いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ベゴニア(各論2)

2006年05月25日 20時46分14秒 | 草花野菜


筑波山ベゴニアガーデン
ベゴニア(各論)

■小谷野敦さんが

日本の伝統であるとして天皇制を擁護する人もいるが、大日本帝国憲法と皇室典範の発布までは、天皇の地位は法で定められていなかった。七〇一年の大宝律令以来、日本の基本法は律令だったが、律令のうち地位の規定である令に、天皇の地位に関する規定などない。なぜなら、それは「自然」なものだったからだ。天皇の地位を法で定めると、天皇が法以下の存在になってしまう。

と書いていた(『なぜ悪人を殺してはいけないのか』、第二部、戦後転向論)。でも、家康の禁中並公家諸法度があったんではなかんべか、とつっこみをいれたが、よく見ると小谷野は「天皇の地位は法で定められていなかった」と書いている。そうだ、地位の規定だ。

それで、そもそも、朝廷に任ぜられる征夷大将軍が、なすて、いかなる根拠にて、天皇に法を以ってとやかく言えたのか、不思議になった。ちなみに、この禁中並公家諸法度は家康、秀忠、そして二条昭実の名で出されている。

天子御芸能の事、第一御学問也。

もちろん、内容は悪くないかもしれないが、なぜ家康らが天子さまにあーせー・こーせーといえるのか、その根拠は?

禁中並公家諸法度を読むと、天子さまは学問せー、和歌をよめ、(どーせよむなら、声に出してよめ!、 ウソ )と、『禁秘抄』に、いえり。 と諭吉戦法を家康は使ったとのこと。

『禁秘抄』とは、鎌倉時代に順徳天皇が著した<天皇マニュアル>らすい。家康はてんすサマにあーせー・こーせーと言ったが、それはむかしのてんすサマが後代に言ったお言葉なのだ。(ネタ元;横田冬彦『天下泰平』、日本の歴史16)

つなみに、順徳天皇って、島流しにあったてんすサマなり。順徳天皇 島流し。討幕派だったわけだ。つまり、順徳天皇って、必ずしも「天子御芸能の事、第一御学問也」=天皇はノンポリ(←死語だよね)であれ、ではなかったのだ。

幕府に流され、another幕府にダシにされる順徳サマ


 てんすサマが流される島のすっすんだす。

つづく。 かな?

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