いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で

2013年10月06日 19時07分24秒 | 中国出張/遊興/中国事情

毛沢東は自分で「私の身体には虎っ気があって主なのだが、また猿っ気もある」と言っていた。いわゆる「虎っ気」とは、既得権益と既定の一党専制秩序を守るという意味。いわゆる「猿っ気」とは、時には旧秩序を打ち壊してしまう意味。しかし毛沢東が自分で行ったように、虎っ気が主であり、それが基本にあった。

銭理郡、『毛沢東と中国』、第10章 文化大革命時代(上) (一九六六 - 一九七六) 

        
  「反革命分子」を            1966年8月17日、プロレタリア文化大革命慶祝会。
  いたぶる紅衛兵             百万人参加。=「猿サル」大集会

■ 10/3以降に知ったこと

10/1の国慶節に、おいらがはたちの頃、康煕字典を知らなかったことを書いた(愚記事:はたちの頃、康熙字典を知らなくて、支那語教室で、野蛮人よばわりされた)。知らないことを知らないと知るだけ幸せだったかもしれない。

その10/2の後、老舎を知った。康煕字典を知らなかった頃からずーっと知らなかったのだ。その老舎は近代中国で魯迅に次ぐ有名な作家と評されることもある。つまり、有名なのだ。知った理由は、春名徹、『北京 -都市の記憶』を読んだからだ。その第12章の"北京に住んだ人々"で最初に老舎が書かれていた。知らなかった、老舎。そして、その春名徹の老舎の紹介にはあの死に至る顛末は書いていなかった。もちろん、そもそも老舎を知らなかったおいらは、その顛末を知らなかった。春名徹の老舎の紹介を読んだ後、wikipedia [老舎]をみた。書いてあった。文化大革命で紅衛兵に、事実上、殺されたのだ。知らなかった。ここで、こちらの面、つまり文化大革命の視点からも、あまたいる文革犠牲者としての老舎を知らなかった。例えば、最近読んだ銭理群の『毛沢東と中国』にも老舎の名は見えなかったと記憶していいる。ただし、上下1000ページを超える本なので見落としいるだけかもしれない。なので、銭理郡、『毛沢東と中国』、第10章 文化大革命時代(上) (一九六六 - 一九六七)を昨日再度注意して読んでみた。見当たらなかった。この1966-1967の時期である1967 1966 年8月23日に老舎は死んでいる。つまり、文化大革命が始まったのは1966年の初夏とされる。毛沢東が百万人の前に姿を見せた天安門での集会は、8月17日である。毛沢東語録を片手に振りかざした"紅衛兵"が百万人天安門広場に集まった。そして、毛沢東自身が腕に紅衛兵の腕章をつけていたのである。この腕章は紅衛兵から贈られたものである。

誕生

 10/2に老舎を知らなかったおいらはすぐに、老舎の息子・舒乙の『文豪老舎の生涯』を取り寄せる。読んだ。老舎の死も劇的であるが、誕生も劇的である。この本の副題が ”義和団運動に生まれ、文革に死す”だ。まず、「血筋」がすごい。満人なのだ。しかも八旗軍の家系だ。生まれた時はまだ清朝。父親は自らの満州族がつくった清朝の旗本、八旗軍の兵士だ。つまり、清朝の えすたぶりっしゅめんと サマだ。 ただし、門番だ。しかも、代々読み書きができなかったと舒乙は報告している。でも、清朝が盤石であれば、門番だって平穏だったろう。ところが、門番にも死活の危機がやってきた。毛唐兵がやってきたのだ。義和団の乱に乗じて欧米列強に西太后は宣戦布告した。欧米列強国連合軍は清朝の紫禁城を攻撃、占領。その闘いで門番だった老舎の父親は死んだ。老舎は1歳だった。父親が死んだだけではなく、欧米列強国連合軍兵士が北京の民家も荒らしまわったとき、彼らの一部は老舎のところにもやって来た。

舒乙の『文豪老舎の生涯』に書いてある;

 八カ国連合軍はまるでイナゴの大群のように、北京の町の隅々まで襲った。小羊圏とて目こぼしには与れなかった。兵隊どもは後から後からやってきては、櫛で梳くよように家々を根こそぎ荒らし回った。母親の飼っていた赤犬は、一番手の闖入者どもに飛びかかっていって、健気な殉死を遂げた。兵隊どもは長持や箪笥を引っかきまわして、目ぼしいと見ると何でもかっさらっていった。小羊圏で一番の値打ち物といえば、女たちの銀の簪か白銅の結婚指輪くらいであったが、それすらも毛唐兵どもの戦利品にされてしまった。 (中略)

 兵隊が引き揚げていくと、母親は大急ぎで部屋にかけこんだ。赤ん坊は、兵隊たちが略奪している間も、オンドルの上の大きな長持のかたわらで、すやすやと眠っていた。

なお、おいらは、毛唐兵という言葉を、書籍上で、初めてみた。愚ブログには既出;転げ慄く毛唐兵 

 文化大革命が始まってすぐに老舎は紅衛兵にリンチに遭い、死に追い込まれた。文革が始まったのは、1966年の8月最上旬。年表をみると、8/1~8/12に八期十一中全会、毛沢東の大字報「司令部を砲撃せよ (関連愚記事ライトアップマオさん ブルジョア的展示@超走資派の賜物」(8/5)が張られ、8/8には「プロレタリア文化大革命についての十六ヶ条決定」を採択とある。そして、上図の天安門での毛沢東の紅衛兵接見集会である。老舎が死んだのが8/23であるから、文革が開始されてひと月もたたずに老舎は死に追いやられたことになる。

 眼鏡も見当たらず、眼はむくんでいた。身体に張りついていた衣服の乱れから、すでに法医の検証をうけたことがわかる。頭部、首、腕に血のかたまりがこびりついており、全身大きな青痣だらけであった。
 その二日前、父は成賢街(国士監街)の孔子廟で紅衛兵の見境ない殴打をうけた。その日は京劇の衣装や小道具を焼き払う計画で、熱狂した無知な少年たちは、貴重な舞台衣装を地球上から消してしまえと叫びながら、文化局の指導者を二、三人引っ立て、ついでに吊し上げようとした。市文連は文化局のすぐ側なので、ついでに市文連でやり玉にあげられていた、著名文化人にも手をのばしtのである。市文連主席であった父は、親しい友人と指導幹部が次々名指しされるのを見て、自分から進み出た。彼の潔癖さは最も敬愛すべき点かもしれない。がそれが命取りとなってしまった。現場で指揮にあたっていた北京大学の女子学生は、父を見ると大声で叫んだ。
「こいつが老舎よ。文連の主席、反動のオーソリティー。さあ乗せて!」
(中略)
 孔子廟で父は重傷を負い、頭から血を流して白いシャツを鮮血で染めた。頭に無造作に巻かれた京劇衣装の白い水袖にも血がにじみ、無残な有様であった。 舒乙、『文豪老舎の生涯』

 

■ 文革で犠牲になる前年に日本に来ていた老舎

 これまた知らなかった。ネットで老舎のことを調べていたら、日本に来たことがあるらしいと知る。googleで「老舎 来日」でひくと、なんのことはない、一番頭に「仙台を訪れた老舎」なる文書が検索できた。福島大学教育学部の紀要のようだ。なんだ、仙台にも来たのだ。日本には1か月あまり滞在し、例えば谷崎潤一郎と会った写真も残っている。

 自宅で老舎(左端)、劉白羽(右端)の両氏を歓迎する谷崎潤一郎氏と松子夫人。(1965年4月7日、熱海)[出典] (関連愚記事; つまり、その美意識において、中国人を「礼賛」している。たとえば谷崎は言う

上記の福島大学の長尾らによる報告は1984年である。なぜ、1965年の老舎の訪日を1984年に紀要を書いたかというと、1965年の訪日時の老舎の講演の録音テープが見つかったからだという。

 「仙台を訪れた老舎」 (出典

1984年といえば文革は誤りとの認識が当の中国でも決まった時代だ。1978年に鄧小平、李先念が贈花して、中国政府と中国共産党による追悼式は行われ、「名誉回復」した(ことになっている)。「生き残った」茅盾が弔辞を述べた(舒乙、『文豪老舎の生涯』)。

― 筆跡は人なり???

この「仙台を訪れた老舎」には老舎の色紙の画像が載っていて老舎の筆跡がわかる。お団子みたいな字だ。人格円満を示しているのだろうか? なお、 右 は主席の筆である。

   
  殺される側の筆跡          殺す側の筆跡

● 老舎が対外的に中国を代表する作家という役割を担っていた。

 さて、10/2に老舎を知らなかったおいらはネットでいろいろ調べた。老舎は1956年にインドで開かれたアジア作家会議に中国代表として参加しているとわかった。

1956年12月、インドのニューデリーで第1回アジア作家会議が開かれ、15カ国の作家が参集した(日本からは堀田善衛が参加)。このとき、次回はウズベキスタン(当時ソ連統治下)のタシュケントで開催することを決定、その準備の段階で、アフリカの文学者も参加することが決まり、1958年10月、タシュケントで第1回アジア・アフリカ作家会議が開催された。この会議には35カ国からの参加があった(パキスタンからは詩人のファイズ・アハマド・ファイズ が参加)。 wikipedia

なんだ。知らなかったょ、堀田善衛が老舎とすれ違っていたとは。

この会議へ参加するためインドに行った堀田善衛が書いた本が『インドで考えたこと』だ。この本はおいらが十代の頃読んだ本だ(愚記事;堀田善衛『インドで考えたこと』)。どうでもいいことだが、愚ブログのタイトル「いか@ 筑波山麓『看猫録』」はその前は「インドで働いたこと」だった。

 今日、みかえした。あった。英語を話すことの問題について、特に英語が母語でないアジア人作家の英語についての件で;

 中国の茅盾(マオトン)の英語には、しきりに「這個(ツエコ)、這個(ツエコ)」という中国語がまじり、老舎(ラオシエ)氏の英語は、センテンスのおしまいに、かならず、「・・・・呵(アー)」「・・・・呵(アー)」という中国語が接尾語のようにしてくっつく。 堀田善衛、『インドで考えたこと』

と、老舎の英語が紹介されている。ところで、老舎は米英に計10年滞在したので、英語は相当できた。だから、老舎の英語のうまさは、そんな些末なことには関係ないのであると思われる。そういう些末なことにしか目がいかなかった、耳がいかなかった堀田善衛の英語力が...。下記のように、英語で講演ができるのである;

 英語は四〇年代の渡米の際にも大いに役立った。レクチャーも講演も直接英語で、アメリカ文学や新劇・映画も通訳は不要、アメリカの翻訳家の中国文学作品の翻訳も手伝った。 舒乙、『文豪老舎の生涯』

なお、他には老舎についての記述は、この『インドで考えたこと』ではこれ以上ないようだ。とまれ、がきんちょの頃、目には入っていたのであろうが、全然おいらは老舎を認識できていなかったのだ。でも、今日知ったよ。

蒙童も少しは、啓いたょ。 バンザイ!

■ なお、この1956年のアジア作家会議の老舎と堀田善衛との交流、そして文革、1980年以降の堀田の中国離れについては、最近の日本経済新聞の張競という人(知らないよ、⇒wiki  ::猫々センセの学術的はらからなんだろうか?[1])の連載にあるとネット検索で知る。今日、現物を探してよんだょ。


日本経済新聞 2013/9/22 [google]


[1] やはり、そうだった。 佐伯さんも今橋さんも、先輩の張競さんも、松居も、華麗な執筆活動を展開していた。 (小谷野敦、 『評論家入門』)



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