いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎の死の日本への伝わり方 III; 武田泰淳、堀田善衛の発言 

2020年01月09日 18時53分01秒 | 中国出張/遊興/中国事情

中国の作家、老舎の死(文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた)の日本への伝わりかたについて下記愚記事がある;

老舎の死の日本への伝わり方; 水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。
老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認
呉智英さんへの恩返し

上の3つの記事の概要は、文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた老舎の死の情報が日本にいつ伝わったか調べた。その結果、うわさとしては死亡直後から伝わっていた。老舎の死が確実であることは文革終了直前であった。

上の愚記事3つ以降、うわさを含む日本への伝わりかたについておいらが知ったことはなかった。ところが、先日、『対話 私はもう中国を語らない』(Amazon)という武田泰淳(wikipedia)と堀田善衛 [1](wikipedia)の対談本(1973年刊)に書いてあった。

[1] 関連愚記事; 堀田善衛『インドで考えたこと』

該当部分を抜き書きする;

革命におけるインテリゲンチアの死

堀田 同情といえば、中国の場合、文学者がいろいろ消えていった。老舎も消えていった。そういう、消えていったインテリゲンチアに対するシンパシーは、武田さん・・・。

武田 それはありすぎる。

堀田 ぼくは憤懣にたえませんね。だって、なぜ中国の歴史そのものを体現した老舎のような作家が死ななければいけないのか。ぼくがいちばん不愉快なのは、楊朔[2]という、これがつまり、ぼくが十何年間、アジア・アフリカ作家会議をやるためにいっしょに協力し、つねに交渉していた人ですね。この運動の草創と初期の苦労を、はじめは一九五六年にインドで、それからセイロンで、また東京で、それからカイロで、ぼくは彼とともにして来た。これが朝鮮戦争のときの孤児を四人養ってたわけですよ。孤児を四人養ってて、なおかつ自殺しなきゃならないなんて、おそらく死んでも死に切れる思いだったろうと思う。そんなことをやってる中国の権力者、毛沢東を初めとして、ゆるしがたいという気持がありますよ。ぼくには。
 こんなことをいえば、またミスター・ホッタを中国へ絶対に入れてはならない、といわれることになるになるのでしょうけど、そんなことはしょうがない。ほんとうにゆるしがたい。このぼくらの敬愛していた友人のことに限っては、文化大革命ゆるしがたし。

武田 それはつまり、文学においてぼくらの愛した文人が消えていった。それはまだ政府の発表はないんだから・・・・。

堀田 うん、それはそうなんだ。発表はないけれども、国際的な関係のなかで働く、あるいは単に働くだけでもいい、そういう文学者というものの危うさというものは、ぼくは肌身に感じてひしひしとわかる。どうでっちあげられるか知れたものじゃないから。しかし、死なせることはないだろう・・・・・。
(中略)

武田 発表があったのは、謝冰心[3]だけなんだから、個人的には秘密というか、それをぼくは向こうの文学者から、一人一人確かめたんだ、こういうことかって。それである程度はわかったけれども、政府の発表じゃないから、国際関係においてはいえないわけだ。ぼくは黙っていたけれども、それはもちろん抹殺されたか抹殺されかかったな。抹殺されても、されなくても、それは公表すべきだと思うんだ。そうじゃないと、文化大革命において文学者に対して、どういう考えをもっていたのか、公の声明が出されたことは、なんにもないんだから、ぜんぜんわからない。
 それはな、造反派の人から先輩文学者を非難したということは少しはきいたよ、個人個人でね。だけれども、老舎が死んだということに対しても、なぜ死んだか、はたして裏切り者であったから死んだのか、ということはね、一回も報道してない。つまり文学の問題としても、政治の問題としても。

堀田 どうして死んだかということも、発表していない。

武田 発表されてないわけだ。ただ、わずかにわかったのは、幹部学校にいた謝冰心が改心したということだけだけれども、それじゃ、なんのことだかまったくわからないね。

堀田 わからない。しかしね、わからないままで放っておかれている。彼らの古い友人であるわれわれの立場というものは、どういうことになるのかね。ぼくは、なんというか、愚弄されているような気がするよ。(p80)

楊朔[2]  wikipedia (訳)

謝冰心[3]   wikipedia

つまり、うわさ以上に出版物として公言できるほどの信ぴょう性をもち老舎の死の情報は、1972年には関係者には確認されていたことになる。1973年に出版されたこの本に対談は1972年に行われたとある。老舎の死は武田泰淳が直接中国の関係者に聞いたとのこと。武田泰淳は3度訪中し、そのうち2回は文革中とのこと。1回は1967年という文革最盛期の頃である。今から見れば、老舎関係者、あるいは中国文学関係者、日中交流関係者の一部は未確認情報(当局未発表情報)として老舎の死を知っていたのだろう。ただし、当局が公式発表しないので表で言及することははばかられていたということなのだろう。ただし、それ以上の武田泰淳の訪中情報はわからない。今後、武田泰淳の伝記などを読んでいきたい。

[1] 1967年の武田訪中。杜宣(解説web)に会った。杜宣は日本留学経験がある中国人作家。カイロで行われたアジア・アフリカ作家会議で武田と堀田は杜宣に会った。

武田の文革中の訪中で老舎、巴金など会えるはずの人に会えなかった話;

武田 ソ連の粛清なんてすごいですからね。たまたま日本では、まあまあ粛清ということは珍しいことである。日本では、やめれば命まではとらない(中略)だけど向こう(中国)じゃ文学者だってあぶないぜ。
 この間、謝冰心が幹部学校でやられて、出て来て、いままでのはぜんぶまちがっていた、というわけでしょ。それから巴金と老舎。北京へ行けば老舎先生、上海に行けば老舎先生、上海に行けば巴金に会って、それまでにもAA会議でも文学者にたくさん会っている。北京へ着いたらまず茅盾、これはいわば文化大臣になった人ですから、それが中国側の代表だと思っていたんですね。それが文革のときに行ってみると、いままで会えた中国の文学者には、だれにも会えないし、どうなったかわからない、というから、心配になるのです。(p88)

心配になったので中国の関係者に確かめて、老舎の死を知ったのだろう。

■ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』

『対話 私はもう中国を語らない』は1973年の刊。前年の1972年に日中国交回復。本書は国交を回復させた日本政府・自民党とは別に以前から日中関係改善に関与してきた武田と堀田が当時の中国の状況、および日中国交回復に言及し、自分たちの戦時期での中国体験を回顧する対談集。テーマとして1970年の三島事件について武田が言及している。当時、三島事件を受けて周恩来が日本軍国主義復活を喧伝していた。

中共が孤立していた頃(今の人は戦後まもなくは中共と国交がある国は現在の台湾と国交がある国の数くらいだったとは想像していないかもしれない)、中共とつきあって来た二人が、日本政府の中共との国交樹立という状況、あるいは、中共内部の文革という状況で、もう中共とのつきあいはやめると宣言した対談だ。

『対話 私はもう中国を語らない』は中古でも高い値段がついている(上記Amazonリンク)。図書館で借りた。返さないといけないので、興味深い点を抜き書きする;

■ ぐち

堀田 中国が、どこともほとんど国交のなかったあいだに、そのあいだに中国がつくった各国における中国の友人というもの、それは大きかったな。これからの日本がどうしたらいいのか。

武田 友人がいままではなかったですからね。 (p128)

■ 民主主義なんて知らないよ

(戦争がおわったとき、日本支配が終わった上海で、人々が今後の身の振りを考えなければいけない状況で)

武田 自分たちのほうが動きがさわがしいわけだ。急いですべてのことを解決しなけりゃならないでしょ。共産軍の宣伝文書ははいって来るし、重慶側は自分たちでまとめなければならないしね。そのときにぼくは、初めて共産主義と民主主義はちがう、ということを知ったんです。ぼくは共産主義と社会主義については、わりあい常識的に知ってたんですよ。だけど、もうひとつ民主主義というものがあるというんだな。

堀田 その話はおもしろいよ。

武田 そのことを、そのとき初めてきかされてね。それまでジャーナリズムに出てなかったんですよ、民主主義というのは。

堀田 武田さんはね、いま共産主義と社会主義は知っていたけれど、民主主義というものは知らなかったという。ぼくはぼくで、明治の民権自由の婆さんに育てられた。生まれつきの日本共和国論者ですから、レパブリカンですから、民主主義のことは知ってたよ。

武田 ぼくは民主主義っていうのがあるときいてね、ほんとうかな、と思ったね。日本にも民主主義をやるなんて、うまくゆくのかな、と思ったね。そんなもの、ぜんぜん日本人に縁もゆかりもないもんだ、と思ったんだ。(笑い)

■ 憲法

武田 ぼくは憲法っていうのは、まったくわからない。というのはね、つまり、自由自在に解釈を変更して来ているからね。憲法を守るという運動は、気持としてはわかるけども、ああいうものをかんたんに守れると思ったり、その条文がいつまでも変わらないでいると思うのは、まちがいだと思うよ。だって憲法というのはバケモノみたいなものでね、手や足がたくさん出たり、形のわからないものだと思う。いくら日本は戦争を放棄したっていったって、違うと思うんだ。

■ 大東亜文学者大会

この大会には日本の各文学者団体が参加したが、竹内好、武田泰淳らの中国文学研究会は参加を断った。(wiki

本書(p48)では、武田泰淳は、代表ではないがオブザーバーで参加したと書かれている。そこで陶晶孫(google)と行き会ったとある。

■ 中国人観

堀田 それから解放以前と解放以後とをくらべて、どう考えるか、ということね。解放以後の一九五八年ごろでしたかね。ぼくは初めて北京へ行ったわけですけれども、そのときにぼくがいちばん驚いたのは、やはりパレードでしたね。国慶節だったと思う。パレードがあってね。じつに整然としていることに、ぼくは驚いたですね。それはつまり、わたくしや武田さんが、戦中戦後、上海にいてね。上海の中国の人たちなんかと行き来していて、あるいは、かれらの生活を見ていて、整然たる、ああいう大パレードができるとは、とても想像がつかなかったですね。おそらく、いくぶんバカにしていたような気持が、ぼくらのほうにあったんでしょう。

武田 ああ、そう・・・。 (p131)

■ 三島由紀夫と武田泰淳

武田 だけど、三島君はね、ぼくはたとえ周恩来に非難されようと、好きであったということは、ハッキリいえるよ。三島君は、われわれが経験し、予測する事態に対しては、目をつぶっていたけれども、日本を守りたいという。子どもじみた考えはね、そこまでかれは考えて、あえて文学を棄てても、これで自分の生涯を完結しましょう、と思ったとおり、やっちゃったわけだな。
 だけども、ほんとうはね、じっさいにできないから文学というものはある、そもそも、そういうふうにハッキリやれるものなら、やっちゃたら いいんでね。それがやれないから、文学なんて余計なものがくっついてるんですね。最初から文学やらなきゃいいですよ。文学をやって、そういう結論に達したということは、ぼくは反対だけどね。
 ただその心、それが純粋だったということは、ぼくは疑うことはできないんだ。いくら周恩来が、軍国主義復活といったってね。三島君は、あの人は人を一人も殺していないじゃないですか。三島君は人を殺せる人ではない。かれは中国を侵略することもできないし、中国人を一人だって殺すことはできない。日本人だって殺すことはできない。そんなやさしい心の人は、自分しか殺すことはできない。それがそこまでやったっていうことはね、ぼくはやっぱり友達として認めてやらなきゃならない。

■ 三島由紀夫情報

武田 (前略)秋瑾が中国の民衆を知らなかったように、三島君も日本の民衆というものを愛していなかったですね。じっさいに東大法科を二番で卒業して、やることなすことをぜんぶ首席でね。民衆なんか忘れてしまって、古典の中にだけ美を認めるわけだから、現代というものがないいんです。 (p70) 

■ 中国人作家のシャイネス

堀田 よく日本人は恥ずかしがりだ、シャイだというでしょう。そんなことはないね。中国の偉い人のほうが、ズッと恥ずかしがりだな、文学者に関していえば。

武田 じっさいそうだ。

堀田 中国の偉い文学者、たとえば老舎、それから茅盾、巴金さんでもね、みんな自分の作品の話をされると、いても立ってもいられないほど、恥ずかしがるんですね。逃げだしちゃうんだよ。

武田 自分のことをよく知ってるんだよ。代表者になるような人はね。

■ 武田泰淳 2 26, 5 15への共感

堀田 武田さんは、満州事変について、なんか記憶がある?

武田 それはね、五・一五とかね、二・二六とかね・・・。あれは、ぼくはかなり同情的に見ていたんだ。下層下士官兵が、貧農地帯から出て来てね、ところが当時の支配階級は堕落しとる。で、日本はこれでますます沈みゆくばかりであって、おれたちがやらなければ、日本帝国は滅びるんだ、と思ったでしょう。それはまちがっていたけれどもね、まちがっていたけれども、それは、真実そう思い込んで、そう思っていた。非常な不景気でしょう。現在では想像もできないような不景気で、農村の子供は売られるわ、餓死はあるは・・・・。  (p25)

■ 戦争

武田 それからね、戦争っていうものが、どういうものかっていうことはね、いちおう話しておかなけりゃならないだろうな。ぼくとしては、ひじょうに恥ずかしいし、苦しいし、いやなことだけどね、やっぱり、いちおう告白しておかないと、いけないと思うんだ。
 ぼくは兵隊にとられて、貨物船に乗せられてね、上海のそばの呉・ウースン港に上陸したわけだ。ぼくが上陸したのは、上海の港から少し離れたところでね、そこに上陸してさいしょに会った中国人は、生きた中国人じゃなかった。死骸になった中国人だった。そうしてそれからズッと、まあ、半年くらいは毎日死骸を見た。食事をとるときも、寝るときも、井戸の中にも、川の中にも、丘の上にも、あるものはぜんぶ死骸ですからね、いやでも、その間を縫って歩かなきゃならなかったわけですよ。どこへ行っても死臭がただよってる。(p38)

■ 徴発

武田 ぼくが感じたのはね、農民ですよ。中国の農民がいかに強いかということ。(中略)日本の兵隊よりも、むこうのほうが大きいんだな。(笑い)(中略)
 その百姓たちがね、ぼくたちを見る眼が、こいつら、たいしたことない、自分たちのほうがずっと優秀である、という眼なんだよ。ということが、自然にわかっちゃうんだな。
 そこへこっちは徴発に行って、そういう人たちと対決するでしょ。こっちは武器をもってるし、むこうはもっていない。そうすると、向こうは遠巻きにして笑って見ている。おじいさんはトウモロコシなんかゆでるし、向こうじゃヒツジの肉がお釜の中で煮えてるしね。それはもう、農村文化っていうものが、非常に強いっていうかな、日本人が何いったって、蚊がとまったほどにも感じなくて、最後にはむこうが勝つということ、のみこんじゃうということね。点と線をのみこんじゃうということは、ちょっと見てもわかっちゃうんだな。

▼ まとめ

武田泰淳の発言は三島由紀夫事件の余韻でなされている。

▲ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』をなぜ読んだのか?理由は「江藤淳の影」。今回この本で武田泰淳を初めて読んだ。初期江藤において武田泰淳の「影響」があると平山周吉の『江藤淳は甦える』にあった。江藤は若いころ武田泰淳、堀田善衛と縁があった。一方、江藤における「中国の影」。江藤淳は佐藤内閣の頃政権の取り巻き知識人だった。周りに永井陽之助、高坂正堯、山崎正和などがいた。この中で後に中共に行ったのは江藤ただ一人であり、鄧小平にまで会った。この「中国の影」を背負う江藤は若いころ、武田泰淳、堀田善衛と縁があり、高校生の頃は竹内好の講演に感銘を受けたと平山周吉の江藤記伝にある。



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