ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.10.7 どんな人も誰かを支え、そして誰かに支えてもらっている

2015-10-07 20:39:05 | 日記
 先日、村木次官の退任の記事を転載させて頂いたが、もうひとつ別の記事を以下にご紹介したい。10月1日の読売新聞の記事である。

※   ※   ※(転載開始)

誇り持てる仕事させてもらった…村木次官が退任(2015年10月01日 22時08分)

 郵便不正事件で無罪が確定し、2013年7月から厚生労働次官を務めていた村木厚子さん(59)が1日、退任した。
 「誇りを持てる仕事をさせてもらった」と振り返り、事件については「誰でも突然、支えが必要になると実感した」と述べた。
 村木さんは、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長だった09年6月に同事件で逮捕されて1年余り休職したが、10年9月に無罪が確定。復職し、内閣府の政策統括官などを務めた後、同省の事務方トップの次官に就任した。同省の女性次官は、旧労働省時代も含めて村木さんが2人目だった。
 同省で記者会見した村木さんは「ある日突然、拘置所の中で裁判を闘うためにプロの助けが必要になった。自分は支える側にいると思っていたが、間違った優越感だった」と述懐。「病気でも介護でも失職でも、大きな困難に遭遇した人にはプロや身近な人の支えが必要だと分かった」と語った。
 自身の今後については「白紙」という。

(転載終了)※    ※    ※

 同じ会見を記事にしても、書き手により随分印象が異なる記事になるものだと改めて思う。もちろんどちらがどうの、ということではないけれど、切り取る言葉によって響き方は違う。
 ニュートラルな読み手であれば、特に問題はないのだろうけれど、最初からフィルターがかかった見方をすれば、こうした記事から受ける情報も随分変わって伝わるのではないだろうか。
 この記事で私の心に強く響いたのは「自分は支える側にいると思っていたが、間違った優越感だった」というくだりだ。あれほどの方もそんなことを思われたのだ、と。

 人のために、という使命感を持って元気で働いている時は、誰だって自分が支える側の人間であることを疑いはしないだろう。それが仕事をする上での気概であるとも思う。
 けれど、生身の人間であれば、長い人生を通じて常に支える側の立場にだけ居続ける、ということはとても難しいのも事実なのではないか。
 どんな形であれ、生きているということは生かされているということ。期せずして弱い立場、人から支えてもらわなければならない立場になった時にも、支えてもらっているだけではなく、必ずやその存在が他の誰かを支えているのだと信じたい。

 人という字は、2人の人が支えあっていることを表した象形文字である、と聞いたことがある。
 人として社会で生きていく以上、もたれあうのではなく支えあう、一方的に誰かを支えているのではなく、必ずや誰かに支えてもらっている、そして小さな力、微々たる力であるかもしれないけれど、人を支えさせて頂いている、ということを肝に銘じて、これからも生きていきたいと思うのである。

コメント (2)
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