物理的壁が立ちはだかっている。たとえば、落雷を例にとってみると、まず稲妻が光り時間をおいて雷鳴が轟く、その認識にはどうしてもタイムラグが出てきてしまう。
光った時が落雷の瞬間かというと光線といえども届くまでには時間がかかっているし、網膜に結んだ像を脳に送り認識に至るまで頭の中で時間がかかっている。

太陽を見た場合だと、見えている太陽は8分ちょっと前のものだし、その時現実の太陽は既に位置を変えてしまっている。
今ある太陽は絶対見ることはできない。その位置するところは想像するしかない。

そんな太陽や雷が自分の体験する太陽であり雷である。それは自分の外の現実をいえるものではなく自分が作り出した内なる現実なのである。

そんな自己世界を生きるしかないのである。そんないい加減なものは駄目だ、何とか真実の世界を知ろうとするともうそこに自分の手が加わったものになってしまっているのである。

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自己世界2

2013年10月08日 | 生命

先に自己世界の有り様について書いてみたが、今回、分かりやすいように図にしてみた。世界がこのような同心円状であるはずもなく入り混じりのモザイクのようなものだが、図示しにくいのでこのようなものにした。空想領域なんかは現実離れした中に浮いたようなものである。。

下の方に「宇宙」と記した太線の枠の内側が宇宙とする。宇宙内では宇宙の法則が働き、それを構成する諸々のものが無数に存在する。太陽も地球も自分もその一つとして存在している。もちろんその辺に転がっている石ころも物の大小はの宇宙の一欠片としてあってその点では他の物と変わりはない。石ころは黙ってただ石として存在しているだけだが、生物は認識力を持ち自動する。最もその能力に長けたのは人間という生物である。

さて、人間はその宇宙をどのように把握しているかということであるが、まず、五感で今ここの状況を把握する。五感によりとらえられたその世界というものに我々たいそう自信を持っているところだが、見ること一つとっても1視点からその視力で興味に従い焦点を合わせたもの、そしてその表面しか見ていないのである。

その向こうはというと、過去に体験し記憶したものが広がっている。記憶はあいまいだし、過去の状況だから現状は程度の差はあれ変わってしまっている。

そこでその変化したところ、足らないところは記憶をベースに推測したものを現実の世界としているのである。たとえば、春にある場所を体験したとする、ところが今は秋、春見た桜の花はない。花のないその場所をイメージする。つまり、頭の中で加工したものを現実としているのである。
テレビでライブ放送を見ているといった場合もこの範疇に入ってくる、写真や文章による描写などもこの中に入ってくる。

その他は不明領域、つまり、見たことも考えもしない領域が広がっている、これが99.・・・・・・・%である。

宇宙は実なる世界だが、人間というのは想像力豊かな動物で想像でいろんなものを作り出し、それで自分の世界を構成する。それが一時的なものなら、単に空想を楽しむだけのものだが、持続的なそして現実のものとしてしまうのが病気であったり、宗教であったりする。

神であったり、天国とか地獄とか、死後の世界とか生まれ変わりとかはその世界の範疇である。

まあ、いずれにしても人間の認識力では宇宙という真実の世界を知ることはできない。認識力の範囲が自己の世界である。その世界の中で生きている。しかし、真実を生きていることもまた事実。

つまり、捉えようもない真実の世界の中で頭で捉えた自己世界を持って生きている。そして、大概の人はその自己世界を自己独自の世界とは思わす真実の世界と思い込みその中の1員として生きているということである。

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自己世界

2013年09月30日 | 生命

この度は自己の世界に書いてみよう。

自己の世界は内山興正老師が図示した下図のようなものであるがもう少し掘り下げて考えてみたい。


まず今この瞬間、自分の部屋でパソコンをいじっているとする。そこで体験する世界といえばまず五官で捉えた世界である。眼で見、耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、そして触れて感覚する世界である。
 
その場合見る世界は自分の今いる場所から自分の視力で捉えたものであり、この周囲の状況は自分だけのものであるのは自明である。たとえ、よく似た双子が頬をくっつけあって同じ方向を見たとしても決して同じ景色とはなり得ない。
 
自分独自の世界を時々刻々五官を駆使して体験しているのである。独自体験する世界を自分が持っているとも言えよう。
 
例えれば飛行機や船舶がレーダーを映しだしたり、カーナビ付きの自動車を運転するようなものと考えればよい。
 
「行き先に 我が家ありけり カタツムリ」という句があるが、何処に赴こうとそこが自分の世界ということになれば、安心というものである。
 
さて、五官で捉えた世界は当然五官の範囲に限定されたもので、たとえば部屋のにいればそれだけの空間でしかない。それ以外のところはどうなるのか、壁の向こうにも世界が広がっているはずである。
 
今、見えていないものであっても当然あるはずである。それはどういうものか、過去に体験した記憶されたものが呼び出されそれによって構成される世界なのである。記憶されのは当然今ではない、過去のものである。過去の体験を今呼び起こしているに過ぎないので実際はどうか本当のところは分からない。また、記憶違いや細かいところまで記憶されているとは限らずそのディテールはあいまいなものである。
 
頭に記憶された情報が心のデイズプレイに投影れたものが外の世界なのである。そして、
分からないところは想像で補って、世界認識としているのである。
 
つまり、確かに宇宙という実世界があることは間違いないのだろうが、認識力が働いたところが世界が我々の世界なのである。
 
認識されたものだけで世界ができているのではないとの反論が聞こえそうである。確かに人間の認識力なんかしれたもので、知らないところが圧倒的だが、そのように認識する程度の世界となっているという話なのである。
 
だから、この世界は自己世界というべきものだが、皆、それが共通の世界と思ってしまっている。既成的出来上がった世界にその1員として生まれてきたのが自分だと思い込んでしまっているのである。人それぞれが独自世界を生きているのに共通世界だと思っているところに認識の齟齬があるのである。

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時間延長型宗教と空間拡大型宗教

2012年05月15日 | 生命

 宗教には2つの型がある。一つは時間延長型宗教でもうひとつは空間拡大型宗教である。
大概の宗教は時間延長型に属している。人の一生は誕生してから死ぬまでだが死んでからも生き続けるというもの。死後の世界を考えそこで生き続ける、あるいは生まれ変わることを考えるものである。生まれ変わるというものは今生きているのも生まれ変わりだからとさらに前世をいうものを考える。
 
 遠い昔の人間が冬枯れで枯れた草木が春になると花が咲き葉や枝が繁茂してくることを見て再生を信じたのであろうが、それを人間に当てはめるのは妄想でしかない。しかるにそんな考えが延々と受け継がれてきているのである。ちょっと考えれば誰も死後の世界を体験した者はいないのだから、天国だ、地獄だ、生まれ変わりだということの信憑性は全然ないことは明白なのに信じ込んでいる。

 何故、信じるのか。死にたくない思い、死に対する恐れがそうさせているのである。
そんな死後の世界を説く宗教が幅を利かせているのが現状であって、それを支えているのが善男善女である。

 もう一方は空間拡大型宗教。生命が肉体に限定されず無限の広がりを持っていることを説くものである。釈尊の説かれた佛教がそれである。一言でいうなら「無我」である。
無我とは肇法師の言葉が分かり易い。「己無し、己ならざるところ無し、天地同根、万物一体」己と一切のものは宇宙の果てまで皆、繋がっているということである。宇宙全体を生きているということである。つまりは釈尊の説かれた縁起の理法である。
 
 このことは前にも書いたが、現代物理学のいう「素粒子の持つ重力と電磁力はその影響するところは無限大である(基本相互作用)」ということから証明されるのである。

 この道理からすると、無縁とか無関係というものは一切ないのである。その辺に転がっている石ころ一つでも宇宙全体の繋がりの中で存在しているのであり、それを否定すれば宇宙のバランスは壊れて宇宙もなくなってしまう。粉々に粉砕しても宇宙の中に存在していて宇宙の外に放り出すことはできないのである。

 一切のものとのっ引きならない関係にあるということはどういうことか。何かが存在しているだけで周囲に大きな影響を与えているということである。そこから新しいものが連鎖反応的に生まれてくる。あらゆるものは自分の分身なのである。このことによって自己生命の永遠性も自覚できるというものである。

 さて、結局、個体的生命の永遠性を信じても、全体的生命の永遠性を信じてもあくまでも生きている間のことであって死ねばその思いが消えてなくなるのである、生命が死後も存在し続けることは有り得ない。今ここで死後を含む未来をどう見つめて生きるかということである。しかし、虚構によるか真実によるか、天地の差があるといえよう。 

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生命の源は宇宙から

2011年08月16日 | 生命

8月13日のテレ朝NEWSでの報道によると、

「地球の生命は宇宙で誕生した」と結論づけるかもしれない証拠が見つかった。

 アメリカのNASA=航空宇宙局などの研究チームが、南極などで見つかった隕石12個を調べたところ、DNAの成分の一つであるアデニンやグアニンを発見した。隕石からは採取された地域に存在しない成分も大量に発見されていて、研究チームはDNAの成分が地球に落ちた後、隕石についたのではなく、宇宙で形成されたのは確実とみている。DNAは生命の設計図とも呼ばれていて、今回の発見は、生命の源が宇宙から飛来したとする説の根拠にもなりそうである。

映像
http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210813034.html

そうすると、アデニンやグアニンがどのようにしてできたか、新たな謎が湧いてくる。
まあ、目下のところ私がいつもいっているとおり宇宙全体の力でできてきたという他はない。

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自信

2011年07月12日 | 生命

 今の日本人の多くは自信を失っている。内憂外患を抱かえて立ちすくんだような人が多過ぎる。先行きが見えずに元気を無くしている。

 それというのも自己がない。自己がないから他から揺り動かされ易い。自己が確立していないのである。

 で、自信を持つには絶対間違いない、不動の立脚点に立つことである。そんなものがどこにあるか。

 今、自分が絶対的に確信することは何かということである。それは自分が今生きているということである。それは明日太陽が昇るより確かなことなのである。太陽が昇ることを疑う人は誰もいない、誰しも絶対的に確信することのように思えるが、これはそうではない。何となれば自分が存在しなければ自分にとって太陽が昇るとは言えないし、時間も場所も不明なら確かめようもないのである。

 自分が今生きているということは、今誰しも確信できることである。まともな人間なら俺は死んでいるなんてことはありえない。

 今生きているということは、五官が働いていることである。中には4官、3官の人がいるかも知れないが。五官が働いて生きていること実感できる。そして自分の周りの世界の認識する。認識するからあらゆるものが存在するのである。認識しないことは存在することにならない。

 自分がいて自分の世界がある。この確信が自信である。

自分がいて自分の世界がある。このことを日本臨済宗の開祖栄西禅師のこう述べておられる。

「天地、我を待って覆載(ふうさい)し、日月我を待って運行し、四時我を待って変化し、万物我を待って発生す。大いなるかな心や」
 覆載:天が覆い、地が載せる  四時:春夏秋冬  心:いのち

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時空の中心点をキープしよう

2011年02月10日 | 生命

 過去は過ぎ去り今はなく、未来は来らず今はない、過去と未来に挟まれた現在は幅がない。過去現在未来と流れる時間を1本の羊羹のようなものと考えてみると、現在はその切り口みたいなものです。切り口を開いてみると片面が過去で、もう一方が未来ということです。現在という切り口が刻々に動いて未来が即過去となる。
 その幅のない現在が時間の中心であることは間違いない。 

 空間も自己はここしか体験できない。体験する空間は自己を中心として東西南北四緯上下つまり十方に広がっている。中心を移そうとしても移したはずのところが中心となっているのである。
 船がレーダーを持ち、車がカーナビを持つのと同様である。位置するところが必ず中心となる。

 自己生命は必ず時間的にも空間的にもその中心点にいるのである。本来そこから絶対はずれることはないのである。

 ところが外してしまうのである。頭がそれをやらかすのである。大阪にいるのに東京にいるがごときことを考える。生まれる前にも、死んでから後にも我が身を持っていく。

 皆、迷いなのである。

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オレは宇宙人

2010年05月01日 | 生命

 今朝、出かける前に少し時間があったのでTVのチャンネルを回していたら、NHKで立花隆が小学生を相手に教室で話をしている場面があった。

 「宇宙人はいるのか」と子供たちに聞いたら、7割方の子が「いると思う」に挙手、2,3人が「いない」、残りの子は手を挙げなかった。「宇宙人はいるか」と聞かれると大概はETみたいなものを想像して、いるか、いないかを考えるのだと思う。

 鳩山首相も宇宙人を呼ばれるが、あれは浮世離れしていて宙に浮いた人格や思考傾向を持っているところが理由なのだろう。そもそも我々が右往左往している浮世というのが大自然の地盤から宙に浮いたところなのに、それより浮き上がってしまっている存在としてのエセ宇宙人では、浮世をコントロールできようもないというべきだろう。

 トボけた首相や空想上の宇宙人の存在は認めがたいが、宇宙人は実在すると考えるべきである。去年の4月10日私は私のことを宇宙人だと言ったことがある。宇宙が137億年かけて、その全力を尽くしてこの私を生み出したのだから、当然宇宙人を呼ぶべきものなのである。私だけではない、生きとし生けるもの、その辺に転がっている石ころに至るまで宇宙が造り出したものだからである。石ころ一つに宇宙のようなドえらいものが137億年もかけているのである。今の私の満年齢は67歳であるが、宇宙年齢は137億歳である。

 立花氏の話も宇宙人は存在する。我々皆んな宇宙人なんだと言っていたが同感である。

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小惑星の衝突

2010年03月05日 | 生命

 今朝の朝日新聞に6550年前の恐竜絶滅原因が小惑星の衝突であったということが12カ国チームが結論づけたという記事が出ていたのでメモっておこう。


 メキシコのユカタン半島に直径10~15Kmの小惑星が秒速20Kmで衝突、衝突時のエネルギーは広島型原爆の10億倍、発生した地震はマグニチュード11以上、衝突地点(当時は海)の津波は高さ300m、一千億~5千億トンの硝酸塩が大気中に放出され長期にわたり太陽光が遮られ、酸性雨や寒冷化により生物の約6割が絶滅した。


 地球上の生命誕生は38億年前、以来我々の祖先はこのような危機を乗り越え生き延びてきた。38億年にも及ぶ生命の連鎖、それを安易に断ち切らんが如き行為が横行しているのはいかが考えるべきか。

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