いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩;渋谷駅⇒ 塙保己一資料館⇒ 広尾 山種美術館、有栖川宮公園⇒ 狐坂⇒ 麻布十番⇒ 乃木坂⇒ 青山一丁目駅

2022年10月30日 11時18分55秒 | 東京・横浜

1;渋谷駅、2;塙保己一資料館(渋谷区東)、3;山種美術館、4;日赤医療センター、5;有栖川公園、6;狐坂、7;麻布十番、8;六本木交差点、9;乃木坂、10;青山一丁目駅

渋谷の東方面の台地を散歩。この台地は淀橋台。台地を構成する地層は下末吉層、河岸段丘としては下末吉台地。その台地表面は下末吉面。つまり、(武蔵野台地に比べ)古い時代にできた台地。したがって、地形の侵食は進んでいる。その侵食で残った台地と削られてできた谷、低地で構成されので、街の様子が異なる。特に谷筋は幹線が走る。高速道など。台地は当然高級住宅街、あるいは学校、文化施設。この範囲の低地として一番典型的な街は麻布十番。段丘崖の土地利用として、広尾の堀田藩邸⇒日赤病院⇒大規模集合住宅を、今、知った。

■ 1;渋谷駅、⇒ 氷川神社 ⇒ 2;塙保己一資料館(渋谷区東)

渋谷駅で降りる。地上に出る。渋谷駅のことはよくわかっていない。今、このブログ記事を書くため調べると、地上にあがった場所は、道玄坂下であるとわかる。JR高架の下をくぐり、宮益坂方面に向かう(と今知る)。宮益坂は登らずに、右折して、明治通りを南下する。


明治通りを南下。東交番前交差点を左折する。北東方面へ。

▼ 渋谷氷川神社

渋谷氷川神社は段丘崖にあり、北東側が台地の表面となっている。神社から出る。

▼ 塙保己一資料館(渋谷区東)

入場料 100円。


塙 保己一さん。息子、塙 忠宝(ただとみ 1808-1864;  wiki)を伊藤博文に殺される

塙保己一は江戸時代後期に活躍した盲目の学者です。驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従」の編纂を成し遂げました。また、国学の研究の場として「和学講談所」を創設し多くの弟子を育てました。
塙保己一は盲目の身で国家的大事業を成し遂げただけでなく目の不自由な仲間のことを忘れず、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために力を注ぎました。塙保己一史料館 web site

史料館の方が丁寧に説明してくださいました。版木です。このような版木を保管する施設です。何より、現在でも、要請に応じて、版木を刷って、出版しているとのこと。

▼ 建物全景をgoogleで拾った

■ ⇒ 3.山種美術館

山種美術館 【特別展】没後80年記念 竹内栖鳳

近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳(せいほう) (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。

竹内栖鳳(せいほう)は、元は、竹内棲鳳(せいほう)と名乗っていた。それが、下記事情で改名;

1900年(明治33年)、8月1日神戸を出帆、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。1901年2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めた。wikipedia

つまり、伝統的な日本画家であったが、近代西洋画に出会い、その画風が影響を受けたとのこと。上記、《班猫》もその「転回」の結果。西洋の衝撃と融合(google)の結果らしい(関連愚記事)。

「+」の位置が山種美術館。ここあたりと西側(図中での左)に平坦地が発達している(下末吉面)。
尾根を南北に走る幹線より東(図での左)に崖があり、その東に谷筋が走る。

■ ⇒ 広尾の台地表面 ⇒ ペルー大使館 ⇒ 坂を下る ⇒ 広尾真ん中の谷筋


ミゲル・グラウ・セミナリオ大提督の胸像、ペルー大使館

ミゲル・マリア・グラウ・セミナリオ (1834年7月27日 ペルー パイタ生 - 1879年10月8日 ボリビア プンタ・アンガモス没) は、太平洋戦争 (1879年-1884年)で活躍したペルーの海軍士官で、アンガモスの海戦で最後まで勇戦したことから同国では英雄として扱われている。敵兵を丁重に扱う騎士道精神に満ちた紳士的態度から el Caballero de los Mares (エル・カバレロ・デ・ロス・マーレス、スペイン語で「海の紳士」の意) と呼ばれ、ペルー人のみならず敵であったチリ人からも尊敬を集めている。ペルー海軍を象徴する人物であり、アメリカ大陸で最も有名な商船船長および海軍指揮官の一人とされる[1]。最終階級は少将。後にペルー議会から「ペルー大提督」を追贈された。wikipedia

台地最高部の平坦地から谷筋へ(東へ)下る。

2台車が写っている。その間を左右に走っている道が谷筋の道(広尾の台地の真ん中を走る谷の最低地)。この谷筋を越えると登り坂になっている。その登り坂を登った台地面が日赤医療センターや東京女学館が載っている台地面。

■ 4.日赤医療センター ⇒ 広尾ガーデンヒルズ ⇒ 広尾の東端の谷筋

日赤医療センター敷地内を横断。広尾駅方面へ向かう。

▼ 日赤医療センターの敷地から出て、広尾ガーデンヒルズの中の坂道を下る。


google

広尾ガーデンヒルズ(ひろおガーデンヒルズ、Hiroo Garden Hills)は、東京都渋谷区広尾に所在する大規模マンションである。住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命保険の4社共同開発によって[2]、1987年2月に全体が竣工した。wiki

 
1945-1950年(左)[戦前画像も同様であった]、現在。
日赤病院は戦前から大規模にここで営していたと知った。日赤の下(南)は聖心。

1972年(昭和47年)末、渋谷区広尾[注 1]の堀田備中守の屋敷跡に位置する日本赤十字社医療センターが老朽化したため、日本赤十字社が敷地の半分に新しい病院棟を建設する目的で事業プロポーザルを実施。住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命保険の4社共同事業体の提案が選定された。4社共同事業体が選定された理由は、計画案全体が住宅建設という、公共性をもったプロジェクト内容という日赤側の趣旨に見合ったものだったからである[4]。しかし、日赤の不動産ビジネスに対する無知のため、市場価格の半値程度で敷地を手放していると日本赤十字社医療センター院長を務めた幕内雅敏が明かしている。wiki


https://map.goo.ne.jp/history/edo/map/23/

江戸時代の土地利用。「堀田備中守」の位置が現在の日赤病院+広尾ガーデンヒルズ、「南部美濃守」が現在の有栖川宮公園。「松平陸奥守」は現在の仙台坂に面する土地。

■ ⇒ 広尾駅 ⇒ 5.有栖川宮公園

▼ 広尾低地 外苑西道路

▼ 5.有栖川宮公園

■ ⇒ 6.狐坂 ⇒ 7.麻布十番


中共大使館

狐坂 プロフィール

■ ⇒ 7.麻布十番


きみちゃん像

■ ⇒ 8;六本木交差点


芋洗坂

■ 8;六本木交差点

■ ⇒ 9.乃木坂

▼ 乃木邸

▼ 9.乃木坂

■ ⇒ 10;青山一丁目駅

■ まとめ 通過町
渋谷区:道玄坂、渋谷、東、広尾
港区:南麻布、元麻布、麻布十番、六本木、赤坂、元赤坂