いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第414週

2022年10月22日 18時07分21秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の果実

■ 今週のお寺さん

祐天寺。都内目黒区。

■ 今週の展覧会

コレクション解体新書1  フジタが目黒にやって来た

目黒区美術館は開館に先立つ1981年度より、海外へ留学したり国際的に活躍した作家、素材や技法の特質をよく示す作品を中心に、日本の近代から現代に至る美術の歴史を俯瞰できるコレクションを目指して作品収集を行ってきました。最初の収蔵作品となった藤田嗣治《動物群》を皮切りに、数多くの日本人作家の秀作を収蔵し、今日2400点余を数えるに至っています。

1987年の開館以後は、美術館活動に応じて収集の傾向も次第に変化していきました。例えば、目黒にゆかりある作家の作品は、展覧会の開催を通じて関係者の厚意による寄贈もありその数を増やし、現在では美術館を特徴づける主要なコレクションとなっています。さらに近年は、インテリアショップやデザイナーが多い目黒の地域的特性をとらえ、生活芸術の分野に関連する作品の収蔵も射程に入りました。
 
本展では、開館前から現在に至る当館のコレクション形成のあゆみを振り返りながら、作品収集の過程や取得時のエピソード、さらには取得資金の仕組まで、普段なかなか見ることのできない美術館の舞台裏を紹介します。 (この展覧会について

▼ 今週の1枚  上記展覧会でありました;

 
岡鹿之助 ≪信号台≫ 1926

■ 今週の見切り品

■ 今週の椎茸


バーミアン 椎茸うま煮あんかけ焼きそば。椎茸・白菜・人参・青菜・陸奥湾産帆立のうまみを閉じ込めた熱々のあんかけ(ソース)。 

■ 今週返した借りていた横浜市図書館の本

岸俊光、『核武装と知識人』(Amazon)。副題が「内閣調査室でつくられた非核政策」。目次はこちら。この本の目玉は、内閣調査室の主幹であった志垣民郎という官僚の日記とその志垣が内閣調査室(内調)として外部に委託した研究の報告書17部、と志垣への対面聞き取り調査を資料とした研究。時代は佐藤内閣時の特に1968年前後。

そもそも、内閣調査室というのは直接、情報を収集する現場部隊を持たない。調査を外部に依頼する組織。報告書を作成。その報告書を内閣、大臣が採用する、あるいは、そもそも目を通すかは、内閣(官房長官、首相)の勝手。内閣によっては、内閣調査室を全く相手にしなかったらしい。

その報告書の中で、特に、報告書「日本の核政策に関する研究(その一)-独立核戦力創設の技術的・組織的・財政的可能性」と「日本の核政策に関する研究(その二)-独立核戦力の戦略的・外向的・政治的諸問題」」が、日本政府が検討した核武装として有名(1996年の新聞報道まで"ほとんど"知られていなかった)。

その研究を内調から請け負った学者集団が、垣花秀武(wiki)、永井陽之助(wiki)、前田寿(wiki)、蝋山道雄(wiki)。研究会は四の頭文字をとって「カナマロ会」。

▼その時代:1968年1-2月

「6時前退庁。(中略)四谷の福田屋行き。永井陽之助氏と前田寿氏在り。間もなく垣花秀武氏も来り。(中略)プエブロ事件、朝鮮問題、ベトナム問題等話し合い、来年度の研究会運営方針について相談。蝋山道雄氏を加え4人の常任理事を中心として運営。月1回の海の記録(テープ、速記)を取ることにす。ゲスト方式もとる。あと全学連の話などして9時過ぎ終了」。『志垣日記』一九六八年一月三十日(火)の項には、永井、前田、垣花らが集い、東京・紀尾井町で開かれた最初の打ち合わせの模様がこう記されている。メンバーが固まり、核武装が政治的、技術的に可能かどうかの問題など研究計画を検討し、各部門の担当講師を決定してスケジュールを作った旨が記されているのは同年三月十八日(月)の項である。

 くしくも初めの打ち合わせをした一月三十日は、佐藤政権にとっても重要な一日になった。第5章でみたように、佐藤はこの日の衆議院代表質問で、非核三原則、核軍縮の推進、アメリカの核抑止力への依存、原子力の平和利用、という「核四政策」を打ち出したのである。国会日程と「カナマロ会」の初顔合わせが重なったのは偶然としても、衆議院予算委員会で非核三原則を初めて表明して以来、佐藤内閣の非核政策が国会論戦を通じて形成されつつあった。核政策問題が以前にも増して重要になることを、内調が認識していたことは間違いないだろう。

  

佐世保エンタープライズ寄港阻止「攘夷運動」(1968年1月)(左)、ベトナム戦争、テト攻勢(1968年1月30日~;この画像は1968年2月)(右);この米兵は日本(横浜)に担ぎ込まれ一命をとりとめる 愚記事

なにより、1ドル=360円で、米国のGNPが8,606億ドル、日本のGNPが1,419億ドル。アメリカの一人当たりの所得が3,543ドル、日本の一人当たりの所得が1,110ドル(ソース)。そもそも、沖縄が米軍領。

日本政府・佐藤内閣が非核三原則を含む「核四政策」を「打ち出した」日は、「カナマロ会」の初会合の日であり、なにより、テト攻勢の日である。テト攻勢で、ベトコンの被害も甚大であったが、「コストが高い」米軍の被害も甚大で、「テト攻勢はベトナム戦争の流れを変える大きな軍事行動であった」とされる。結果、1976年のサイゴン陥落、米軍撤兵へとなる。サイゴンとはいえば、我らが大日本帝国(以下、日帝)の南方司令軍の司令部があった街である。大日本帝国陸海軍の無条件降伏後、米軍が継承した。日帝を打倒し、米軍が支配したチャイナ大陸、朝鮮半島北部を米軍は次々失い、ついにはサイゴンも奪われたのだ。まぬけじゃないか、米軍。こういう、米軍衰退という背景なのに、日本は核武装を放棄した。でも、上記のように日米国力差が6倍で、国民の豊かさも3倍だ。「貧乏」だから、自主防衛は無理だと考えたのであろう。「吉田ドクトリンは永遠なり」!。

ただし、現在の視点から見て、北朝鮮や1960年代の中共が核武装しているのだから、経済が理由にはならないはずだ。

「吉田ドクトリンは永遠なり」!

日本は核武装をするべきではないと報告書を書いたのは永井陽之助だ。「吉田ドクトリンは永遠なり」!。

 日本は、中国の核脅威の増大に対しては、米国の核のカサに入る以外に道はない。これは、たとえ自主”核武装”をしても、程度の差であるにすぎないし、米国は日本の核武装を最もおそれている。ただし、日本本土、沖縄の固定した核基地には絶対反対すべきである。海上のポラリス潜水艦を主軸とした核抑止力に依存することは、日本の選択の問題ではない。

これは、報告書の文言そのものではないが、少し前に公表された永井の文章(「日本外交における拘束と選択」1966年)であり、報告書の趣旨である。つまり、日本は米国が恐れることをしてはいけない、つまり、日本を二度と米国の脅威にしないという米国の占領政策の第一原理の主旨を再確認し、さらに、実践を当然視しているのだ。ここで、永井は核基地の固定化には反対している素振りを見せているが、米軍基地の存続を前提とする日米安保には当然賛成である。ここで、日米安保というのは日本の交戦権を否定したマ元憲法と共に日本列島の主権を日本が保持する権力を掣肘し、日本列島を米軍天国とするものである。米軍が日本列島を米軍天国とできるのは、核の傘を提供していることをも理由とできる。なお、永井は米国の核の傘から逃れようとしたフランスのガロア理論を批判し、日本への適応には反対である。

▼ 「道徳的優位

日本は、原爆の被害を受け、核兵器をつくる能力をもちながら、つくらないという道徳的優位を先取しつづけ、それを全世界の世論に訴え、核拡散防止、核兵器使用の禁止、軍縮などの一連の平和運動を大規模に展開すべきであって、これも、平和的手段による重要な核抑止戦略の一環となりうるのである。(強調、おいら)

永井は「道徳的優位」をいう。でも、自「国」を米軍天国にして、ベトナム戦争など日本を出撃基地とした戦争をやり放題することを可能にする日本民は「道徳的優位」にあるのか?ないのか? 吉田ドクトリンという「軽武装・経済優先」という欺瞞的な美名の政策は、日本の軍事主権を"拘束・制限・禁圧し"、日本列島の軍事空間を米軍が支配するという米軍天国を実現、保持するための策であり、正当化するイデオロギー、政治的プロパガンダである。

この永井の対米敗北主義こそが、内調精神の真髄であるのだと、おいらは思う。だから、永井は内調ライターであったのだ。 「吉田ドクトリンは永遠なり」!

▼ 「日本情報機関の父」吉田茂

 この本は、佐藤内閣の非核政策と内調とのテーマの前に、内調の成立について、本書のはじめに、書いている。吉田茂を鍵人物としている。さらに、緒方竹虎。著者は、彼らの政治思想の反共産主義が、内閣調査室設立の動機としている。そして、本書では、「日本情報機関の父」吉田茂と評している。さらには、内調とCIAとの親密性も書いている。ただし、緒方竹虎がCIAの工作員/協力者であったとされる(有馬哲夫、『CIAと戦後日本』)ことには言及していない。

おいらには、この内調=反共政策のための情報機関という視点は半面であると思う。もう半面は、というかおいらはこちらが主面だと思うのだが、日本封じ込めである。

▼「カナマロ会」報告の意義

でも、そもそも、不思議なこと。「カナマロ会」報告のための会合が開始した時点で、既に、日本政府の非核三原則は決まっていたのだ。何より、この非核三原則は実質的に岸内閣から始まり、佐藤内閣はそれを踏襲したとされる。したがって、「カナマロ会」報告は、当時の政府の核政策の追認でしかない(のではないか)。

ただし、NPT(核拡散防止条約)に1970年に署名している。そのための理論武装とみなすことが、理論的にはできる。ただし、実質的に、この「カナマロ会」報告が、政策決定にどう影響したのかは不明。

▼ 復員兵と戦後

この本の鍵人物は志垣民朗。1922年生まれ。あの雨の神宮外苑壮行会で行進。支那戦線に陸軍主計官として赴任。永井陽之助は1924年生まれ。少なくとも、結核で兵役を1度は免除。終生、徴兵されなかったというエビデンスはおいらはもっていない。志垣民朗の敗戦の衝撃による受難克服の「捌け口」は知識人の欺瞞の暴露として迸(ほとばし)ったらしい。『学者先生戦前戦後言質集』を著す (1954年)。その志垣民朗の佐藤栄作観がすごい;

志垣民郎の佐藤評は、さらに辛辣なものである。「とくに、「有志の会」で政権獲得前(1964年9月10日)の佐藤榮作の話を三時間聞いたのは有益だった。彼が如何に平々凡々たる人物であり、宰相たるにふさわしからぬ人間である彼が分かったからだ。見識らしきもの、政策らしきものの片鱗もなくて総理になれるという日本の現実は、ある意味で進んだ社会だと言えるのかもしれない」。 (志垣日記)

これって、どういう意味なんだろう。凡庸さんが首相になった社会に、志が高い自分はいて、そういう首相には、適切な情報提供が必要だということか?

▼ 若泉敬

若泉敬もこの本の鍵であるが、本記事では言及しない。ただ、彼のインド観と現在のインド、つまり核武装してロシアに停戦を直言するインド、のことを思い、参照とすると、日本の核武装・核武装しなかったことの意義が感慨深い。

▼ 非核政策批判者

非核政策批判者、核武装者たちの紹介、その理論もこの本で紹介されている。

■ 今週知ったこと;垣花秀武

上記、「カナマロ会」のひとりの垣花秀武。この人の本をもっていたと気づいた。垣花秀武は核化学者。カトリック教徒らしい。