もちろん、百万遍あたり。
アイヌ・沖縄を並列にして語ることは、認識的暴力ではないかな。
確かに、「アイヌ」も「沖縄」も古代・中世は大和朝廷、近世では「和人」、近代では日帝により支配の対象にされた。だから、「アイヌ」も「沖縄」も受難者という属性は共通する。
しかしながら、、「アイヌ」も「沖縄」も絶対的に個別なものであり、受難者という属性をもってアイヌ・沖縄を並列にして語ることは、蝦夷だ土蜘蛛だといっていた朝廷やアイヌ・沖縄を支配した日帝と、その視線は案外、同じなのである。
(そもそも、「アイヌ」も「沖縄」という概念自体かなり暴力的である。)
知らぬは和人ばかりなり、と一見和人を批難しているように見えて、実は、和人という立場があることを確認し、ここでは「知らぬ」と負の価値を与えているが、和人には独得、特別の認識形態があることを前提としている。
これは、逆立ちさせると、和人にはなんらかの独自性や特権があるということになる。
別のつっこみとして、「アイヌ」は沖縄の受難に関心がないかもしれないし、「沖縄」もアイヌの受難について知らないかもしれない。
たぶん確実なのは、アイヌ人も沖縄人も、少なからぬ人たちが東京にいるが、(アイヌ人だけで首都圏で数万)、東京の「旧土人」であり、近代日本で滅亡の一途をよぎなくされたを江戸っ子についてあんまり知らないだろう。そして、和人もしらないだろう、江戸っ子の滅亡を。
■何が言いたいかというと、<被害者>や<弱者>をよりどり集めて、何かしようとしてる<和人>というのは、うさんくさいんちゃうか、ということです。
おすまい。