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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

中国⑫ 胡同通過

2005年10月21日 19時36分16秒 | 中国出張/遊興/中国事情
大路からまず中規模の路地に入りました。北京の街の特徴は著しい隔壁化です。とにかく生活空間は隔離され、みんな籠もっています。この街並も基本的には清朝時代のものではないでしょうか。通りに開放的なのはお店だけです。







その中規模路地から小路地が分岐していました。入ってみることにしました。通り抜けられるかこの時点では不明。





小路地の両脇には民家が並んでいます。各家はゴミを直接小路地に捨てます。そのゴミはこのように回収されるのです。



何度か90度に曲がり、進んでいきました。そして、先日書いたように、怒られました。



走って逃げたら1分くらいでこのような大路に出たのでした。





中国⑪ 北京のニーチェ

2005年10月20日 18時47分23秒 | 中国出張/遊興/中国事情

街角のディスプレイの新聞より。

■魯迅は日本でニーチェに耽溺している。魯迅が日本、すなわち東京と仙台にいたのは、1902-1909年の足掛け7年である。当時のニーチェ思想の受容のされかた、意味付けは、富国強兵に象徴される俗流西洋化・近代化に嫌悪を持ち、個人主義あるいは超人思想であったらしい。つまり、いきなりポストモダン志向である。もっとも、魯迅自身がどれだけ近代を体現したのかはわからないが。というのも、魯迅は科学そして医学を志し、近代的・形式的知性の体得を目指し、修行していたこともある。それが仙台医学校での修行なのであろう。しかし、「目が固い」と専門の勉強に専念する人を軽蔑したらしい魯迅は、ディレッタント的気質、つまり「目移りが激しい」、があったのではないだろうか。漱石は1867年に生まれたが、ニーチェなぞにはかぶれなかった。もちろん、1835年生まれの諭吉は,1901年に死んだのでニーチェを知らずに死んだのだろう。近代至上主義者として、それは幸せな人生であったといえる。「阿Q正伝」のような破天荒の作品は漱石とは著しく違う。さて、阿Qは、もちろん超人ではない。むしろ正反対のキャラであろう。それでは「劣人」なのだろうか?そうであるなら、魯迅は超人ではなく、なぜ劣人を描いたのだろう。劣士、阿Q!

関係ないけど、「ブランコカフェ」。


中国⑩ 北京のチベタン@中共派

2005年10月19日 20時16分18秒 | 中国出張/遊興/中国事情




北京でチベタングループを見た。いうまでもなく、チベットは、第二次世界他戦後、中共に「併呑」された。ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府はインドにある。デリーのチベタン街


チベタンがマオの肖像を眺めにくるというは、中国人が「東条英機」の肖像を日本に眺めにくるようなものである。


1989年のチベット弾圧の張本人。60万人殺したそうだ(ダライ・ラマ亡命政府主張)
現在、国家主席

「旅バトン」

2005年10月19日 19時14分24秒 | その他
「旅バトン」が ethnicさんからまわってきた。参加型チェーンメイルみたいなものだ。他にMusicバトンやいろいろある。

つい参加してしまう・・・・(^_-)-☆

1. 今までで一番良かった国内旅行先は?
京都。一年に一度は「お参り」しようとしている。何度行っても飽きない。寺社仏閣だけでなく、都市としての京都も自然もよい。
  
2. 今までで一番良かった海外旅行先は?
自慢ではないが、海外「観光」旅行に行ったことがない。カナダ・米国・インド・中国すべて仕事。つまり、好き好んで、選んでいったわけではないのです。でも、こういうふうにいやおうなく知らない国に接するのはよかったと思います。全部。

3. これから行ってみたい国内旅行先は?
宇和島。四国に行ったことないし、竹雀だから。

4. これから行ってみたい海外旅行先は?
サンクトペテルブルグ。 ドストエフスキー関連とエミルタージュ。

5. 次にバトンを渡す人5名は?
勝手に指名しますが、もちろん参加しなくてもOKOK。
適当にTBさせてもらっちゃいます。
参加いただいたらこのエントリーにTBいただければ幸いでーす。


中国⑨ 魯迅博物館

2005年10月18日 19時31分56秒 | 中国出張/遊興/中国事情
投資公司の高層ビルを背景に魯迅像
G→G'時代において、「阿Q」はいかにお調子をこくべきや?いや、これほど「阿Q」的環境もなかりしや。



展示を見る中学生(?)。説明員の話を聞いているとき誰一人ぐらぐら、ちょろちょろしていなかった。


この博物館は魯迅の北京滞在中の居跡に建てられた。昔の魯迅寓が保存されている。


中庭と住まい。母親と「母親の面倒をみる」妻と住む。のち、魯迅は母と「妻」をここに残し、去る。


博物館の正面の街路。