いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『卡子』など、今年読んだ中国残留・生還日本人物語

2014年12月28日 20時06分18秒 | その他

今年、遠藤誉さんの『卡子』を読んだ。『卡子』=チャーズ。30年間、正視できなかった本だ。

遠藤誉さん。お元気である。おいらのかぁちゃんの1歳年下だ。

むしろ、お年を召してからの方が活動度は上がっているのか? いや、大学業務がなくなって世俗活動の時間が増えたのか?特に、遠藤誉さんはNHKの御用達である。今年は夕方のラジオの中国事情解説に出演していたのを偶然カーラジオで聴いた。

さて、『卡子』。この本はおいらが10代の頃の30年前から知っていた。

なぜ知ったかというと、テレビで見たからだ。 ある平日の午前中、日本テレビ系の「奥様向け」テレビ番組でのことだ。

今でも記録が残る"竹村健一の世相を斬る"(wikipedia)という番組/コーナーの、再編版でのことだ。ゲストの遠藤誉さんのお相手をした番組ホストは竹村健一ではなく、海原治(wikipedia)であった。

今では信じられないと思うが、当時、自衛力の整備が必要と主張すれば、「右翼」と非難された。竹村健一はそういう人物と評されていたし、海原治は自衛隊を作った元々内務官僚であった。だから、この番組/コーナーは「戦後民主主義者」の怨嗟の的となっていた。事実、この頃、竹村が自著の剽窃の疑いを掛けられた時、TBSのテレビ番組では竹村を悪魔化して、危険だ!危険だ!と叫んでいた。

その海原治がホストのテレビ番組に遠藤誉さんは自著の『卡子』を紹介するために出演していた。それをおいらがたまたまよそんちのテレビ(祖父母の家)で見たのだ。

恐ろしい話である、『卡子』。 遠藤誉さん(当時7歳)は中国の国共内戦の長春包囲戦(wikipedia)の生存者なのだ。長春包囲戦では33万人の一般人が餓死したとされている。世紀の餓死都市であるスターリングランド包囲戦の餓死者100万人に次ぐのではないか?(関連愚記事;猫たちが食い尽された街へ;サンクトペテルブルグ参拝 ) とまれ、一都市での死者数は、東京大空襲や廣島、長崎原爆より多いことになる。長春とは満州国の首都、新京である。


日満皇帝の対面

満州国瓦解で新京は長春となった。満州国の首都であったのだから日本人が多く住んでいた。そのうち残留した日本人が長春包囲戦に巻き込まれた。

『卡子』は、その包囲戦による一般人の餓死について書かれた本であると、10代の頃の30年前から知ってはいた。恐ろしくて、ずっと読むのを躊躇していた。この躊躇については=手にすることが怖いことについて、次元が違う話ではあるが、『続 卡子』に書いてある;

最初、店頭で"卡子"という字を見つけた時には、まさかと思ってね。ガーンとやられて、あわててその本屋を逃げ出したんですよ。でもどうしても気になってまた別の本屋に入ってね。そうしたらそこにも平積みしてあるでしょう。もうドキドキして、本に手を伸ばそうと思うけど、どうしても手が震えてね。またそこも飛び出したんです。でも、いったい誰が書いたんだろう、本当にあの卡子が書かれてあるんだろうか。あの卡子を書いてしまった人がいるんだろうかって思ってね、結局、三軒目の本屋に入ったんです。で、三軒目でようやく思い切って手にしました。」 (『続 卡子』、遠藤誉)

これは、同じ時に卡子を体験した人の、遠藤誉、『卡子』への反応である。 その遠藤誉、『卡子』を今年読んだ。

 遠藤誉、『卡子』を読むに先立ち今年春、山本市郎、『北京三十五年』上下を読んだ。よく言えば飄々としている伝記。悪く言えば、おとぼけであった。もちろんとても面白く、秦城監獄監獄での収監の日々も含め(愚記事;②山本市郎さんは秦城監獄にいたのではないか? )、「支那道楽」といっていることも趣ふかい。そんな、敗戦前から中国にいて、『北京三十五年』を書くことになる山本市郎は北京の敗戦時の雰囲気をこう報告している;

 この戦争中に、(中国の)東北にいた日本人たちが、かなりの数、北京へ転居してきた。その人たちのほとんどは、中国人と結婚している日本婦人であって、話を聞いてみると、東北にいた日本人は、日本投降のあと、とても北京では想像もつかないような苦しい生活の連続を経験したのであった。 (『北京三十五年』 上、山本市郎)

結構、他人事である。 北京は日中戦争の閑都市だったのだ。もっとも、その人たちのほとんどは、中国人と結婚している日本婦人というくだりは意味深長である(後述参照)。

そして、あの瀬戸内寂聴さんも戦時中北京に居たと知ったのも今年だ(愚記事)。なぁ~んだ、日本政府の公式見解たる村山談話の精神に則った言葉遣いで彼女を称すると、瀬戸内寂聴さんは日帝侵略者 or 植民地支配者なんじゃないか!(愚記事)。

 一方、長春包囲戦の飢餓からの逃避、つまり地獄からの生還の自伝は、遠藤誉、『卡子』以外にも、武田英克、『満州脱出』があると知り、読む。これもすごい。一緒に逃げた仲間が目の前で餓死する。その様子が淡々と書かれている。餓死というのは本当に静かに訪れるのだ、とわかる。餓死する寸前に「月が二重に見える」という。ところで、おいらは、「月が二重に見える」って何かの話にあったなぁ、と別途思い出した。遠藤誉は大企業経営家族の子供、武田英克は満州中央銀行の行員という庶民ではない人たちだ。庶民の北京では想像もつかないような苦しい生活は一部武田英克、『満州脱出』に見える;

 (武田英克が体重が24kgに痩せて乞食として満州の荒野を歩いて長春から瀋陽(奉天)まで逃避行をする間)途中通過したどんな僻地僻村でも、必ず何人かの日本女性が日本に帰りそこねて中国人の二号三号になり、仕事を手伝われされているのに出会い、驚かされたことも思い出す。

これは満州開拓民が日本に逃げる時、集団として身軽になるためなどの理由で、あるいは、他の満州開拓民保身のために、現地に「棄てられた」若い女性の末路である。なお、この引用での描かれた「不幸」は地獄のものではないといわねばならない。地獄絵は武田英克、『満州脱出』に書かれている (Amazon で"円本"である)。

 あと、敗戦時の引き上げの話ではないが、西条正という人の自伝を読んだ。『中国人として育った私』、『二つの祖国をもつ私』。西条正は1945年生まれ。開拓農民の子。敗戦時、父親は兵隊にとられて不在。母親とハルビンに残留。中国人養父の庇護で育つ。1964年、東京オリンピックの開催直後、文革が始まる直前、日本に帰る。横国卒。前作は、その自伝。後作は、文革前後で受難した養父との再会記。これまたとてもおもしろい。

 この本を知った経緯は、前述の山本市郎、遠藤誉、武田英克からの流れではなく、別途、文革関連の本で「档案(dàng'àn 日本語;とうあん)」についての参考文献で『中国人として育った私』が挙がっていた。それで、知って、読んだ。

 档案というのは中国での個人記録、履歴書。組織が持っている。本人が原則見れない、何が書かれているかわからない。他人(記録者)が見た政治信条が記録されている。

 とにかく書かれていることがほとんど興味深い。中国育ちの15歳が見た日本。例えば些細なエピソードとして、刺身というものが受け付けられない。刺身を見ると猫がガツガツたべるものに見えて自分は食べる気がしない、という「中国人」の感覚が知れておもしろい。これはどうでもいい部類の話で、戦後中国で育った残留日本人の様子が書かれている。

 あと、日本に帰ってきても、中国育ち=中国語ができることの「特権」を活かすことができない。西条正さんは、中国帰還学生なのだから日本政府は然るべきエリート大学の席を自分に用意すべき、と思っていたと証言している。そういう考えを文部官僚に窘められる;

「資本主義社会に来た以上、自分で道を切り拓いていかねばなりません。政府を頼りにしようとする考えを捨てなさい」
 私は小和田さんの話を聞いてショックを受けた。なんと冷たい政府高官だろうと思った。私がこの言葉を理解し、そうしなければならないと理解したのは、数年を経てからだ。 (『二つの祖国をもつ私』)

なお、この冷たい言葉を文部官僚から浴びる前に、西条正さんは湯島聖堂の寝泊り、バイトの恩恵と、「綜合研究所」なる組織から一万円(1965年当時)の奨学金を得ている。その「綜合研究所」の理事長は岸信介であった。これについて西条は「(奨学金を得て)私はうれしかったが、同時にいささか不安だった。というのは(中略)岸信介の名前は日本の反動派の代表として中国で教えられていたからだ。」とある。


これから読みたい本; 今月の新刊。売れてるらしい。古本市場での価格下落を待つ。


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