いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

50年前の今日 [1966.5.29]、北京円明園で紅衛兵が誕生!

2016年05月29日 10時43分50秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 


2013年の北京参りにて [愚記事: 北京参り 2013]

北京の北西に円明園がある。天安門広場から10kmくらい。現在では地下鉄でいける [下記地図1参照]。円明園は「西洋楼遺址区の廃墟」として有名。

 清朝の乾隆帝の時代に、円明園の東にイエズス会士のブノワ、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。
 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

おいらが円明園に行ったとき、がきんちょが写生していた。背中からわかる学校名は、清华大学附属中学朝阳学校 [google]。このがきんちょが「紅衛兵」を知っているのかわからない。


地図1

■ 紅衛兵。 1966年5月に毛沢東により発せられたプロレタリア文化大革命の勃発直後に世界の注目の的になったのが武闘と称し文化人など毛沢東派が標的とする人物たちをつるし上げ、暴力を振るい、あまつさえ、殺したりした。彼ら紅衛兵の惹句は「世界を震撼させる」であった。

老舎の死はその一例だ (愚記事; 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)。

当時の最初で最大の目標は国家主席である劉少奇の打倒である。国家主席を未成年の造反者が弑逆するのだ。

  

■ 「紅衛兵」誕生

その「紅衛兵」の誕生の日と場所がわかっているというのだ。「紅衛兵」という言葉をつくったのは、張承志。 

張承志著、『紅衛兵の時代』 (岩波新書) に書いてある;

 当時は円明園の廃墟が私たち造反派学生のたまり場になっていた。ここは第二次アヘン戦争の時、英仏侵略軍に焼き払われてからこの当時に至るまで一面の廃墟で、ところどころに水田が点在していた。学校と円明園は一本の通りで隔てられていただけで、付属中の生徒たちは朝早く円明園に行って本を読み、夕方にはここを散歩するのを好んでいた。五月下旬、円明園は私たちの秘密の活動の隠れた基地となり、いつもこの廃墟で状勢を検討し、対策を講じた。私たちの心は、革命者が非合法活動に従事するさいの高揚した感情と、闘争や犠牲へのあこがれに満たされた。

(中略)

 円明園だけが私たちの家だった。かつての戦乱で焼け焦げた石や起伏のある荒れ果てた野原は、隠れ場所を提供しただけでなく、そこに入ると豪放不屈の情念が沸々と湧き上がってきた。私たちが円明園で感じとったものは、中華民族新生への使命感とでも言うべきものだった。修正主義的な精華付中の教育制度のみならず、過去百年来の中華民族の屈辱と没落の歴史が、今やわれわれの奮闘によって終わりを告げようとしているのだ!と。当時十六、七歳だった私たちの心情を正確に描き出すことは、困難であるばかりか、書いたところで到底信じてはもらえないだろう。

「紅衛兵」という言葉は、張承志が精華大学付属中学のクラスの小字報(壁新聞)を貼り出すさいに、張承志のグループに名前をつけることとなり、いくつかの名のなかに「紅衛兵」の名が含まれてた。

 一九六六年五月二九日、私たちの仲間は円明園に入り込んだ。小高い丘の上に桃の木がびっしり植えてあった。私たちは組織を結成することを決めた。
 この日以前には、私は決して中心的な人間ではなかった。

(中略)

 張暁賓(彼は周恩来総理によく似た風格をもち、親しみやすく、人に信頼感を与えた)がこう言った。
「じゃ、ぼくたちは主席が言ったとおり、組織を作ろうぜ」と。
 小鳥の鳴声さながらの歓声、ペチャクチャと長く続いた議論の中味は、その後私の記憶からすっかり薄れてしまった。私が覚えているのは、さんざめく若い声に交じって、高洪旭 [カオホンシュイ] がひときわ高い金切声で叫んだことだ。
 「これからぼくたちは同じ署名を使おう。だれが書いた大字報や小字報にも、自分の名前の前に『紅衛兵』という字を書こう、集団で書く文章には『紅衛兵』と署名しよう・・・・」と。
 私はまっかになり、頭がガーンとなった。私がたまたま思いついたこの名称が、仲間たちにこのように注目され、愛されるなんて思ってもいなかったのだ。
 「紅衛兵だって! そりゃすげえや・・・・」
みんな歓声をあげた。

上記は清華大学付属中学 (ここでの中学とは大学進学前の年齢の生徒用の学校;日本での高校に相当)の造反派の誕生の場面。これが紅衛兵と名乗った最初の文革造反派ということらしい。もっともこれは名目的なことだろう。実際に「実権派」を虐待した文革造反派はこの時点ですでに別途誕生していて、この後、紅衛兵を名乗る。

張承志のその後。 紅衛兵誕生の後、張承志は学内での内ゲバに巻き込まれ、2年後、1968年6月にモンゴルに下放。

そして、まだ存命らしい ⇒ wikipedia [張承志]

 



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