おはようございます。大阪大学学長の鷲田清一さんが昨日、退任の最終講義を行い、「教養とは知識の量ではなく、知識を組み立て使いこなすこと」と説いたそうです。現代という時代は、「使いこなす教養」が求められています。
生き生き箕面通信971(110805)をお届けします。
・またも「トカゲのしっぽ切り」というパフォーマンス
経産省の3首脳を更迭する人事が突如、行われました。首相候補をめざす海江田経産相、延命を図る菅首相のパフォーマンスです。「この国をどうしていくのか」ということを置き去りにしたままの”トカゲのしっぽ切り”が繰り返されてしまいました。
原発事故が起き、その後は「やらせ」などが問題化したため、政府首脳はなんらかの措置を取らざるを得なくなりました。その結果出した結論が、自分の身を守るための「トカゲのしっぽ切り」です。
そもそも原発事故の責任をどうするのかは、棚に上げたままです。原発事故の検証委員会でも、早々と「責任は問わない」と言い切りました。原発行政を直接担当し、責任を負う立場の経産省はほとんど無傷でした。菅首相も事故対応では数えきれないほどの失敗を重ね、その結果、何万人もの人が無用の被曝をする羽目に遭い、肉を始め食品が放射能汚染され、多くの人が家を離れ、職を失いました。その責任は、まったく明らかにしていません。東電は、わずかに社長が辞任しただけで、そのほかの首脳は勝俣恒久会長をはじめいまものうのうと居座り続けています。
菅首相の居座り、経産省トップの居座り、東電首脳の居座り。保身にきゅうきゅうとする姿ばかりを見せつけられ、リーダーとして「責任ある身の処し方」はこの国から消えてしまいました。
政治の任にみずからあたる者にとって「責任」とは、最も重要な「徳目」であり、任にあたる適非の基準であるはずです。天に向かって「恥ずかしくない」ということでもあります。この国には、「恥の文化」があったはずです。
ところがいまや、「トカゲのしっぽ切り」ですます風潮が目立ちます。自分の責任は棚に上げ、下のもの(トカゲのしっぽ)を斬って事足れりとする「無責任さ」です。それを許している背景には、「契約」の概念が徹底していない国柄があります。いったん契約したものでも、「事情が変わればチャラ」が当たり前の国柄です。
民主党が選挙公約(マニフェスト)で有権者に「契約」した「子ども手当」も、自民・公明の「児童手当」に逆戻りしました。政権交代の意味はなくなりました。時代を担う子どもは「社会全体で育てる」という理念を実現するため、その象徴である子ども手当には所得制限も設けないと「公約」しました。しかし、結局、公約破りです。
この公約破りに対しても、誰も責任を取ろうとしません。有権者もそれほど怒らない。今後も「トカゲのしっぽ切り」がまかり通る政治が続きそうです。
「知識を使いこなす」という”真の教養”があれば、つまり「戦闘的な教養」「血が噴き出すような教養」がはぐくまれているなら、現在のようにあいまいなまま流されることはないはずです。ですが、鷲田学長の言葉は虚しく聞こえます。