goo blog サービス終了のお知らせ 

いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第6週目

2014年12月06日 19時35分54秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■今週の閉店ニュース


札幌市民大ショック! 創業112年、札幌の男子は必ずその扉を開けるという狸小路の模型店「中川ライター店」が閉店へ

大げさな見出しだと思う。今の「札幌」市民はほとんど知らないだろう、中川ライター店。

トイザらス は札幌に2店あると、今ネットで調べて、分かった。 中川ライター店より トイザらス の方が有名だろう、今は。

なお、おいらの"本籍"は中川ライター店より約500mである。 

愚ブログに現れたる中川ライター店;

・愚記事:4丁目、中川ライター店。昔と変わらないのはこの店くらいか。

・愚記事:札幌は狸小路の中川ライター店のダンナさんがかつて霞ヶ浦航空隊にいたということは、札幌っ子の超A級トリビアである

  ↑ 正確に書くと、霞ヶ浦航空隊ではなく、予科練にいたらしい。

中川ライター店主が予科練にいたと言及したブログはこのブログぐらいだけだとおもう。

■今週の訃報

 菅原文太が仙台一高の出だとは知っていた。仙台一高とは仙台で(仙台二高と並ぶ)随一の秀才ちゃん学校である/であった[今は知らない]。20世紀は公立なのに男子校だった。菅原文太の生い立ちについてそれ以上は知らなかった。一方、菅原文太同様『仁義なき闘い』にも出演している宍戸錠は白石の出だと10数年前に知った。本人インタビューをみたので。宮城県白石は城下街。

 白石城は、仙台城と違い、立派な天守閣を持つ。江戸時代は一国一城制であり、"大名はお城ひとつ"と教科書には書いてる。でも、仙台伊達家は仙台、白石と大きな城を2つ持っていた。その白石の出(宮城県立白石高校卒業)の宍戸錠(1933年生まれ)は白石の生まれでなく、疎開者であった。戦災から逃れ、宮城県白石で育ったのだ。家は商売で成功した金持ち。だから、高校を出てすぐ東京の大学に行ったらしい(wiki)。その若い頃、売れない頃から宍戸錠は菅原文太と友だちだったらしい。

 さて、今回の訃報で菅原文太が早大中退と初めて知った。 なんだ、かばちたれなんじゃないか!


愚記事;  呉のもんいうたら、..

1933年生まれで大学に行くとはどういう家の子だったのだろうと初めて調べた(この世代の大学進学率は10%代だとおもう)。というか、wikiを見ただけである。『仁義なき闘い』はDVDももち、何度も見ているが、菅原文太の経歴は特に興味がなかった。

 調べた。 → 1931年(昭和6年)より河北新報社(仙台市)の記者をしていた父親の菅原芳助(洋画家・詩人:狭間二郎)[† 1]のもと、1933年(昭和8年)8月16日に宮城県仙台市に生まれた (wiki)。

 そして、彼もまた疎開者なのだ; 4歳から小学校4年までは東京府(現・東京都)育ち[6]。  1943年(昭和18年)に父親が出征すると、父親の実家がある宮城県栗原郡一迫町(現・栗原市)に疎開 wiki)。

 インテリ・芸術家の家の子だったんだ。 

■ 今週の教育勅語「違反」::夫婦相和し; 

本人談::「私 は妻との関係が上手く行かず自衛隊在職時代から退官したら離婚するという意志を固めていました。妻は私の親族とは全く付き合ってくれないので私の長男と しての立場がありませんでした。付き合わないどころか私の母や妹たちの悪口まで言うので一緒にいることが不愉快なのです。


やはり、ルメイの徒: "祖国"は⇒google [世界離婚率ランキング]

【いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2014.12.05(金) 2498 PV 224 IP 2384 位  / 2100204ブログ
2014.12.04(木) 1022 PV 99 IP 7736 位  / 2099844ブログ
2014.12.03(水) 1593 PV 130 IP 5462 位  / 2099514ブログ
2014.12.02(火) 1215 PV 112 IP 6799 位  / 2099079ブログ
2014.12.01(月) 1804 PV 196 IP 3222 位  / 2098723ブログ
2014.11.30(日) 1836 PV 135 IP 5022 位  / 2098267ブログ
2014.11.29(土) 1193 PV 141 IP 4621 位  / 2097555ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2014.11.23 ~ 2014.11.29 9964 PV 861 IP 6262 位  / 2097555ブログ
2014.11.16 ~ 2014.11.22 11400 PV 827 IP 6339 位  / 2093033ブログ
2014.11.09 ~ 2014.11.15 13196 PV 953 IP 5477 位  / 2089144ブログ

 


ボーアの不思議な旅; 日帝の小春日和の日々 1937年春

2014年12月03日 19時55分25秒 | 仙台・竹雀・政宗

昨日の愚記事;錬金術師の文化勲章; あるいは、理研のお家芸、関連。

おいらは俗物なので、「偉い人」が好きだ。

 片平(つまり大学や裁判所の西側の通りが、片平が載っている河岸段丘面の西端なのである。その通りを北上するとき、平地は右手にのみ広がるので、片平というのである)に来た「偉い人」@来た当時の有名度は問わず。魯迅(1904年)、アインシュタイン(1922年)、老舎(1965年)...江沢民 (愚記事;さて、江沢民同志! あれは16年前、まだ20世紀。 主席時代に仙台さ、来た。 紅梅さ、植えた)???!!!(江沢民国家主席は、魯迅がよく座っていたとされる席に座り、感慨深げに魯迅を偲んでおられました[1])

[1] これって、仮想的たとえ話でいうと、「日独伊三国同盟の時代にヒトラーが日本に来て、どっかの大学で感慨に耽ったので、その大学の文化的遺産です!」、っていうのとおなじではないだろうか?! 大丈夫か? 田舎の三流大学!

 昨日知ったこと。ニールス・ボーアは日本に来たことがあるのだ。

しかも、1937年(昭和12年)、日帝の小春日和の最末期! 知らなかった。

高校生の頃からニールス・ボーアを知っているおいらは、彼が1937年に日本に来たことがあるとは、昨日まで知らなかった。高校生の頃からニールス・ボーアを知っていた理由は、20世紀末はまだまだ「物理帝国主義」の末期だったからだ。俗物であるおいらは時流に乗ろうとがんばったのだ。もちろん、三流の「物理帝国主義」者であるおいらでも、あのアインシュタインが日本に来たことも知っていた。そして、おいらは、はたち過ぎて、アインシュタインが片平に来たとも知った。でも、ニールス・ボーアの来日(当然、戦前)は知らなかった。

そして、知ったさ。ニールス・ボーアは日本に来て、片平にも来たって。

「手引き」は、仁科芳雄である。仁科芳雄=大日本帝国陸海軍は原子爆弾の開発を実施した。実行者は仁科芳雄や荒勝文策、湯川秀樹らである。彼らは、ウランの同位体分離を全くできず、母国が核攻撃で壊滅するのを木偶の坊のように見送っていた。

つまり、本多光太郎の次世代である。なお、仁科芳雄は本多光太郎とともに、日帝崩壊時、中華民国が要求する「戦利"品"」リスト=引き渡し要求科学者リストに入っている(愚記事;敗戦直後、支那が要求した「引渡し要求科学者リスト」)。

知ったさ。ニールス・ボーアは日本に来て、片平にも来たって。

なぜ知ったかというと、本屋で立ち読みしたのだ;

 
量子力学の巨人、一九三七年の講演旅行

そして、来た年は、1937年。南京「大虐殺」の年である。ただし、来た時期は春だ。と、いうことは、仙台にいた本多光太郎が文化勲章をとったあの春である。当然、ニールス・ボーアは、日本各地をまわる中で、長岡半太郎や本多光太郎に会ったに違いない。この本のAmazon レビューで、「戦前が必ずしも閉鎖的ではなく、場合によっては今以上に国際的であるとわかります。 」とある。こういう認識があまり共有されていないのが「戦後」日本。

そして、絶対値は今の方が高いが、1920-30年代の日帝の科学水準は高い。 GDPで規格化すれば[2]、今より全然高い!

[2] 1920-30年代の日本の経済水準、ひとりあたりの富の量は現在より全然低いが、一部の日本人科学者は世界最高水準の科学を実施していた。現在の日本は「多くの科学者」が世界最高水準の科学を実施してはいるが、日本の経済水準、ひとりあたりの富の量は世界最高水準なので、あたりまえである。現在の研究者が使っている税金は、日帝時代に比べて桁が全然違うほど多量である。もっと「多くの科学者」が世界最高水準の科学を実施して当然である。

日帝には、瓦解の前に、小春日和があったんだよ。

そして、嵐。 嵐の原因は未だ徹底的には明らかならず...。

なお、ボーアがアムステルダム出身のユダヤ人と初めて知る。