いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『おいらは君たちにブギを配りたい』、 昭和の成仏のために。

2011年10月27日 19時29分01秒 | 

笠置シズ子 買物ブギ Shizuko KASAGI,1950 高画質

おいらは君たちにブギを配りたい、 昭和の成仏のために。

1950年作品。 fabricated in Occupied Japan だよ。ありがとう!配給元のYouTube.

テレビがない時代に「テレビアン」って。

でも、おちが、めくらとつんぼって、「最近の「放送自粛用語」の体たらく、芸術を何と考えているか」、という問題ではなく、

笑いの質が下種なだけでしょう。やっぱ、敗戦ぬっぽんのめりけん風俗&関西風俗にふさわしい。

『僕は君たちに武器を配りたい』

 

『僕は君たちに武器を配りたい』という表題に一瞬でしびれ、ろくに情報も集めず、即座に取り寄せ。

『僕は君たちに武器を配りたい』

京大No1の授業!という思わせぶりの広告文句から、『切りとれ、あの祈る手を』(愚記事: ・役に立つこと ・お金になること ・職にありつけること)みたいな本だと、勝手に思い込む。さすがにこんな本とは思わなかったが、何かラディカル処世術と期待した。

来た。見た。全然違った。

ゲリラ戦。グローバル経済の時代。20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、京都大学(など)の秀才ちゃんはどうすべきか!?という観点の本。 『君たちは 秀才ちゃんたちは、どう生きるべきか』という21世紀版だ。 

瀧本センセの本はひとまずおいて、キモイ自分語りをするならば、

20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る今日の事態に至って、

おいらは、瀧本センセのご指摘なさる「奴隷の勉強」の"成果"の一部を労働力商品として資本家さまに売り、バイトとして、むき出しのグローバル資本主義のなか「尖兵」のバイト= 瀧本センセのご指摘なさる「奴隷」として、がんばっている。例えば、愚記事⇒草莽微賎の地球化

そんで、『僕は君たちに武器を配りたい』。大部分は「ヨタ」のオンパレードだ。

本書の基本的な方向と結論には同意する。つまり、20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、どうすべきか?に対し、日本が蓄積してきた資本をもっと展開して、かつきちんとmanagementして、しかるべき事業を世界的に展開し、労賃の安い労働者とこれまでの既存技術を利用して、G⇒G+ΔGを実現せよということだ。そのためには、資本の適切な管理・運営が、つまりは投資活動が不可欠であること。

そして、投資活動にはリスク管理とリスク管理のための情報収集とその解析、判断能力が必要であることなどなど。

こういう、命題には異議はない。

でも、その論証がめちゃくちゃである。具体的には、ある擁護すべき命題が提示され、論証されのだが、論証の方法が事例報告である。つまりは、擁護すべき命題を肯定する事例が紹介されるのだ。でも、その事例採用がめちゃくちゃである。

一例として、「エキスパート=専門家は食えなくなる」という命題が提示される。でも、その論証に引っ張り出されのが、「石炭産業」である。どひゃー! おいらは、「エキスパート=専門家は食えなくなる」という命題はもっともだし、石炭産業も確かにその事例だろう。でも、この本の本義は「20年前までは"護送船団式"疑似資本主義でやって来た我らが 愚国 祖国・ぬっぽんに、本物のむき出しの「資本主義」が来る事態に至って、どうすべきか?」ではないのか? もっと、最近の適切な事例を挙げるべきだ。「石炭産業」の衰退っていつの時代だよ。 (この本では「石炭産業」も日本長期信託銀行の破たんもごっちゃに事例として引用されている。経済史的状況が全然違うのに。

例えば、反証として、たしかに日本でも石炭産業は衰退、全滅した。でも、当時石炭産業で潤っていた三井や三菱などの財閥は、石炭産業が絶滅しても別途産業で生き残っている。三井や三菱だけではない、麻生んちだって生き残っている。 (そして数十年後、東電、JALも生き残っているんじゃないのか!)。その石炭エキスパートは確かにその専門は陳腐化した。でも「財閥」内で異業種エキスパートに転換したのだろう。この転換が可能であった理由は石炭産業衰退の時代はまだ高度経済成長時代であったので、新しい産業分野が次々起き、慢性的な人手不足であったからだ。一度でも何らかのエキスパート=専門家になったものは潜在的に新しい産業への適応順応能力があったからだ。それと「財閥」の雇用慣行も理由だ。繰り返すと、これは高度成長期の特殊な経済史的状況でのこと。最近の技術が陳腐化した凡庸IT技術者は、確かに、「エキスパート=専門家は食えなくなる」。なぜかしら、石炭エキスパートもIT技術者もごっちゃに引用されている。

つまりは、「アメリカに行きました。ホストファミリーのボブはとてもフレンドリーでした。やはり、アメリカは自由でいい国だとおもいました」的な文章のオンパレードなのだ。すなわち、黒人差別題や貧困問題なぞ全く出ない、アメリカバンザイ!印象論みたいなものだ。

■そして、元・東大法学部助手、の運命は?

この瀧本センセは東大法学部助手から、マッキンゼーへという履歴とのこと。「東大法学部助手」という意味は何か?を書く。瀧本センセ本人も書いているように 「東大法学部助手」というのは大学院に行かなくとも「学者」コースに乗れるキャリアパスである。このキャリアパスは東大法学部に固有のものらしく、世間に知られている学者さまでは山口二郎センセ (関連愚記事)、佐々木毅センセ、そして何よりあの丸山 眞男センセ(関連愚記事)がこの 「東大法学部助手」さまである。

その 「東大法学部助手」さまが、武器、ゲリラ戦など思わせぶりな言葉を弄し、本を出したのだ。

元・日本一の秀才ちゃんが、「秀才ちゃん」を投げうって、なんかやってみましたというものだ。

ご丁寧に、取って付けたように、本書『僕は君たちに武器を配りたい』には、「 丸山 眞男センセ」モードかなんだか知らないが、吉野源三郎の『君たちはどういきるか』が出てくる。(どう生きたかたかって、インテリさまだか何だか知らないが、木偶の坊のように鉄砲かついで戦争さいったさ⇒愚記事:①鉄砲担いで。②:日帝学徒 だめだめgoogle

そして、「自分の頭で考えない人々はカモにされる」(本文157ページ)と書いてあるごとく、『僕は君たちに武器を配りたい』という表題に一瞬でしびれた、「自分の頭で考えない」おいらは、まんまとカモにされたのだ。

●でも、さんざんのヨタ話の後に書いてある;

社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。(略)資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。

だそうです。

どうすりゃいーんだよ?! 学部3年生!

と、資本主義社会を生きていくための武器も貧弱だけど資本主義社会を生きて手にいれたよかったという画像は少しある。それが、愚ブログのカテゴリーの、インド、中国、北米の中にあるものかな。ありがとう!資本主義!

●関連リンク;

::星海社新書編集長(32歳)。「武器としての教養」というコンセプトのもと、ジセダイのジセダイによるジセダイのための新書をつくっています!!::⇒  編集者twitter

(続く)