いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

七夕、あの日、盧溝橋で会えた織姫と彦星@1937

2016年07月07日 21時19分11秒 | 中国出張/遊興/中国事情

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。
北岡伸一、 『日本の近代5 政党から軍部へ 1924~1941』

七夕といえば、盧溝橋事件の日である。

盧溝橋事件と柳条湖事件は、全然違う。柳条湖事件を起こしたまともな帝国主義者は先の見通しを考えていた。

盧溝橋事件。 誰が「絵」を描いたか、未だに不明。 もちろん、柳条湖事件の「絵」を描いたのは石原莞爾だ。

今、もっとも検証すべき仮説が盧溝橋事件は「コミンテルン」が「絵」を描いたものであったこと。一方、日本の帝都は東京の政府中枢・首相官邸には「コミンテルン」の工作員が事務室を持っていたことは「史実」である。しかしながら、首相官邸に事務室を持っていたコミンテルン工作員の尾崎秀実がどう具体的に「支那事変」を拡大させていったかの詳細は不明である(愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々  )。

さて、おいら。三田評論がある待合室(関連愚記事)とは別の待合室にいた。がきんちょ向けの歴史本があった。

今日七夕のあの事件はどう書かれているのか興味が湧いた。見た。

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。ということが、一方的に2つの象限のみの要素で書かれていた。日本好戦派とチャイナ避戦派。 日本避戦派とチャイナ好戦派が描かれてない。

「支那事変」=日中戦争の炎上・拡大は日中の戦争拡大勢力の緊密なる協力の元に実現したのだ。

日中・戦争忌避/積極には4象限ある;

日本: 戦争積極派=軍部の支那一撃派+コミンテルン工作員 、 戦争忌避派=参謀本部・石原莞爾

チャイナ: 戦争積極派=中国共産党 、 戦争忌避派=蒋介石・国民党?

そして、日帝はチャイナ大陸に深く誘い込まれ・おびき寄せられ::何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて

侵略戦争を革命へ!という中国共産党の夢を実現したのだ。

夢を実現したのはこの方たちだ。


日帝的鬼子、あるいは、父を求めて三千里

日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。

さて、中国共産党の革命成就の「産婆」役であった日帝の最高「産婆」はこの方;

盧溝橋事件を日中の全面戦争に発展させ、さらには戦争解決を放棄する。

いいね、小学館。いいね、この説明。 こいつが日帝を亡ぼしたんよ。

侵略戦争を、亡国へ! 

惹句は、もちろん、暴支膺懲

 



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