前に「命の重さ」で個々の命は宇宙全体で支えられていると書いた。個々の命、いや石ころ一つにだって宇宙の全体の力が及んでいるのである。
そもそも自分の生みの親は人間の両親というだけの簡単なものではない。ましてや神様がポンと創り出したという簡単な話でもない。
宇宙がその全力を使って137億年かかって生み出したものなのである。
前に「命の重さ」で個々の命は宇宙全体で支えられていると書いた。個々の命、いや石ころ一つにだって宇宙の全体の力が及んでいるのである。
そもそも自分の生みの親は人間の両親というだけの簡単なものではない。ましてや神様がポンと創り出したという簡単な話でもない。
宇宙がその全力を使って137億年かかって生み出したものなのである。
今日の朝日新聞の読者の声欄に久しぶりに目にする言葉が出てきたので、それについて書いてみる。
それは「人の命は地球より重い」という言葉である。
田母神俊雄航空幕僚長が「我が国は侵略国家だったなどというのはぬれぎぬである」という趣旨の内容で懸賞論文に応募したことに反対意見を述べている中に出てくる。
この「人の命は地球より重い」はもともと誰が言い出したのか私には分らないが、1977年に起こった日本赤軍によるダッカでの日航機をハイジャック事件時に、超法規的措置として服役中の過激派や爆弾魔を釈放した時、福田赳夫首相が言った言葉として有名である。それ以前は1948年に最高裁判決の中で使われたということである。
さて、人の命ってどれくらい重さなのか、まず体重でみるとギネス載ったメキシコ人男性は560Kgだとか、小錦の倍、私の10倍以上。いずれも一人の人間だとするとこの人無駄なものをいっぱいくっつけているなあという印象、要するに食い過ぎだ。
で、そんな体重をどう支えるか。例えば私は今椅子に坐ってタイピングしている。私の体重を椅子が支えている。しかし、椅子自体で私を支えることはできない。椅子を床が支えているから椅子は私を支えられるのである。床は建物に支えられ、建物は地面に支えられ、地面は地殻に、地殻はマントルに、マントルは外核に、外核は内核に支えられる。と考えていくと私は地球全体によって支えられている。
その地球だって単独には存在し得ない。太陽系に支えられている。太陽系は銀河に、銀河は銀河群に、銀河群は銀河団に、銀河団も大規模構造の中にあり支えられている。大規模構造は宇宙全体に支えられてある。
要するにこの身は宇宙全体の力がなければ支えられないということになる。
とすると、「人の命は地球より重い」という程度では、いささか軽い扱いとなるのでないか。
視点をどこに置くかで見えるものの様相が変わる。しかし、自分においては視点は常に「今、ここ」。この一点は動かない。不動である。
いずこに赴こうとも自分のいるところが中心になって、そこから世界が展開している。自分が自分の世界の中心なのである。
行く先に我が家ありけり かたつむり
物が存在することは、そこに心意識の働きがなければあることにならない。
その辺に転がっている石ころだって、そこに我々が認識すればこそあることになるのであって、誰にも知られない石ころは石ころに心意識の働きがない以上、存在を知られることなく、ただだまって存在しているだけである。いや、石ころという以上認識されていることになるので、それこそ何ともないことになるのである。
認識されなくても存在するものがある、あるはずだという考えも当然あるであろうが、それは「ある、あるはず」という認識程度に存在しているということである。
存在するもの=物×心
生命領域という言葉は一般には使われていない。 私独自の言葉としてここでは自己生命が一体感を持ちうる領域と定義する。
たとえば小さくは家族であったり、家であったり、会社であったり、団体や地域であったりする。大きくは国や地球、そして宇宙まで広げることができるであろう。
自分という個体だけでは生きていくことはできないから、誰でもこの生命領域を持っていることは容易に知れるはずである。日常の営みはこの生命領域の拡大、維持に費やされていると考えてもいいわけである。
しかし、他者を押しのけ拡大する領域というのは相手を打ち負かす闘争が伴いますし、それには必ず限界がある。逆に相手の押されて縮小せざるをえない破目になることもある。
生命領域を他人を押しやることなく広げる方法はないのか。そう考
えるとだいたい領域を囲っているから囲った範囲に限定されるので囲いを作らなければそれこそ宇宙全体にまで生命領域を広げることができることになる。
それを教えるのが仏教で、実践が修行ということになる。
「仏法(生命の実物)は無量無辺」
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元薬師寺管長 橋本凝胤はなかなか面白い昭和の傑僧の一人である。断言坊主とあだ名されるほど断定的にものをいう、つまり「決定(けつじょう)の説」の吐く和尚だった。
秀逸なのは「人はどうあれ、オレは天動説だ。それで何の不都合もない」と嘯いていたとのことである。
東大の印度哲学科を出た人だから、科学的真理としての地動説は教養として勿論承知している。しかし、仏教の世界観は違うのである、仏教僧としてその世界観で彼は生きて来たというわけである。
私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽系の外に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。
一方、我々はその動く地球に乗っかって視点をそこにおいて、そこでいろいろ体験していて生きている、視点はいつも自分のいるところに固定されている、それが現実なのである。
朝、日が昇る、これは地球が東の方向に回転しているのだと実感するであろうか。日の出、日の入りで生活のリズムを刻んで生きているのである。何万年も人間はそれで生きてきたのである。地動説なんかで生きてはいないのである。
世界の中心は視点のあるところである。天も地も自分を中心として動いているのである。カーナビ付きの自動車に乗っているように。
盂蘭盆会という行事が全国的に行われる時期になったが、考えてみるとおかしな行事なのである。
盂蘭盆会は盂蘭盆経が基になっていると伝えられるが、そもそも盂蘭盆経はニセのお経なのである。本物のお経は皆インドで作られたものであるが、盂蘭盆経は中国で作られたもの、これを偽経(ぎきょう)というのである。
偽経でも延命十句観音経のようにすぐれたものもあるが、盂蘭盆経の内容は、要するにウソ話なのである。文字通りの偽経である。どのような内容かはネット上で検索を掛ければ出てくるからここでは省略するが、早い話が追善供養を勧める話である。
坊ンさんに拝んでもらってこの世で縁者が供養すればあの世の亡者が良いステージに行くという話で、あの世に亡者が存在しているのも確認できないし、坊ンさんにそれだけの能力があるとも確認できない、坊ンさん自身もそんなことを思っていない。ムニャムニャ言っておればお布施になる。施餓鬼や檀家周りで丸儲けという時期なのである。
迎え火、送り火もおかしなことなのである。死んで49日で往くべきところへ往ってしまっているというのが仏教の教えである。坊ンさんは葬式の時に戻りのない行くべきところへ行かせているはずである。これを成仏という。成仏した者が亡者の格好で帰ってくることはないのである。
しかるに帰ってくるということは往くべきところへ往かせていない、ということになる。高い戒名料を払ったり、お布施弾んだのにである。
整形外科医が整形に失敗して、整形のやり直しを何回もやっているようなものなのである。
それに「ありがとうございました」と言っている。
まあ、この時期先祖のことを思うのも悪くはない。先祖も親、祖父母、曾祖父母あたりぐらいしか知らないし、後は伝説の先祖に思いを致すぐらいであろう。
で、今年はこんなことを考えてみては如何と思う。
自分には親が2人、その親に2人ずつ親がいる。一世代遡るごとに先祖は2倍になる。1,2,4,8,16,32,64,128と順に10世代遡ると約1000倍になる。一世代25年として250年前には1000人の先祖がいたことになる。500年前には百万人、750年前にはその千倍で10億人、1000年前には1兆人の先祖がいたことになる。
勿論、それだけの人口があるはずもなく、ものすごい数の重複がある。誰かさんともどこかで共通の先祖を持っていると考えていいのである。
また、ミトコンドリアDNAの遺伝状況を調べると現代に生きる世界中の人々の母系先祖は6万年前だか7万年前だかのアフリカの1人の女性であると推定することができるという。
私が内山興正老師に出逢ったのは昭和45年の秋のことである。当時京都市北区玄琢にあった安泰寺の住職をされていて、そこで開かれていた日曜参禅会に参加するようになったが、一番驚いたことは仏教の生命観、世界観がそれまで自分が了解してきたものと全然違うことであった。
老師は仏教語をできるだけ現代語で分かり易く説明することに腐心されていたが、「仏法」のことを「生命の実物」と言われるのである。
「生命の実物」とは「あらゆるものは自己に生命体験されるところに存在するのであり、自己はあらゆるものを生命体験するとことに生きているのである」
仏教は自己生命が根本であるということ。自己生命のないところに何ものも存在し得ないということである。
「いや、俺がおらなくても世界は存在する」と言われるのであろうか。そういう言葉を発することが自己の存在を前提としているのである。
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また、こんな疑問を呈される人も当然あると思われる。「今の説明では認識外のものは存在いないことになる。現に認識外のもので存在するものがいくらでもあるではないか」と。
認識外のものがあるというのは既に認識にかかっているということである。「認識外のものがあるはず」という程度の認識が働いている、その認識程度の存在の有様があるのである。
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自殺者3万人超、リストカッター100万人。
はっきり言ってバカだ。若い者が命のいの字も知らずに死ぬなんてことは許されない。どうしても死にたいというなら次のことを考えてもらいたい。
自殺はこの世から自らを消してしまう行為だから、事前に自分を消すことをイメージすること。全否定するのである。
まず、自分の名前の書かれているものを全部消す。
戸籍、住民票、健康保険、年金、パスポート、学校の各種名簿、銀行、郵便局etc なんかの紙に書かれたもの、コンピューターに登録されたもの、いっぱいある。それを全部消す。
写真なんかも全て消す。集合写真は自分だけ消すわけにいかないから他の人が持っているものも全部消える。
自分が作ったもの、壊したもの。飲んだもの、食ったもの。
全部消すなり、元に戻すとしたらこの世界はぶっ壊れてしまうことは容易に想像できるだろう。
たとえば、銀行に何がしかのお金が預けてあるとする、当然コンピューターでデータ管理されている。それをないとする。あるものがないとするならシステムが壊れていることになる。
君は既にこの世を造り替えてしまったのである。君を外してこの世は成り立たないのである。欠くべからざる存在なのである。
君は君が造り替えた世界に責任があるのである。その責任を放棄してはならない。
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医師・歯科医の死生観でも紹介したように、合理的思考力を持っている思える人もいい加減にしか死というものを考えていない。こんなことでは自分の人生を間違うことになるし、ましてや他人の生命を扱う者がいい加減であってほしくない。
ここでは死後の世界をはっきり否定しておくこととする。
1 前に述べたように自分の死は体験できない。当然、死後の世界を体験できない。
2 死んで生き返った者はいない。死の体験者はいないのである。よって、体験として死を語られることは未だかつて一度もない。
3 生き返ったと称するのは仮死、臨死からのもので生の側での体験である。
4 一口に死後の世界といっても、宗教によって説く人によってみな違う。言い伝えられたことを勝手な想像を交えて言っているに過ぎない。定説はないのである。
5 死後の世界は自然界を探してもどこにもない。天空を探しても地中を探してもどこにもない。ロケットも望遠鏡もボーリング機械もなかった時代の想像的産物である。
6 死んだら終いという考えに立つと刹那主義に陥り倫理感がなくなる、一方死後の世界があればそこで因果応報の原理が働く。生前の行為の良し悪しが死後の世界の世界のあり方を決めるとなれば勧善懲悪の教えも生き、この世もよくなる。というようなことを宗教家がいったりする。それウソ話の有用性を説いているだけであって無知なる者を欺いているにすぎない。
7 生命というものは非常に複雑なものである。生命を形成する遺伝情報は大きな百科辞典700冊にも及ぶらしい。そんな情報が火の玉ごときものにどのように載っかるのか。情報というものは物的媒体の上に載っているのである。
8 こんなことをいう奴がいる。
「死後の世界はあるかないか、分からない。もし、ないとして生きて死んであったらどうするのだ、なんの用意もできていない、ろくでもない人生が待っている。あるとしてなかったとしても、ないとしてなかったとしてもないのであるから同じである。だから、あるとした方がよい、私はそちらを選ぶ。」と。
死という絶対事実に俗世の功利的考えを持ってくる、タワケというしかない。
9 また、あるカルト宗教の信者に、死後の世界はどこにあるのかと質問したら、「死後の世界はある、主宰先生がいわれるには次元の違う世界なのである。先生は9次元の世界が見えるのである、先生の言われることは間違いない。私はそれを信じる」
この信者はすぐ次元を変えてくる、次元を変えて現実から逃げてしまうのである。
この教団の広告塔と呼ばれた作家Kは火事で焼け死ぬのであるが、普通なら非業の死と呼ぶべきところ、これを「この世を卒業し次元の高い世界で修行に入られた」というのである。
10 仏教は無霊魂説である。
釈尊は死後の世界のことについて言及されなかった。これを無記、または捨置という。
それなのに死者の霊魂を説く、坊ンさんて何?
内山老師のように生き残った者の中の亡き人の残映だと説く坊ンさんがどれだけいる?