いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

中国⑯ 北京の洋品店

2005年10月25日 20時53分56秒 | 中国出張/遊興/中国事情


■こりもなく、「勝ち組・負け組」論なのですが、『阿Q正伝』の主人公阿Qはどんなみじめな境遇になろうとも、「勝利」する。勝利の仕方とはこんな具合である。

しかし、彼は敗北をたちまち勝利に転じた。右手をあげると、力まかせに自分の頬に二、三回つづけてビンタをくれた。ひりひりと少し痛かった。ビンタをくれ終わると、気持ちがおだやかになり、なぐったのは自分だが、なぐられたのはもう一人の自分のような気がした。それからほどなく、他の男を殴ったような気持ちになった。-まだ少しひりひりしてはいたが-。彼は満足して意気揚揚と横になった。彼はぐっすり眠った。

『阿Q正伝』第2章、勝利の記録、より。

●さて、先日の総選挙での「いんてり」の疑問。なぜ切り捨てられるであろう<弱者や負け組>が<弱肉強食政策>の小泉・自民党を支持したのか?という問題。つまりはなぜ大衆は、小泉革命ではなく、ちゃんと左翼革命を起こさないのか?という問い。この問題について、そなたんパパの備忘録の「この後に及んでマルクス主義」

難解な言語を駆使し、それによって大衆の愚かさの源を探ろうとする理論家たちに強烈なエリート意識があることは明らかであり、ここからも大衆への蔑視と左翼思想とが決してかけ離れたものではないことが理解できよう。

と革命を起こさない大衆への知識人態度を分析している。

▼なぜ大衆は、小泉革命ではなく、ちゃんと左翼革命を起こさないのか?と嘆くいんてりさんは、日本の大衆はさしずめ阿Qの群に見えるのであろうか?

▲それより、魯迅は、そもそも、「大衆の愚かさの源を探ろうと」したのであろうか?『阿Q正伝』を読むと、魯迅はただただ阿Qに添い遂げた、思える。描ききることと愚弄・誹謗・中傷・罵倒・軽蔑することは違う。したがって、そなたんパパ氏のいう、左翼知識人=大衆蔑視、が成り立つなら、魯迅は決して左翼知識人ではなかろう。