いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

中国⑪ 北京のニーチェ

2005年10月20日 18時47分23秒 | 中国出張/遊興/中国事情

街角のディスプレイの新聞より。

■魯迅は日本でニーチェに耽溺している。魯迅が日本、すなわち東京と仙台にいたのは、1902-1909年の足掛け7年である。当時のニーチェ思想の受容のされかた、意味付けは、富国強兵に象徴される俗流西洋化・近代化に嫌悪を持ち、個人主義あるいは超人思想であったらしい。つまり、いきなりポストモダン志向である。もっとも、魯迅自身がどれだけ近代を体現したのかはわからないが。というのも、魯迅は科学そして医学を志し、近代的・形式的知性の体得を目指し、修行していたこともある。それが仙台医学校での修行なのであろう。しかし、「目が固い」と専門の勉強に専念する人を軽蔑したらしい魯迅は、ディレッタント的気質、つまり「目移りが激しい」、があったのではないだろうか。漱石は1867年に生まれたが、ニーチェなぞにはかぶれなかった。もちろん、1835年生まれの諭吉は,1901年に死んだのでニーチェを知らずに死んだのだろう。近代至上主義者として、それは幸せな人生であったといえる。「阿Q正伝」のような破天荒の作品は漱石とは著しく違う。さて、阿Qは、もちろん超人ではない。むしろ正反対のキャラであろう。それでは「劣人」なのだろうか?そうであるなら、魯迅は超人ではなく、なぜ劣人を描いたのだろう。劣士、阿Q!

関係ないけど、「ブランコカフェ」。