ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.10.26 ハーセプチン145回目(3倍量8回目)、ナベルビン21クール1回目

2011-10-26 22:24:03 | 治療日記
 今日は久しぶりに良いお天気。朝夕は冷え込むという予報だったが、爽やかな気持ちの良い日だった。電車の接続も順調で、予定通りの時間に病院入りした。

 月末なので、採血はそれほど混雑していないのでは・・・と思いきや、既に40人近くの待ち人数だった。それでも、フル回転で採血台も増やして対応しており、30分ほどの待ち時間で済んだ。今日は白血球のチェックだけなので1本採取。腫瘍内科に移動して受付後、中待合へどうぞ、の番号が出るまで30分ほどだった。
 その後、10分ほど待って診察室へ入った。前回投与から2週間、先週は気管支炎で熱は出なかったものの寝込んだことを報告。吐き気自体はそれほど酷くなかったが、最近、手足が頻繁に攣るのが気がかり、とお話した。先生からは「顔面がピクピクしたりはしませんか。」という質問があり、そういえば確かに先日そういうことがあってちょっと焦ったが、翌日以降は消えてしまったので・・・とお答えした。「カルシウム不足もあるかもしれないが、次回の採血で確認しましょう。」とのこと。漢方薬等の処方はなく、様子見になった。

 気になる白血球は久しぶりに3800。3000台になったのはどのくらいぶりだろう。予定通りハーセプチンとナベルビンの治療となる。そして、再来週にCT検査の予約が入った。造影剤と抗がん剤がバッティングするのはあまりよろしくないので、休薬の週か、治療日を避けた日が良いそうだ。
 化学療法室へ移動し、10分ほど待って点滴椅子へ案内された。窓際の位置を確保。明るい陽射しが眩しい。ベッドに移動して、針刺はいつもの看護師のOさん。「まだ風邪声ですね。」と言われる。針刺はそれほど痛まず、逆血もスムーズに確認できた。体温は6度3分、血圧も99-62とまずまず。
 ほどなくして薬が届いて点滴開始。今日はハーセプチン、アロキシ、ナベルビン、生理食塩水の4本。2時間半弱で無事終了。抜針は認定看護師のKさん。衝撃なく出血もなく無事終了した。

 今日は2冊半読んだ。そのご報告はまた後日。
 会計を済ませて病院を後にした。本日の病院滞在時間は5時間弱。まだ日が高く、ランチタイムにも十分間に合う時間に病院を出られて嬉しい。

 帰宅すると、お花が届いていた。ピンク、真紅、黄色のガーベラが合わせて10本、ラベンダーカラーのパステルアスター(ヤマジノギク)が4本、小さな花が咲きかけているルスカス(ナギイカダ)が2本だった。花言葉はガーベラが「神秘」、パステルアスターは「思い出」だという。「今回は、先般の巨大台風の中、たくましく育ったガーベラたちです。」とのコメントがあった。元気をもらえる気がする。
 来月からこれまで第2・第4水曜日だったお花のお届けが、第1・第3水曜日に変更だそうだ。今週、来週とお花が続くが、楽しみだ。

今日、東京では木枯らし一号が吹いた。明日は今秋一番の冷え込みだという。暖かくして早めに休まなくては。

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2011.10.25 次なる3カ月目標は・・・

2011-10-25 20:12:49 | 日記
 先週の校友会音楽祭をもって、8月から10月までの3大イベントを無事終了することが出来た。

 8月 息子をホームステイ先に送り出し、その間に夫と2人で旅行、息子帰国日には成田まで迎えに行くこと
 9月 月末に家族そろって5年ぶりに海外旅行に行くこと
 10月 3年連続の校友会音楽祭でOB・OG合唱団の舞台に立つこと

 この3つが無事クリア出来たわけである。(音楽祭の後は気管支炎になって散々ではあったが・・・。)

 さて、では来月からの3か月間、11月から1月まで何が出来るか、いや何をしようか、と考えてみた。
 こう考えると旅行と遊びと趣味ばかり・・・、なのであるけれど。勉強するとか、資格試験を受けるとか、仕事面での目標等はここに書くほどのこともなく、向上心がないといえば、ないかもしれない。
 だが、今更無理に格好をつけて背伸びしてみても始まらない。

 11月 ちょっぴり親孝行をし、夫の離島への長期出張中、息子と2人無事過ごし、勤労感謝の日の休日出勤もこなす
 12月 昨年、クリスマス休暇に突然北海道旅行をしたように、3人で旅行に出かける
 1月  夫と22回目の結婚記念日を祝い、月末には息子の16歳を家族写真撮影とともに祝う

 ・・・と、こんなところだろうか。いずれもきちんと治療を続けて(治療が奏功して)体調管理が出来ていないとクリア出来ないものばかりである。

 10月も末になると、年賀状やお歳暮の注文用紙が届いたり、新しい年のスケジュール帳をそろそろ買わなくては、となんとなくそわそわ落ち着かなく思ったりする。ふと2カ月続きのカレンダーをめくれば、残りは11月、12月の1枚であるわけだ。

 日野原重明先生のように、100歳になられてもなお、10年日記を買うほどの勇気はない小心者の私だが、来年のスケジュール帳だけは気に入ったものをしっかり買うつもりだ。

 けれど、いきなり1年後のことを考えるよりも、まずこれからの3カ月を1クールとする。それを地道に4回こなすと無事1年クリア・・・、という感じが今の私には無理なくほどほどで、達成感もあり、しかもあまりに小刻みでなくて良いかな、と思っている。

 今日も夏日の予想。確かに朝出勤しただけで、なんだか汗ばむような湿度だった。
 相変わらず咳も鼻水も残っている。気持ちは大分上向きになっているから、白血球は回復傾向にあるのだろうと思う。
 ここのところ、足や手の攣りが酷いのがとても気になる。ふくらはぎ、足の裏、足の指とどこもかしこもふとしたきっかけで攣る。そして、手の親指に至っては、文庫本を持っている姿勢でもいきなり攣るのだ。
 昨夕も何かするたびに足が攣って、参った。右足をかばうと、左足が攣る、といった具合。夫と息子が一緒に帰ってきたときは、洗濯ものをたたみながらリビングで足の裏を押さえてエビのようになっていて、笑われた。「両足一緒に攣ったらどうするんだろう。」と言ったら、かつて夫が草野球のマウンドに立っていた時、両足が攣って、その場でひっくり返ったそうだ。そうか、ひっくり返るんだ・・・と思った。
 お風呂で自分で延々とマッサージをし、その後も夫にほぐしてもらったので、何とか夜中に攣って大騒ぎするということはなかった。
 明日の通院日に先生と相談してみよう。これもまた副作用なのだろうけれど、漢方で凌ぐことは出来るだろうか。

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2011.10.24  若者の夢は自分の夢-「天国からのエール」

2011-10-24 20:18:35 | 映画
 恥ずかしいのであまり公言していないが、実は以前からこの映画の主演男優のファン(!)なので、先日、ひとりでこの映画を観てきた。

 舞台は沖縄県、美ら海水族館で有名な本部町。高校卒業後、上京するも故郷に戻って家族でお弁当屋さんを営みながら、1998年に、音楽の夢を追う高校生たちのために私財を投じて無料の音楽スタジオ「あじさい音楽村」を設立し、2009年11月に再発腎臓がんのため42歳で亡くなった故・仲宗根陽(なかそねひかる)さんの実話を基にした作品だ。
 2006年にNHKでドキュメンタリーが放送され、2010年にはノンフィクション「僕らの歌は弁当屋で生まれた・YELL」として書籍も発刊されたというが、私は、今回映画化されるまで全く知らなかった。

 実際に高校生の母になってみて早や半年。相変わらず我が家の息子が何かに打ち込む姿にさっぱりお目にかかれない。部活に応援団に、と熱い高校時代を送った母としては内心忸怩たる思いがある。こうしてロックバンドであろうとなんであろうと、とにかく一生懸命になっている青春真っ盛りの高校生の姿はやっぱりいいなぁ、と単純に素直にうるうるしてしまう。

 そして大人が真剣に向き合えば、どんな子だって必ず共鳴してくれるのだな、と当たり前のことに気付かされる。ちゃんと叱って、体当たりで真っ当なことを言い続ける。決して夢をあきらめてはいけないと、彼らの力を信じ続ける。ウザイと言われつつも、きっとその思いは届くのだろう。ろくに挨拶も出来ず、勉強はそっちのけだった高校生たちが、次第にきちんと挨拶をし、赤点をとらないために勉強をし、後輩の面倒をみ、日に日に相手の痛みを感じることが出来る存在に変わっていくのが眩しいほどだ。

 主人公は財産を投げ打ち、ひたすら彼らの夢-プロになりたい-を叶えようとする。どうしていいのかわからないままテープを持って売り込みに歩く。高校時代の喧嘩仲間にまで頭を下げて回る。相手に何とか首を縦に振らせようと、電柱に登って蝉のマネまでしてしまうのには、一瞬あっけにとられ吹き出した。
 そう、高校生たちの夢はいつしか主人公自身の夢と重なっていくのだ。というのも、主人公には高校時代の親友がミュージシャンを目指して上京し、夢を叶える直前にバイク事故で亡くなっていたという経験があることがわかる。

 臨終の場面に備えて3日間で7キロの減量をしたという主演男優はげっそりやつれ、ただでさえ大きな眼が落ちくぼんでぎょろぎょろして、例えてみれば「あしたのジョー」で限界まで減量してフラフラになった力石徹のようだった。

 青い海、リゾートアイランドの沖縄ではなく、当たり前のように日々の生活感溢れる沖縄、寂れた商店街など、さすがに現地ロケというリアリティに富んでいた。

 実話とはいっても映画としてのフィクションの部分もあったのだろうけれど、観た後、なんだかほっとして誰かに優しくしたくなる映画だったことは間違いない。

 さて、新しい週が始まった。今日は朝から小雨がぱらつき、一日中ぱっとしないお天気だった。風邪はまだ抜け切っていないので、咳も鼻水も残っている。こういう天気だと、どうも胸部の鈍痛がまたやってくる。ここのところ足や手が頻繁に攣るということ以外、割と調子が良かったのだが・・・。
 無理は禁物、明後日の治療日まで、早寝と行こう。

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2011.10.23 「美味しい」は心も体もしあわせも育てる-彼女のこんだて帖-

2011-10-23 19:43:30 | 読書
 角田光代さんの「彼女のこんだて帖」(講談社文庫)を読んだ。
 美味しいお料理で心がほっこり温かくなるお話15話と、各々のお話に出てきた献立のレシピがカラー写真とともに巻末に付いている、一粒で二度美味しい幸福な本だった。
 レシピはとてもシンプルで分かりやすく、かなり本格的なお料理であるにもかかわらず、私にもできそう・・・と、ずうずうしくも思ってしまうほどの幸せさだ。

 「月刊ベターホーム」に掲載されたものをまとめて、あとがきとレシピが加えられた単行本の文庫化だという。ベターホームのお料理本といえば、「お料理一年生」を結婚祝いに頂き、その後自分で「スピード料理」を購入した。
 今も本棚に鎮座ましましているが、綺麗なカラーページでお料理の基礎が分かりやすく掲載されている。
 今ではもう開くこともないけれど、当時はとても重宝した。何を隠そう、私、結婚前には半年ほど某カルチャーセンターの料理教室に通ったことがある。本当に基礎のコースだったので、夫(予定者)に「今日はこういうの(おにぎりと卵焼きと澄まし汁だったか・・・)を習った」と言うと、のけぞって驚かれた(「そんなものわざわざ習いに行かなくたっていいんじゃないの?!」と言われた。)ことを覚えている。

 私は、角田さんのように母から料理を伝授された経験はない。
 角田さんのお母様は、仕事をしながら小学校から高校時代まで12年間、三度々々の食事から日々の彩り鮮やかなお弁当まで、全て手作りされていたという。けれど、何か料理の素のような魔法があると信じて疑わなかった角田さんが、すべての料理はそうした手間暇をかけてお母様が作っていた、ということを知るのは、大人になってから、という。さらに、お母様は今まで自分流にやってきた料理を学び直したい、と料理教室に通われたそうだ。
 そして、角田さんが書くことに行き詰まりを感じていた20代半ば、料理がそれを救ってくれ、いつとはなしにぎくしゃくしていたお母様との関係も修復したという。だからこそ、彼女が書く食べ物は、実際に作れる人しか書けないリアルな美味しさを感じさせるのだと納得する。そのお母様が胃癌で何も召し上がれなくなって、おせち料理を習うことなく亡くなってしまった、というあとがきには涙線が故障した。

 私にとって母の味って何だろう。
 母は専業主婦だったけれど、料理はあまり得意でなかった。父も自分が何もしない(出来ないし、台所に立つつもりもない。)ものだから、文句も言わず質素な、今思えばとてもワンパターンの料理を喜んで食べていた。(その点、食べることが好きで、料理が得意ではない私をあてにすることなく、自ら動き出す夫とは大違いである。)

 私が小学校高学年の頃だったと思うが、同じクラスの男子のお母様が実に多芸多才で、お料理やお菓子、アートフラワーや革細工を教えておられ、その教室に通い始めた頃から母の料理は進歩した。
 レシピを見ながら作るのは確かに面倒だし、一から材料を揃えるところから行うのは日々の台所回しを考えれば大変なことだ。けれど、当時、ホワイトソースから作るマカロニグラタンや、カレールーを使わないで作るドライカレーは美味しかったな、といまだに舌が覚えている。レシピ通りにきちんと作ったものは美味しいというのは自明なことなのに、日々に追われて速さだけを追求していると哀しいかな、なかなか実践出来ない。

 友人であり定期的に食事会をしているという井上荒野さんが解説を書いておられるとおり、一話目の主人公の同僚が二話目では主人公になるという具合に、登場人物が各話から各話へ繋がっていく。そしてぐるりと回って、最終話では一話目の主人公のその後がちょっとわかったりする、洒落た作りである。ある人の物語でわき役だった人にも、その人の物語がある、というわけだ。

 つくづく、お腹がすいては戦は出来ない、と実感する。どんなに辛いこと、悲しいことがあっても、私たちは生きていかなければならない。そして私たちの体は食べなければならないように出来ている。また、私たちの体は食べたもので出来ている。
 だからこそ、毎日ちゃんと食べよう、食べ続けられるようにきちんと治療を続けよう、と思いを新たにした。

 今日もゆっくり朝寝坊をし、掃除、洗濯、買い物、リンパプラスヨガ、読書、とごくごく普通の“命の洗濯”が出来た日曜日だった。 夏日だったというのが頷けるほどとても蒸し暑い一日だったが、今朝で、気管支炎で処方された薬も飲みきり、ようやく風邪も抜けてくれそうな気配だ。

 心新たに明日からまた新しい一週間を始めよう。水曜日は、また治療再開だ。
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2011.10.22 秘書室OG会開催

2011-10-22 19:51:21 | 日記
 今日は息子が校外ボランティアに出かける予定だったが、5時過ぎに雨のため、“本日は中止”のメールが入った。自宅学習ということなので、朝寝を決め込む。
 その後は足が攣ったり、変な夢を見たり・・・と、布団の中でいろいろハプニングがあったが、疲れていたのかしぶとく朝寝坊してしまった。

 遅い朝食の後、あいにくの強い雨降りの中、早目のランチタイムに出かけた。
 今日は校友会音楽祭も終わって一息ついていて、さらには休薬週で食欲も体調もいいはずだから・・・という私の都合に合わせて、今を遡る20年以上前に秘書室で一緒に仕事をした友人2人が、わざわざ大学レストランまで来てくれるという約束があったのだ。
 私といえば、いまだ風邪が完全に抜けたわけではなく、まだ咳も鼻水も残っているので2人には申し訳なかったが、これでキャンセルしたら、またいつ日程が合うか分からない。都心まで出向いて行くわけでなく、ランチとお喋りを地元で、という有難いお約束なので、何とか実現出来たのだと思う。
 2人とも都心在住で、電車を乗り継いで雨の中出かけてきてくれ、私は最寄駅までお迎えに行った。

 1人は数年前まで同じ大学で勤務していた方、1人はもう10年近く前に職を辞して、それ以降、小説を数冊書いているという異色な方だ。

 オープンして間もないレストランは、このお天気にもかかわらず、窓際の席がほぼ埋まり、一番入口に近い席になった。お喋りとランチを楽しんだ後、デザートも頼んでクローズの3時近くまで、最後の1組になってしまったのをいいことに記念写真も撮ってきた。

 お互い、今は別の道を歩んではいるが、当時20代、まだ働き始めて2つ目の職場で、同じ年頃の出会いはとても新鮮で、印象はとても強い。仕事柄日々多忙だったし、その当時は理不尽だと思うこともいろいろあった。けれど、その後20年以上働き続けるうえで、あれが我慢できたのだから・・・という、私にとって仕事に対するコアの部分になっているようにも思う。彼女たちはいわゆる“同じ釜の飯を食った戦友”のような友人である。

 レストランを出ると、ようやく雨が止んでいた、まだ紅葉には早い学内をのんびり散歩しながら駅までお送りし、帰宅した。
 
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