いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第386週

2022年04月02日 18時15分57秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第386週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の紅白 ①

■ 今週の紅白 ②

■ 今週の撮る人

■ 今週の似て非なるもの

左;高菜、 右;ほうれん草

■ 今週の文房具

uniball signo[0.38mm] ユニボール シグノ)の替え芯10本を使い尽くした。

■ 今週(<荊の簪を挿す御方様>が)借りた本; 

「埠頭を渡る家族」のその後


佐野洋子、『シズコさん』。

その時でも子供五人というのは多かった。大連の埠頭を茶色いふとん袋をかついだひょろけた父のあとを私達一家がゾロゾロ歩いていると、同じ引き揚げ者から「まあ、沢山お子様がいて」と何回も声をかけられた。その声には、同情と尊敬と感嘆が含まれていた。 (佐野洋子、『シズコさん』)


大連港の埠頭、2005年

『シズコさん』は、絵本『百万回生きたねこ』が総計200万部以上売れた作家である佐野洋子の語る家族史。特に、呆けた母親を施設に預けることに自責の念を語るところが、多くの読者に感銘を与えているらしい(Amazonレヴューより)。おいらは、満鉄調査部勤務の学者・研究者である引き揚げ者とその家族という観点 [1] から読んだ。

上記の引用の情景は、昭和22年(1947年)に大連港の埠頭から引き揚げ船に乗船するところ。この時、佐野洋子は9歳、父・佐野利一は40歳、母・シズコは33歳、兄ヒサシ11歳、弟ヒロシ6歳、弟タダシ2歳、妹1歳。家族7人が埠頭を渡った。

引き上げ直後、兄ヒサシ、弟タダシと新たに生まれた弟の3人が死ぬ。遠因は栄養失調だ。

おいらは、かつて書いた;

ところで、これは中二病の頃からうすうす感じていたんだけど、「自分は日帝侵略兵士の子供だから、親をしばいた!」とか、あるいは逆に悩んでいたとか、はたまた、「自分は日帝侵略兵士の子供だから恥ずかして生きていけないから自殺する」とかいう話はきかないよね。おいらが知らないだけなのかもしれないが。(愚記事:「反日」思想の源流;津村喬拾い読み

▼ 母親・シズコさん

佐野洋子は書いている;

 母さんは北京にいた時が、一番幸せだっただろうと思う。
 家の中の板の間にスベリ台があった。庭で兄がイギリス製のおもちゃのオープンカーに乗っている写真がある。父さんは砂場も作った。ブランコも作ってくれた。落ち着かないように箱型になっていた。やたらに器用な人だったの。お手伝いさんもいた。

 我が家も植民地を支配した「ワルモン」の生活をしていたのだ。

佐野洋子は母親・シズコさんを人間として嫌っていると表明している。その理由のひとつは、チャイナ滞在時代の外地における偉そうな母親・シズコさんの挙動だ。『シズコさん』とは別の本に書いてある;

正気の時は乱暴でがさつでパワフルだった。正気の時は母さんとの確執に苦しんだ。
 母さんは私が在日韓国人と友達になっていると「朝鮮人とつき合っちゃ駄目」と云った。当然のように云った。
 北京や大連に居た時は平気で「チャンコロ」と云っていた。
 正気の時はずーっとそう思っていたと思う。
(佐野洋子、『役ない日に立たない々』2008年)

乱暴でがさつでパワフルという性格以外に、虚栄心が強いことも佐野洋子が母親・シズコさんを嫌う理由だ。端的に見栄を張るために虚言を弄するとのこと。

母親・シズコさんはモガ(モダンガール;昭和初期に欧米化・近代化した風俗を取り入れた若い女性)であり、帝大性/東大生と結婚することを目指し、佐野洋子の父である佐野利一を「捕まえた」というのが佐野洋子の見立て。

▼ 父・佐野利一

佐野洋子の父は、山梨の農家の七男で、東大を出て、北京大や満鉄に勤めていた。著書として、『南満州鉄道』(昭和16年)が認められる。 引き上げ後は静岡県の清水市で高校教師をした。佐野洋子はこれを遁世と評している。

佐野洋子は「父の娘」である。佐野を名乗っているし。佐野洋子は幼いころから利発で中学も附属中学に行っている。努力しなくても勉強ができた。家事の手伝いは苛酷にやらされた。子供の頃、絵画の才能を発揮し、父・佐野利一に芸大に行く進路を定められたと佐野洋子は云っている。佐野洋子は父親に苛酷に扱われた経験は書いていない。でも、佐野利一は、かなり強烈な人だったらしい。自分が努力しなくとも学業成績がよかった人にありがちな属性で、勉強ができない人を理解できないのかもしれない。犠牲になったのが弟ヒロシ。今でいう「教育虐待」だ。この「教育虐待」の描写も『シズコさん』のすごいところだ。

そして、何より佐野利一もすごい。この人がいて、シズコさん、佐野洋子ありきとしかいいようがない。「埠頭を渡る家族」はキ〇ガイ家族に他ならない。

▼ Aspiration

Aspirationといきなり英単語ではあるが、最近知った。なかなかぴったりの日本語が見つからない。辞書では、aspiration= 強い願望、大志、憧れである。上昇志向の願望といったところか。さらには、最近の言い廻しに従うと、「何者かになりたい」欲ともいえる。

「埠頭を渡る家族」は、皆これに憑かれることが運命となっている。正確に言うと、父・佐野利一は子供たちにaspirationを注入しようとした。

▼ 伏兵 弟ヒロシ

佐野利一の「教育虐待」の犠牲となった弟ヒロシは、ヒロシが16歳で佐野利一が死んだとき、喜んだ。弟ヒロシは、大学は出て、市役所に勤める。佐野利一的基準からは不満足なaspirationだったかもしれない。そして、弟ヒロシの嫁とその後ヒロシが起こした事故/事件で、母・シズコさんの新たな人生が始まる。

[1] 満鉄調査部;東大出、左翼、転向

佐野利一の戦前の履歴はわからない。佐野洋子、『シズコさん』には佐野利一が左翼運動にかかわり特高に目を付けられ実家にも「迷惑」が及んだとのこと。この「左翼」活動から何がどうしてチャイナ大陸に渡り満鉄調査部に勤めたかは説明されていない。佐野利一は1907年生まれ。とすると、石堂清倫と3歳しか違わない。石堂清倫とは;

1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。1933年11月保釈。

1933年、転向・釈放後、1934年3月日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集及び翻訳を手掛けたあと、1938年7月、満鉄調査部に入社、当時の満州国の大連に赴く。1943年7月、満鉄調査部第二次検挙(第二次満鉄事件)で逮捕、投獄。1944年12月釈放。敗戦後、大連のソ連司令部と折衝するなど在留日本人引き揚げに尽力。wikipedia

佐野洋子、『シズコさん』には、佐野利一についての研究仲間からの評が報告されている。

■ 今週の「生まれた初めて食べた」

佐野洋子、『シズコさん』には引き揚げ船での経験が細かく書かれている。コメのオジヤに感動している。なぜなら、それまではコメは食べられず、こうりゃんを食べていたからだ。

 引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流し込まれた。
 おじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコウリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私達に、米のねばりは心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを洗う必要のないほどなめつくした。
 私はその食事以外に何者望まなかった。
 貨物船の船底は荷物がびっしりと埋まり、その間に、人が荷物に寄りかかって座っていた。 
佐野洋子、とどのつまり人は食う、初出 『猫の手帖』、1979年、のち『私の猫たち許してほしい』、『とどのつまり人は食う』など

おいらは、こうりゃんを食べたことがない。<荊の簪を挿した御方様>にねだって、買ってもらった。大津屋からだ(上野、アメ横のスパイス・豆の専門店、大津屋に行く;おいらは、絶対、路地裏派!)。今回は、通販だ。

煮茹でた。食べると、ツブつぶ感が強い。消化にわるいかも。

これだけ、毎日、沢山食べさせられたら、つらいかも。

大津屋では「こうりゃん」ではなく、タカキビというのだ。wikipedia

■ 今週知ったこと; 米国雑誌「マッコールズ」


Google  

Google: 雑誌「マッコールズ」

  夜なきそばが食べられるのは、大したお金持ちの時だけで、夜中におなかがすくと、マリちゃんと私は、音もなく食堂に忍び込んで真っ赤なのりみたいなジャムをべったり塗ったコッペパンを盗んで、私のベッドにひっくり返って、ジャン・バルジャンになったみたいな気分になった。ベッドから寝転んで見えるところに私は、アメリカの「マッコール」という雑誌から破った料理の写真をベタベタたくさん貼った。私の部屋にはそれ以外の装飾物は何もなくて花一本なかった。
 脂をしたたらせたローストビーフの塊に銀色のナイフが、ペロリとおいしそうなピンク色をしているのを1枚、今まさに切り落とそうとしているのとか、缶詰の黒桃がとろりと缶からでかかっているのとか、花畑のようにオープンサンドが盛大に並んでいるのとかを見ながら、私たちは結んだコッペパンを食べた。私は何にも食べるものがなくても、その美味しそうな写真を眺めずにはいられなかった。
コッペパン、佐野洋子、『とどのつまり人は食う』

戦後日本において、敗戦の困窮を経た人、その中でも(学校という注入文化を受容した)「エリート層」が、お手本としてのアメリカさまに魅了される情景の自己申告記録として貴重だ。

上目遣いにアメリカさまを仰ぎ見る戦後日本人の姿がきちんと描かれている。アメリカさまをありががたがる戦後日本人の形成過程だ。

■ 今週の「早く人間になりたい」

米国のアカデミー賞を受けた濱口竜介監督のインタビュー;

濱口竜介監督:

『ドライブ・マイ・カー』のモチーフは、これまで海外で異彩を放ってきた日本特有の文化ではなく、普遍的なものです。

「アメリカの観客のある種の厳しい目線に耐えるような、役者さんたちの素晴らしい演技がこの映画には映っていて、本当にこの役者さんたちの感情というものを感じて、アメリカの観客も、肌の色も言葉も違うけど、同じ人間なんだと。同じ弱さや同じ傷を抱えていたりする、そういう人間なんだということを、すごく受け止めてもらったんじゃないか。ここが“到達点”だったら嫌だなと。ここが“通過点”だといいなと思っています」

ソース 濱口監督「同じ人間なんだ」米アカデミー賞国際長編映画賞『ドライブ・マイ・カー』

なぜ、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えることに価値があるのか?わからない。そして、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えることの原因が「同じ人間なんだ」ということであるとのこと。つまり、「同じ人間なんだ」と認めてもらうのためには、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えなければならないということだ。さらに、「普遍的」...。

何なんだ、これ。おいらの認識がゆがんでいるのか?ひがみ根性か?

■ 今週の検索語彙; オクラホマ景気

オクラホマ景気