いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

高坂正堯、江藤淳;「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認した二人のその後の「何事もなかったかのように」

2021年11月11日 17時39分08秒 | 日本事情


1853年 米国東インド艦隊、マシュー・ペリー来航

▼ 高坂正堯の場合

高坂正堯が1965年に「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認したことをブログ記事にした;

① あるいは、奴らはどっちから来た !? 
② 高坂正堯が見なかったもの、あるいは、南シナ海、再び、世界史の海へ

些細な誤りをあげつらうようだが、その誤りの背景には意味があると、おいらは思う。そして、この「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」という誤認は、高坂正堯だけでなないということが、この誤認を出来させる構造的なものがあることを示唆する。「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」という誤認をしていたのは、江藤淳だ。1964年。つまり、ほぼ同時代。むしろ、江藤の誤認の方が早い。

▼ 江藤淳の場合

しかし、中国は、フルシチョフ失脚に追い打ちをかけるように一発の核爆発でその巨大な存在を認めることを要求した。それは、認めざるを得ない外界の侵入だという意味で、一世紀前に提督ペリーが徳川幕府に対して行なった要求に似ていた。違うのは、ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきたのに対して、この第二の侵入者は日本海を越えて来る放射能雨というかたちで姿をあらわしたという点である。 1964年12月 「文藝春秋」 のち、「江藤淳著作集6 政治・歴史・文化」に『幻影の「日本帝国」』として収録。

このように江藤淳は「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認している。[1]

この文章の背景は、1964年(昭和39年)の第一回東京五輪の開会式に中共(中華人民共和国)は核実験を行った。中共にとって初の核実験であり、成功し、核保有国であることが明らかとなった。その中共の核実験・核保有国宣言を江藤は日本にとっての第二の黒船=認めざるを得ない外界の侵入と認識している。そして、第一回目の本当の黒船は上海を経て日本に来たののに、「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認しているのだ。

[1] 江藤淳が「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認していることは、小谷野敦が『反米という病 なんとなくリベラル』で指摘している。

江藤は、オリンピックが終わった後の一九六四年十二月の『文藝春秋』に「『平和の祭典の光と影』 幻影の『日本帝国』」を書いており、これは単行本に収録されていないようだ。ここで江藤は、ペリー来航以来の日本の歴史を屈辱とともに思い返し、敗戦の痛手の中で怨念を込めて行われたのがオリンピックだと位置づけている。聖火リレーの最終走者に「原爆の子」が選ばれたのは、「報復」だと江藤は言っている(なお江藤は、ペリーが太平洋を越えてやってきたと書いているが点、ペリー は東海岸から喜望峰回りで来航している)。反米気分の横溢した文章で、帰国後の江藤の心裡をうかがうにたる。 (小谷野敦、『反米という病 なんとなくリベラル』)

この文章は単行本には収録されいないかもしれないが、上記のように、著作集には改題され収録されている。

▼ 1971年のそんな誤認はなかったかのように

1971年に、「座談会 外交の芸と術」というのが雑誌「季刊藝術」1971年秋 第19号に載った。座談会の参加者は神谷不二、高坂正堯、永井陽之助、江藤淳。その時代背景は、2つのニクソンショックだ。ひとつは、金とドルの交換停止。これで変動相場へ移行することになり、安い円で輸出を促進していた日本に打撃。もうひとつが、キッシンジャーの極秘訪中とその結果のニクソン訪中決定だ。米国に追随しているつもりで対中共強硬策を採っていた佐藤内閣は梯子を外された。キッシンジャーは周恩来に向かい、日本をジャップよばわりしていたのだ。

そういう時代だ。 でも、この引用は、こういう背景での座談会の趣旨にはあまり関係ない。引用目的は、「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認した高坂正堯と江藤淳がそのような誤認なぞしなかったかごとく振舞う様子、あるいは、その誤認を些細扱いする様子がみえて、おもしろいのだ。

神谷 戦後これだけ長く、四半世紀のあいだ海洋国家的な生き方をして順調にいってて…、しかし、ここへきて中国の問題がひとつ出てきますとこれだけひっくり返りそうでしょう。結局のところは安全保障の感覚じゃないですかね。つまり、日本の場合安全保障というのは、それに対して脅威が来るとすればオロシア以来、なんか西から来るという感覚ですよ。「西力東漸」だね。黒船はその意味じゃ安全保障に対するというところは案外素通りしちゃったような感じかな。

永井 ぼくぐらいがいったのかな。

高坂  いやいや 、末梢的なことながら黒船も西から来たんだよ。太平洋を横切れないから回ってインド洋をこう来たんですよ。

江藤 そう、沖縄の方から来た…。

高坂 西から来たんだよな。象徴的ではあるね。

江藤 そう思うと、沖縄があんな先鋭な問題になっているのは、あれは非常に象徴的なことですね。沖縄と朝鮮。そこへ行くと台湾は日本にとってはそれほどでもない。中国にとっては別だけれども。(以下、略)

このように高坂と江藤は、ペリー艦隊が西から来たことはあたりまえのように語っている。ふたりとも。なぜ自分たちは6-7年前に事実誤認をしたかという自己分析などはない。

▼ 1971年の座談会メンバーとその時代

 上記の座談会のメンバー4人はある種の同志であった。どういう同志であったかというと佐藤栄作内閣(1964-1972年)の知識人としての支援者たちであった。国際関係懇談会という組織を佐藤栄作は発足させた(1971年8月)。メンバーは、江藤淳、高坂正堯、石川忠雄、梅棹忠夫、衛藤瀋吉、神谷不二、永井陽之助、中嶋嶺雄、山崎正和の13人(この情報は服部龍二、『高坂正堯 ー戦後日本と現実主義』より)。

 つまりは、佐藤政権の取り巻き知識人グループだ。高坂と江藤はこの中にいた。でも、彼らは、当時、知識人世界では、反時代的存在と云ってよいだろう。時代は、ピークを越えたとはいえ、「1968年"革命"」ー大学紛争の時代。大学教員は戦後民主主義を良いとする人々が主流であったに違いない。さらに、戦後民主主義を批判したとされる新左翼的集団も、高坂正堯の研究室を荒した(同上書より)時代だ。

▼ 1971年の座談会メンバーとのその後

 江藤淳の伝記的視点から上記13人を見て興味深いのが、中嶋嶺雄、山崎正和のふたりの名前が見えること。このふたりこそ、江藤が1983年に発表した「ユダの季節」(現在、『批評と私』に収録)に名指しされた「ユダ」にほかならない。ユダというのは右翼だ左翼だ御用学者だ反体制知識人だという以前に、人から信じられず、人を信じない、人間より教義を信じる人々のこと。良心が外在化しているので、教義のためには人間を裏切る。さらには、現実の認識もできなくなり、嘘を信じることになる。具体的には、(話は飛ぶようではあるが)占領軍が検閲を行い、かつ検閲を行ったこと自体を秘匿する命令があったことを無かったことにする認識を持つようになる。

 この「ユダの季節」は、粕谷一希を批判する文章だが、粕谷を支援する「徒党」として中嶋嶺雄、山崎正和のふたりがあわせて批判されている。

▼ 吉田茂認識問題

 江藤淳が1983年に「ユダの季節」を書いた原因は、山崎正和らがいわゆる"吉田ドクトリン"、すなわち国家主権の根幹である交戦権を放棄しながら経済発展に注力した戦後体制を寿ぐ組織的活動を行ったことだ。1981年のサントリー文化財団主催のシンポジューム。この成果は高坂正堯編の『吉田茂ーその背景と遺産』にまとめられている。江藤自身も参加。「吉田茂における養子性」を指摘した、と平山周平、『江藤淳は甦える』にある。なお、内容は『吉田茂と養子政治』(江藤淳、『同時代への視線』1987年、初出:「吉田政治」を見直す、雑誌『正論』、1983年9月号)のことだと思われる。

▼ 江藤淳と高坂正堯のその後

 この「吉田政治」礼賛派と江藤が認識し、かつユダと批難した者たちに高坂正堯は入っていないようだ。上記、サントリー文化財団のシンポジウムに加わり、編者もしているが。さらに、江藤淳が(占領軍の検閲を看過/肯定しているという理由で)非難している猪木正道は高坂正堯の近い位置にいたのに。実際は、江藤と高坂は仲たがいせず、のちのちまで関係は続く。例えば、1994年に対談している(『日本のしなやかな孤独』、「文藝春秋」、平成6年5月号、現在、『日本よ、亡びるのか』に収録)。高坂の死ぬ2年前だ。

▼ まとめ

1964-1965年に「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認していた江藤淳と高坂正堯はその後そろって佐藤栄作内閣のブレーンとなった。共通の友人・ブレーンの仲間だった山崎正和、中嶋嶺雄と江藤はけんか別れするが、江藤は高坂とは絶縁しなかった。高坂はそもそも、『宰相吉田茂』で世俗には1963年に登場。その後、湾岸戦争まで「護憲派」だった。最後のさいごに憲法改正しないと日本は亡びると主張(したはず。おいらは今頃何言ってやんだと思った記憶がある)。政治思想は江藤と違うと思うのだが、なぜか、仲良かったようだ。

というか、もう一度アメリカと戦争せにゃいかん」と激昂したとされる高坂は、アメリカへのある種の感情を抑圧していたのではないだろうか?とおいらは邪推している。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。