いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1951年の「帷幄上奏」;リッジウエイによる朝鮮戦争説明、あるいは、敗軍の大元帥、戦況を問い質す

2020年06月17日 18時49分43秒 | 日本事情

題名は、また、奇を衒ってしまいました。帷幄上奏とは、いあくじょうそう。君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは本来は「帷をめぐらせた場所」のことを指し、「帷幕」などと類義であるが、「帷幄」の語は本義から転じて「大元帥ノ地位ニ於テノ天皇[1]」を意味するようになった。したがって、帷幄上奏は「(軍令事項についての)天皇への上奏」を意味する。wikipedia

確かに、敗戦前までは昭和天皇は帷幄上奏を受けていた。大元帥であったから。大元帥を辞めて5年後の1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発する。十日後の70年前だ。

【朝鮮戦争】6月25日で朝鮮戦争勃発70年となる。日本人の朝鮮戦争への関心は高くないと思う。先の大戦については今でもいろいろな本が出ている。日本人はコタバル上陸・真珠湾攻撃から敗戦、そして引揚げ、抑留など広く関心があり、今でも新刊として多くの本が出ている。一方、朝鮮戦争に関する本は少ない。具体的戦況は、仁川上陸作戦などを除き、あまり知られていない気がする。理由は簡単で、直接の当事者ではないからだろう。しかしながら、朝鮮戦争勃発で第一に出撃しなければならなかったのが日本を占領をしていた米軍。当たり前の史実だが、おいらは、最近再認識した(①1951年、札幌に進駐した米軍 ;第45師団(オクラホマ州兵); ②マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還; ③札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?)。占領下の日本の基地がなければ韓国はもたなかったに違いない。朝鮮有事に疎いかもしれない日本人であるが、朝鮮有事は日本の有事と考えていたのが、ひろひとさんだそうだ。何と、朝鮮戦争勃発前にマ元との会見で北朝鮮侵攻を危険予知したとのこと。なお吉田茂は朝鮮有事などないという認識であった[1]。

【朝日新聞 2002/8/5】おいらが生涯一度朝日新聞を買ったのが2002/8/5の朝刊だ。この日の朝、ラジオで朝日の報道が話題となり、マ元の後任のリッジウエイが昭和天皇に「帷幄上奏」したというのだ。具体的には、朝日新聞にこうある;

 マッカーサー元帥の後任であるリッジウェー司令官との第1回会見は、51年5月2日に行われた。会見場となった米大使館の応接室の壁一面には、朝鮮半島の地図が立てかけてあった。
 天皇が「国連軍が朝鮮において極東の防衛に全力を尽くしておりますのは、私の感謝するところであります」と述べると、司令官は「ご希望ならば地図によってご説明致したい」と応じた。天皇は「ぜひお願い致したい」と地図の前に立ち、説明を受けながら「兵員の交替は」「ゲリラ作戦に煩わされることは」「戦略の重点は」「制空権の点は」などと朝鮮戦争情勢について次々に質問。司令官は一つ一つ答え、国連軍兵士の士気は盛んだと述べた。
 天皇は「日本としては朝鮮において国連軍が戦っていることは、北海道の住民にも精神的信頼感を与える結果となります」と発言、日本にとっては釜山も北海道も「一衣帯水」の関係だとも述べた。

昭和天皇は大元帥だったので軍事には相当通じていた。その勢いで、リッジウエイに「下問」しているのだ。昭和天皇とリッジウエイの会見は1951年5月2日。下の地図の右の4/22の状況の直後だ。

この朝日の記事は、天皇の通訳であった松井明の記録を紹介したもの。この記録は「松井文書」は未だに公開されておらず、研究者として豊下楢彦只ひとりこの史料を基に研究を行っている。豊下は『昭和天皇・マッカーサー会見』を出版している。なお、この本では、2002/8/5の朝日にある下記文章と内容は載っていない;

 リッジウェーとの会見は、あたかも大元帥が軍の責任者に下問するかのように、朝鮮での戦況を詳しく聞くなど「高度に軍事的」という以外にない。この文脈において、共産主義の攻勢に対して原爆使用の意思を問う発言がなされた。こうした問いかけには、政府や外務省の頭越しに安全保障問題でマッカーサーと議論を交わすなどの「二重外交」に通底するものがあろう。それは、共産主義から天皇制を守り切ろうとする強烈な意思と、「天皇リアリズム」とも言うべき冷徹な情勢判断である。(豊下楢彦)

 

[1]

当時山口県知事であった田中龍夫(wiki)は、独自の情報取集で朝鮮有事の危険を予知した。しかし;

危機感を感じた田中知事は、上京を決断、6月21日大磯に吉田茂首相を訪ね、「どうもこのままでは、有利な北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかして下さい」と報告したところ、吉田首相は、「3日前に38度線を視察したジョン・フォスター・ダレス特使(のち国務長官)が、帰途日本に立ち寄り、『米軍の指揮は旺盛で、装備も充実しており、決して心配ない』と言ったばかりだ」と怒り出したのであった [山口県史] (朝鮮戦争と日本の対応―山口県を事例として― 庄司潤一郎)。 吉田茂が怒ったと田中龍夫が証言している音声はこのYouTubeの16分目あたりにある。これに対し、1949年11月、昭和天皇とマ元帥の9回目の会見の時「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることをおそれます」と朝鮮戦争を予見し、マ元帥に忠告していた。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。