筑波山の西、つくば市(旧大穂町)西高野。
ここ西高野と両隣の吉沼と大砂、そして小貝川を挟んだ大園木、は江戸時代において仙台伊達家飛び地、常陸領1万石のうちの通称吉沼3千石。
池と農地。何の痕跡もなかったが、ここは大日本帝国陸軍航空士官学校西筑波分教場、西筑波飛行場があったはずの場所です。今日は雲って筑波山もかすんでいた。
夏草や つわものどもが 夢のあと
空の神兵 作詞 梅木三郎・作曲 高木東六
シンガポール陥落前の2月14日、空挺部隊がパレンバン油田付近に降下作戦を敢行した。
油田と精油所を敵の破壊前に確保するためには、シンガポール陥落以前に実行する必要があった。
この攻撃の為の航空兵力は陸軍機140機、海軍機180機で、主力はボルネオ、一部はマレーにあった。
2月14日 1126 主力はパレンバン飛行場南部に、一部は飛行場西側に降下した。
第1挺身団(団長久米精一大佐)第2連隊からなる降下人員430名である。
投下した武器・弾薬が入手できるまでは、各自携行した拳銃と手榴弾のみで攻撃、飛行場に進撃した。
英・蘭・濠連合の守備隊(約500名)は装甲車で応戦、市街の兵舎より増援部隊が疾走してきたが、
降下した我が部隊はこれを攻撃ののち、2100頃飛行場を占領した。
放火により製油所工場の一部に火災が発生したが、大規模破壊は避けられ作戦は成功した。
2月15日 第2悌団の降下と併せてパレンバン市街に突入、同市を占領した。
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-ranin2.html
この絵の要点は、落下傘で着地したあと兵士が拳銃で攻撃しているところです。
その「空の神兵」となった第1挺身団はこの筑波山麓の西筑波飛行場で猛訓練を受けたのでした。(『大穂町史』)
昭和17年、蘭領インドネシアに、海軍、陸軍それぞれが落下傘部隊を投入した。海軍はセレベス島メナド。一方、陸軍はスマトラ島パレンバン。陸軍の方が時期が遅いのであるが、新聞が「空の神兵」と誉めそやし、歌「空の神兵」がヒットしたので、パレンバンの方が有名となっている。これは、陸軍の宣伝勝ちだ。
その後、西筑波飛行場では、滑空飛行部隊(グライダー)が駐屯、訓練していたが、フィリピンに出撃。ほとんど全滅したとのこと。
パレンバン作戦ののち、戦時中に西筑波飛行場で訓練したひとの回顧サイト。
亡くなったひとについてのサイト。
戦後、西筑波飛行場は農地となり、昭和40年ころまで残っていたらしい施設跡など、今はない。