いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

吉目木晴彦、『ルイジアナ杭打ち』について知ったいくばくかの公知情報

2014年07月20日 20時07分23秒 | 

吉目木晴彦さんという作家がいる。作品は多くないが、発表作がのきなみ重要な賞を取っている。

『寂寥郊野』で第109回の芥川賞 (吉目木晴彦:wikipedia

『ルイジアナ杭打ち』(1988年出版)という作品はおいらにとって印象深かった。1997年に読んだ。

吉目木晴彦さんの自伝的小説だ。自伝といっても子供の頃だ。

親の生物学者に連れられ1960年代の米国、しかもまだ人種差別の雰囲気が残る南部での思い出である。

ルイジアナ、バトンルージュ。

『ルイジアナ杭打ち』は、戦後まだ20年での、「敗戦国」の日本人のアメリカでの生活の一端を描いている。

出てくる日本人男は学者であり、出てくる日本人女たちは「戦争花嫁」だ。ただし、日本人学者の妻を除いて。

『ルイジアナ杭打ち』はいろんな視点から読める。

そのひとつが、戦勝国軍人の敗戦国民への視線だ。

この『ルイジアナ杭打ち』でかなり目立つ登場人物である元戦車隊長のジェンキンスさんが逮捕され、連行されるとき、主人公(私=ヨシメキ、現地での通称ハリー = 事実上、 吉目木晴彦さん )に叫ぶ;

「ハリー[1]はいいヤツだよ。でもこれだけは忘れてないで欲しいな。ワシらは昔あんたらの国と戦争をして勝ったんだ」 
『ルイジアナ杭打ち』

[1] ハリー: 吉目木晴彦さんの米国での通名= ハリーさんの御尊顔はこちら→google画像[吉目木晴彦]、 ジミーさんはこちら→google画像

これとは別にもうひと場面ある;

 一九六六年のことだった。
 ある日、大学構内で起きた出来事、ごく些細な出来事に過ぎなかったし、それで誰かがあからさまに傷つけられたというわけでもないので、今では両親もそんなことがあったのをすっかり忘れてしまっているのだが、私は覚えている。あれは初夏の夕暮れでまだ表の明るい自分に、学生ユニオンの裏側にある庭を父と母と一緒に歩いていた時だった。昼間降った雨のせいで、鏡の塔のように夕陽を乱反射する大きな菩提樹の木の陰から、白い制服を着た学生がふたり、肩を揃えて歩いてくるのが見えた。
「士官学校の生徒だよ。見てごらん・・・・こっちの方へ曲がってくるから」
 ルイジアナにいる間、私の両親はよく第二次世界大戦の話をした。(中略) 
 父(略)は海軍兵学校で第二次世界大戦の終わりを迎えた。
 (中略)
 あの日、父は私に士官学校の生徒の足許をよく見ろと言った。径に沿って曲がる時にもふたりの足並が乱れないのを見せようとした。
 「訓練でああなるんだ。自然に足並が揃う。私もやったんだぞ」
 父は私と並んで実演してみせた。そうじゃない、膝を曲げないんだ。
 士官学校の生徒達は私達に気づいた。私は彼らの様子をじっと観察していた。やがてふたりとすれ違った。その時、ほんの一瞬、彼らの咎めるような不快そうな視線で父を見やった。
 どうしてだか今でもハッキリ覚えている。
 日本は戦争に負けてよかったのだというのが私の両親の一致した意見だった。勝っていたら軍部が威張ってどおうしようもなかっただろう。
 かつて毎夕 ルイジアナ州立大学の構内を散歩していた頃の私は、自分の父祖達が以前自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだと聞かされたものだった。
『ルイジアナ杭打ち』

■ 戦勝国軍人の敗戦国民への視線の話から、離れて、上記引用の中の;

日本は戦争に負けてよかったのだというのが私の両親の一致した意見だった。勝っていたら軍部が威張ってどおうしようもなかっただろう。
 かつて毎夕 ルイジアナ州立大学の構内を散歩していた頃の私は、自分の父祖達が以前自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだと聞かされたものだった。

このくだりはよい。 戦後日本というのはこういう気分が支配的であったのだ。負けた結果の戦後はいい世の中だ、という気分が支配的だったのだ。

 「自分の父祖達が以前 自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだ と聞かされたものだった」

別においらはこの海軍兵学校出の元ぬっぽんB & B = bed & brackfast =Best and Brightestの売国的言動、あるいは、敗北主義的言動を責めているわけではない。

おいらだって、そうだ;  ありがとう、アメリカ。自由です。快適です。いつもおばかなことを書いても、おまわりさんに捕まりません。

これが、戦後だ。 

でも、海軍兵学校出身者がこれだけ言明した文章をおいらは見たことがなかった。

蛇足ながら、この時(1945年、昭和20年)のぬっぽんの B & B  は、 海軍兵学校生徒であったと歴史は伝えている。

 日本が戦争に負けてよかったのだと言ったとされるのはフィクションかもしれない。でも、この主人公の父親、すなわち海軍兵学校75期生の吉目木さんは人物を特定することができる。ネットの公知情報によってである。

 海軍兵学校出身者は名簿が公開されている。勝手に公開されているといってもいいのだろう。しかも、ネット上にでもだ。

『ルイジアナ杭打ち』には主人公の家の名字がヨシメキと書かれている。

⇒ 海軍兵学校75期生の名簿の吉目木さん 

どうやら、この「日本が戦争に負けてよかったのだ」と発言したと"作り話"=小説に描かれている海軍兵学校出身者は吉目木三男さんらしい。

そして、さらには仙台の出なのだ。知らなかった。吉目木というのは仙台伊達家家臣のひとつの名字なのだ。

竹雀1級の試験対策には、姉歯ばかりでなく、吉目木も注意苗字だったのだ。

なお、1966年に東北大学から学位を受けている。『ルイジアナ杭打ち』は1966年、1967年の頃の出来事だ。


ソース

すなわち、昭和20年10月付で卒業した海軍兵学校75期吉目木三男さんは、ゾル転して、故郷の東北大学で生物学を学んだのだ。おそらく、1966年(昭和41年)6月に学位を取ったので、アメリカの大学に研究員として雇われる資格ができたのであろう。そして、渡米。

小説『ルイジアナ杭打ち』では1966年春には吉目木三男さんは既にルイジアナ州立大学に出仕。辻褄をあわせるのなら、吉目木三男さんは既にルイジアナ州立大学に出仕中に一時帰国して、「論博」審査を受けて、学位取得、ということか。

つまりは、敗戦時は海軍兵学校で海軍将校になることに頓挫した吉目木三男さんはゾル転して、生物学者として学位を取って、旧敵国に出稼ぎに行って、士官学校生徒を見つけ、つい自分についての追憶に耽ってしまった結果、不快そうな視線を射られたのだ。

と、ブログでもtwitterでもほとんど言及されることのない『ルイジアナ杭打ち』について書いてみた。

蛇足ながら、海軍兵学校未卒→転々→東北大学で哲学の徒、についてはかつて言及した。→日帝海軍最年少の復員兵、あるいは日帝廃棄物; 木田元さん私の履歴書

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