いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「日本」の終わり と 堀江貴文さん

2005年09月07日 20時40分48秒 | 日本事情

■竹内靖雄さんの『「日本」の終わり』-「日本型社会主義」との決別-という本が出たのは、1998年。この本が批判している「霞ヶ関封建制」もまだ死んではいないが、死へと確かな一歩を進みはじめたかもしれない。なぜなら、これまで国民の貯金を郵貯という形で官僚は「霞ヶ関の財布」にしてきた。確かに財投のしくみはすでに変わったが、国債の引き受けは依然「霞ヶ関の財布」に期待している。日本政府の財政がハードクラッシュしないのは、なんだかんだ言って国債が引き受けられているからである。ハードクラッシュしないかぎり、その支出をやめられない「霞ヶ関封建制」幕府の統治能力のなさに、小泉さんが物理的歯止めをかけたのが、こんどの郵政改革であるなら、首相による下部組織=日本政府の粛清であり、にこにこできる。

■今度の小泉政変劇でおいらが注目したのは、小林興起、亀井静香、熊代なんとか、じいさんでは堀内名前知らないコーチ会会長、にいちゃんでは城内なんとかなどなど東大出の官僚出身の議員たちの政治音痴ぶりである。素人がみても無様である。その読みの甘さには庶民もびっくりである。彼らのその甘さ、この程度の甘えなぞ大目に見てもらえるだろうとの考えこそ、一部庶民・雑民の反感を大いに買ったのではと思う。その甘えというのは、実は日常しばしば目にするもので、それは「エリート」の甘えなのである。まさか、トーダイ出で官僚さままでやった俺様が通用しないことはないだろうといううぬぼれと傲慢。

■亀井静香さんは強面(こわもて)とかいわれるけど、本当は ただのシューサイちゃん のような気がする。さらに先ほど名前をあげさせていただいたおれきれきも、みんなただの秀才。そして、そいういうただの秀才ちゃんが通用しなくなったことこそが、「日本」の終わりの一場面でもあるのだ。

■さて、堀江貴文さん。オレはただの秀才ではない! ただの秀才を叩き潰す! と戦闘的であってほしかったのですが、穏健に選挙しているようですね。堀江さんは現在大金持ちということばかりでなく、最初は一人でわずかな資金で立ち上げました、という視点でプロパガンダ吹きまくりでいってほしいです。鶏口となるも牛尾となるなかれ、って。

■没落して欲しかった只野秀才さんこと宮沢グレムリン喜一(広島)さんは、ライブドア・ニッポン放送騒動の時、堀江さん評価を求められた。その際、「(堀江さんがやっていることは)結構じゃないですか」と、あのいやったらしい物言いで、おっしゃったのですた。おいらはすこし拍子抜けした。平沼さんが「濡れで似泡」的批難をしたのとは対称的。あるいは森さんが拝金批判をしたのとも。さて、ハマコーセンセが堀江さんを応援しているのはコーチ会だと言っていた。まさか、数ヶ月前の宮沢発言時にすでに広島での堀江さんの出馬を予測していたわけではないだろう。これは、亀井陣営にいじめられてきたコーチ会の敵の敵は味方ということなのだろう?


大蔵官僚の時、アカガミ来ますタ。
入営一晩で、帰していただきました。
だって、ぼくちゃん、えりーと、だから。