いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第411週

2022年10月01日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第411週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のキリ番

■ 今週のまぬけ:フィッシング詐欺にひっかかった

フィッシング詐欺にひっかかった。銀行の各種情報を提供してしまい、盗られた。1時間で気づいて、パスワードを変更した。おカネは引き出されていない。銀行に電話(フリーダイアル)したが、通じなかった。2日後、電話が通じて、口座を凍結した。

経緯はメールが来て(今から見れば詐欺メール)、確認更新しないと取引制限となるとの注意。リンク先に飛ぶ。今見ても本物のサイトと全く同じ偽サイト。ただし、URLがひとめでペテンとわかる。その時は、「確認更新しないと取引制限となる」とあせっていたので、注意が至らなかった。さらに、日ごろ、この銀行のネットバンキングが使っていないので、慣れていなかった。各種情報を入力画面に従い、記入してしまう。今思えば、そういう情報を銀行は聞くことはないとのこと。

結果的には、提供した情報に誤りがあり、犯行グループは詐欺行為に利用できなかったらしい。おいらが慣れていなかったので、間違った情報を入力した。

今から思うと、おいらが、まぬけである。その時、思い込んでしまい、サイトへの情報入力に集中してしまった。詐欺だと気づいた理由は、普通こういう入力作業をすると間違うことが多く、1度で受理されることがない。それなのに、すっと受理された。そのすっと受理されたことが、通常ないことなので、あっ!と気づいた。

■ 今週の初物

愛媛産、「いちばんなり えひめみかん」。15kg、2380円。青緑色だけど、とても甘い。

■ 今週の朝日、岩波、あるいは(もらってない)香典の返し?

 

【ノーカット動画】菅前首相の弔辞 安倍晋三元首相の国葬で

朝日新聞社はYouTubeで菅前首相の弔辞をノーカットで伝え、その弔辞で言及されていた岩波書店の『山縣有朋』が重版。言及された文章は下記;

枢密院議長に就任後、伊藤は日露間の国交調整を推進したいとの希望を抱いてこの年10月ロシアに向かって出発したが、ハルビンではからずも韓国独立運動に関係ある朝鮮人の手で射殺された。山縣はこの凶報に接して、驚愕するとともに、松下村塾の昔以来50年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈んだ。「かたりあひて尽くしし人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」。これは伊藤の死を悼んだ彼の歌である。彼はまた身近なひとびとに、伊藤という人間はどこまでも幸運な人間だった。死所をえた点においては自分は武人として羨ましく思う、とも述懐した。(岡義武、『山縣有朋』、六 「元老政治」の中で)

■ 今週の50年

上記で、山縣有朋が伊藤博文との50年のつきあいを回顧しているが、こちらも50年;

毛沢東が、田中角栄におそらく復刻和綴じの『楚辞集注』を贈った (愚記事

■ 今週の広告、JR大井町駅ホーム

大井町駅ホームに行ったので、探して、撮った。

文春オンライン:「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生”

■ 初めて乗った路線、初めて降りた駅

東急多摩川線、鵜の木駅

■ 今週の昭和の成仏のために

昭和のくらし博物館(web site) 昭和26年建設。内部は撮影禁止なので、画像は挙げられない。


昭和のくらし博物館(しょうわのくらしはくぶつかん)は、東京都大田区に位置する昭和時代の庶民のくらしを展示する博物館である。

元々、東京都の建築技師だった小泉孝が建てた自宅を、孝の長女で生活史研究家の小泉和子(元京都女子大学教授)が、昭和時代(特に戦後、昭和20〜30年代)の庶民の暮らしを後世まで伝える目的で、博物館として、1999年(平成11年)2月28日から公開している。

住宅の間取りをそのまま残した館内の構成になっている。常設展では小泉家が過ごした住宅風景がそのまま残っている。2階建ての建物で、1階は書斎兼応接間、お茶の間、台所、座敷。2階は子供部屋,企画展示室,次女の知代に関する記念室,談話室からなっている。wikipedia

■ 今週の見切り品

春日局が丹波の出だとは知らなかった。丹波市観光協会: 春日局出生地と黒井城跡歴史コース

■ 今週の別れ

20年あまり乗った自転車を交換。新たに購入し、旧車は引き取ってもらった。

修理してでも乗り続けたかったが、新たにホイール交換が必要となり、それが1万円なのだという。新車は2万円。買い換えた。

在りし日の、この自転車(愚記事

■ 今週の初めて行ったファミレス@すかいらーくグループ系

<荊の簪を挿した御方>は、すかいらーくグループの株主さまだ。すかいらーくグループのひとつ、chawanに初めて行った。株主優待券で、抹茶パンケーキのフルーツサンドホイップタワーを奢ってもらった。

■ 今週の些細な誤解の指摘、あるいは、共通する誤解・勘違い・記憶違い

先週も言及した大江健三郎、『定義集』に些細なことを見つけた。この文章は「新しく小説を書き始める人に 3」という小説の書き方指南的なもの。

 あらためて感じたのは、とくに小説を書き始めた頃私がやっていたのは、日々の具体的な憎悪やら悲哀やらを(自己批評のユーモアもあるけれど)記憶にきざむためだったことです。
 敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープの通訳の話(のちに「不意の唖(おし)」に書き直したもの)。横須賀の知人に聞いた、バスに乗り込んで弱気の青年をイタブル、楽しげな米兵たちの話(しばらくして「人間の羊」としました)。

論旨とははずれ、大江の記憶として「敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープ」とある。これは史実ではない。そもそも、米軍が東京に進駐したのは9月8日 [1]。マッカーサーが厚木に降り立ったのが8月30日。特殊な先遣隊の日本上陸はまれ[2]。ミズーリ号での調印式が9月2日。

[1] 関連愚記事;1945年9月8日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐(旭川・10月6日)を完了した。最も遅いのは松山で、10月22日である (引用元

つまり、大江健三郎が暮らしていた愛媛は日本で一番遅く「占領軍のジープ」が来たのだ。したがって、「敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープ」というのは記憶違いである。

些細なことだ。でも、この記憶違いは西部邁と同じで興味深い。この米軍の進駐時期に関する記憶違いについて、おいらが確認したが2例目なので、興味深く思い記録した。



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