いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

立川参り2021;昭和記念公園 ⇒ 旧米軍大和空軍施設(玉川上水駅)

2021年11月17日 20時01分47秒 | 東京・横浜

毎年恒例とした昭和記念公園参り。今年で5年目(2016, 2017, 2018, 2019, 2020)。立川・昭和記念公園も年々深まってきている。本やネットでだ。最近知ったのは、米軍大和空軍施設。<やつらの言葉>でYamato Air Base。立川基地以外にも近くに米軍基地があったのだ。立川基地、現昭和記念公園から歩いていける距離なので、今年は散歩経路に入れた。2019年と同じく砂川口から出るのだ。

1;JR立川駅、2;オリオン書房、3;昭和記念公園、あけぼの口、4;いちょう並樹、5;池、6;広場、7;日本庭園、8;砂川口、9;阿豆佐味天神社、10;玉川上水、11;旧大和空軍施設

■ 1;JR立川駅付近

■ 2;オリオン書房

初めて立川に来た時、入った本屋はオリオン書房。地元の書店らしい。そこで昔の立川の写真集をみた。地元の書店なので地元関連の本を平積みにしていたのだろう。1977年まで、米軍がいたのだからそうなのだろうが、実感はなかった。「基地の街、立川」の過去画像」の集大成をネットで見つけ; https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/albums/72157648726604968 「新鮮」な驚きをもった。ほんと、アメリカンなのだ。最近知ったのだが、立川基地には米軍が1万人近くいて、日本人従業員も1万人ほどいたらしい。1960年代の基地最盛期、ベトナム戦争の頃か。日本人従業員1万人って一大産業だ。もっとも、パンパン(米兵相手の売春婦)は最盛期には3,000-5,000人が立川にいたいう(ソース)。「土地」を売り、「体」を売って生き延びる敗戦国の焦点だった。その跡地に、「緑の回復と人間性の向上」を唄いできたのが、昭和記念公園だ。いまだに、日本の回復(レコンキスタ!)を言えない日本の国権の隠語が「緑」にほかならない。昭和記念公園は昭和天皇記念館がある国立公園だ。

ということで、オリオン書房の地元関連図書架台を確認にいった;

■ 3;昭和記念公園、あけぼの口


黄帽の人たち

■ 4;いちょう並樹

■ 5;池

■ 6;広場

■ 7;日本庭園

▼ こもれびの里

こもれびの里は、水田や畑、農家と屋敷林等、昭和30年代の武蔵野の農村風景やそこでの暮らしを再現しています。また、「昭和・武蔵野・農業」をテーマに単に昔の風景を垣間見ることではなく、暮らしの中で培われてきた知恵を再発見し、継承していくことを目的としています。国営昭和記念公園 web site

今年は幟旗はなかった。上の画像は2019年のお参りで撮影。

興味深いのはこの幟旗が昭和記念公園すなわち立川基地の北の砂川五番の村のものであること。立川基地の北といえば、米軍立川基地の滑走路延長に反対し、結果、延長を阻止(砂川闘争)の集落のはずだ。

万延元年に「ひたすらわへいのかみ むらむらのこてきをきく」とうたっている。

■ 8;砂川口

■ 8;砂川口 ⇒ 9;阿豆佐味天神社

阿豆佐味天神社(あづさみてんじんじゃ)は、東京都西多摩郡瑞穂町にある神社。

また、立川市砂川町に鎮座する阿豆佐味天神社は、1629年(寛永6年)のちに砂川村となる地域の開拓に伴い、その鎮守として勧請し、1738年(元文3年)に本殿が造営された。砂川の新田開発を行った岸村(現在の武蔵村山市岸)の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。wiki

■ 10;玉川上水

■ 11;旧大和空軍施設

玉川上水駅前

大和空軍施設(やまとくうぐんしせつ)は、かつて東京都東大和市及び立川市に所在していた米軍基地である。大和基地とも呼ばれる。面積343,537平方メートル(約34ヘクタール)のうち、東大和市所在分は約31ヘクタールで立川市所在分は約3ヘクタールだった。wiki


1960年代の航空写真


同上の航空写真の域の現在の地図


現在の航空写真


1967年の Yamato Air Staionの正門らしい(ソース:Mike Skidmore様より)

このYamato Air Staion(大和空軍施設)は滑走路があるわけではなく、目的はおいらにはわからない。ただし、学校があったという情報がある。近所の立川や横田など滑走路がある空軍基地とは別の役割、特に駐留米空軍のバックアップ業務、駐留米空軍家族の教育施設のための施設らしい。

two schools, kindergarten and grade school thru Jr high with the high school located at Yamato Air Station a few miles awayソース

なお、この施設は敗戦時にすぐに接収されたのではなく、朝鮮戦争が終わり、講和も終わった1953年に接収された。おそらく、朝鮮戦争で立川や横田の軍備充実で敷地が足りなくったのであろう。

1960年代に米空軍は横田以外に6つの基地・施設・住宅を東京、武蔵野ー埼玉にもっていた。ジョンソン基地、モモテ住宅地区、グラントハイツ(住宅)、グリーンパーク、関東村、府中、そして大和基地だ。

このうち、グリーンパークと大和基地を知らなかった。 他の3つは、レコンキスタ史跡訪問を行っている。

愚記事;
モモテ住宅地区、グラントハイツ(住宅)
関東村、府中

▼ 関東計画;KPCP

立川はじめ上記6基地は横田基地に集約された。これは「関東計画」とよばれている。ただし、「関東計画」とは、1973 年 1 月に日米間で実施が合意された「関東平野地域における施設・区域の整理・統合計画」(Kanto Plain Consolidation Plan)の通称 (「関東計画」の成り立ちについて  小山 高司

ソース

■ 旧大和空軍施設史跡

Yamato Air Stationの跡地に米軍関連の遺跡はない(ようだ)。ただし、我らが日帝遺産はある;

旧日立航空機立川工場変電所

旧日立航空機立川工場変電所(きゅうひたちこうくうきたちかわこうじょうへんでんしょ)は、東京都東大和市にある、1938年(昭和13年)から1993年(平成5年)まで使用されていた変電所である。戦災建築物であり、東大和市の指定文化財(市史跡)に指定されている。wiki

■ Yamato Air Stationの情報はMike Skidmoreという人が多量に発信している。Mike Skidmoreという人は1958年に8歳で船で横浜に米空軍軍人の親に連れられ来たが、そうそう、はためく赤旗とヤンキーゴーホームに迎えられた(ブログ:Growing Up in Japanan)。高卒までYamato Air Stationの学校に通っていた。YouTubeもある。

Yamato High School 1959-1973 Tachikawa Air Base Japan 1945-1977



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