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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

落花生の収穫の季節、あるいは、「何者かになる」問題@慢性中二病

2011年10月09日 17時51分38秒 | 筑波山麓

 

↑ 「きっと何者にもなれないオタクに限って、写真…カメラ極めようとするよね。」 
(別においらはオタでもないし、カメラを極めようともしていませんが、何者にもなれないんです)

■ブログで話題になっている話。「何者かになる」問題。 琥珀色の戯言さんのブログ記事: 「きっと何者にもなれない」あなたへ

ここで、「何者かになる」というのは、成功する、偉くなる、出世する、という意味らしい。もともとの「何者」の字義に基づけば、定義によりあらゆる人間は何らかの者になるはずだ。ところが、この「何者かになる」という日常での用法は、わざわざ、成功する、偉くなる、出世する、という意味として用いている。そうであれば、成功しない、偉くなれない、出世しない、という者どもは、「ならず者」、あるいは「なれず者」ということになる。もっとも、こういうつっこみは偏屈なんだろう。この偏屈さは、「出世しそこなった出世主義者」[1]であるおいらのルサンチマンに基づくものである。これがこのブログの「縁起」である(愚記事:2001年 9.11、米国同時多発テロ事件、十年ひと昔。あの時おいらは失業者で、death valleyのとば口だった)。底が浅いのだ。

おもしろいのが、世間的にみれば、「ご立派な職業」のはずの医師が、「何者かになる」ことを諦め、そのことに煩悶しているのだ。

つまり、世間的にみれば、「ご立派な職業」のはずの医師なんだけど、山中センセのように世界を驚愕させる基礎医学上の大発見を成し遂げる「何者か」にはなれない境遇、あるいは○×センセのように新規先端治療でこれまで不死の病だと考えられていた#$病の克服を臨床医学上の偉業を遂げる「何者か」にはなれない境遇をを嘆いているのだ。

このブロガー琥珀色の戯言氏のブログ記事に応じて、シロクマの屑籠さんのブログ記事: 40歳が「何者かになりたい」と欲求すること にある;

なので、40歳になってもまだ、「何者かになりたい」と欲求するのは苦しいことだと思う。歳を取っても思春期的なメンタリティを持ち続けるというのは、可能性という面では豊かかもしれないが、欲求や野心と現実とのギャップに苦しまずにいられないという意味では、執着と渇望の坩堝でもある。そんな境地に、若さも感性も失ったまま居続けるというというのだから、当人の苦しみはいかばかりだろうか。タフでなければ耐えられない。

「40歳になってもまだ、「何者かになりたい」と欲求するのは」慢性中二病みたいなものだ、ということなのだろう。おいらは、40半ばで「何者かになりたい」とかたいそうなことはないが、「何者かにな」らなきゃいけない状況である。「何者かになりたい」以外の人=普通の人と定義すると、30半ばまで、「何者かになりたい」とやってきてしまった人は、普通の人になるのが難しい。もちろん、コンビニバイト=年収200万円という人生もある。でも、コンビニバイト=年収200万円という生き方こそが最も困難な人生なのである。その困難さに比べれば、「40歳になってもまだ、「何者かになりたい」と欲求する方がまだ「楽」なのだ。

35過ぎてポスドクの人とか、そういう「楽」な人生を送っているのではないかと、意地悪なおいらは邪推する。おいらは、コンビニバイト=年収200万円的人生は少しやって挫折した(上愚記事より:秋からは日雇いにでることにした。文字通りの「皿洗い」をやった。一生、「皿洗い」をやって生きていこうと思った。でも、よわっちぃおいらにはできなかった)。

コンビニバイト=年収200万円的人生より少し困難さが低い、「ブラックベンチャー」に入って、現在に至る。その動機が、自暴自棄である。でも、10年やって、「ブラックベンチャー」での論文の方が、「本業」時代の論文業績より多くなった。

琥珀色の戯言さんは上記「「きっと何者にもなれない」あなたへ」に続く別ブログ記事(「17歳」さんへの手紙)で言う;

 「野球で挫折した経験」を、これからの自分にとってプラスにするのも、マイナスにするのも、あなた次第です。

 あなたは、「自分のやりたいことができる環境」に生まれることができて、それをためらわずにやろうとしている。

 それは、人類の歴史のなかでは、とても幸運なことであり、すばらしいことなのだと僕は思います。

 どうか、「自分の人生」を大事にしてください。

こんな「くさい」終わり方でいいのだろうか?ちなみにこの「17歳」はどっかのおっさんが書いたものだと、おいらは邪推している。

まとめ■近代社会というのは、その構成員が子供の頃に、家庭及び学校などにおいて、「何者かになりたい」という欲求を喚起する。さもないと、「成長」や「進歩」、そして「前進!」を本義とする近代社会の担い手が確保できないからだ。しかしながら、少なすぎても困る「何者かになりたい」という欲求する人々が多すぎても困る。なぜなら、それだけの「何者」さまの「席」を用意できないからだ。その「席」から漏れたものどもの"一部"が世を恨むようになり、ルサンチマンを発するのだ。このブログのように。

[1] 福田恒存、『永井荷風』


なんでこんな記事を書いたかというと自分のため。おいらが属している今のプロジェクトは今年度で解散する。おいらはdeath valleyから見て、"後ろ"か"前"のどちらかにいかねばならない。もちろん、両方やめてもいいのだが。来週、面接がある。さて、どうなることやら。おいらは"前"に行かなきゃだめだと思う。でも、"後ろ"は安楽な人生が送れそうだ。来週の面接は"後ろ"の方。<灘高>→<東大>→<メーカー筆頭研究者>という経歴のお偉いさまとのお見合いだ。後ろを選ぶことは、おいらの人生で初めての「普通」の人生への選択となるだろう。 「先が見えない」「可能性はある」っていうのは、それだけで「希望」ではあるんですよね。(上記; 「17歳」さんへの手紙)という観点では、「希望」を失ってしまうことになる。やはり、"前"を選択すべきなのだが。