外勤で、筑波山麓から都内に行った。山手線に乗ると、モニターに写る動画のコマーシャルが北海道関連のものらしく。よく見ると、お米だった。あたりを見ますと、北海道産のお米『ゆめぴりか』の広告。それも車両全部がその広告。びっくりした。北海道のお米が内地進出なんて。
おいらのがきんちょの頃は、「内地米」、「道産米」の時代。たぶん、戦前は北海道のお米は外地米に分類されていたのだろう。当然、「内地米」は高級なお米。「道産米」は品が下るとされていた。
「ゆめぴりか」の"ぴりか"はアイヌ語で美しいという意味。名詞として、美人という意味も。「ゆめぴりか」シンボルマークはアイヌ文様風となっている (もっとも、こういうのは、つまりは稲作に無縁な先住民の"文化"だけexploitするのはpolitical correctnessの見地からどうなんだろう?という問題はあるだろう)。
おいらががきんちょの頃、郷土史の勉強で知った。明治初期の開拓者、特に屯田兵は、稲作が"禁止"されていたと。つまり、政府や開拓使の認識と施策は、北海道では稲作は不可能である、だから無駄はやらないと。こっそり隠れてお米を作った屯田兵の伝聞話とか聞いた。
■30年ぶりで小学生のとき知ったことをネットで調べなおした。びっくりすることが二、三あった。
ユーレカ!1。
"札幌"に江戸時代稲作をしていた人がいた!。札幌っ子のおいらががきんちょの頃教わった最初の札幌庶民は渡しもりの志村鉄一(google)、最初の札幌官人は、島判官(島義勇)であった[関連愚記事;また、君か! 岩村高俊 ]。
島判官は維新後だが、志村鉄一は安政年間。でもその安政年間に早山清太郎(google)という人が今の琴似で稲作していたとのこと。知らなかったょ、早山清太郎。その生涯は、流れ者天国・北海道の先駆者にふさわしく、流浪の人生の末、蝦夷地にたどり着く。詳細は⇒注意、重い!1.3Mb; http://www.aeca.or.jp/02kaishi/pdf/gjk0067.pdfの中の第4項、「石狩川水系農業水利人物評伝」。
ユーレカ!2。
北海道を百万石にした中山久蔵は竹雀だった!しかも、流浪人で、非正規藩士。
中山久蔵はおいらが小学生の頃から知っていた。北海道で稲作の普及を進めた農業事業者。wikipedia:中山久蔵。wikiからコピぺ;中山 久蔵(なかやま きゅうぞう、文政11年3月21日(1828年5月4日) - 大正8年(1919年)2月13日)は、日本の農業指導者。明治期に北海道で初めて米作りを成功させた先駆者。北海道稲作の父、または寒地稲作の父と称される。
生い立ちと経歴;
文政11年(1828年)3月21日、河内国石川郡春日村(現:大阪府南河内郡太子町春日)の農業を営む旧家に生まれた久蔵は、17歳の頃、家を飛び出し諸国放浪した後、25歳(1853年、嘉永6年)で仙台藩士・片倉英馬の下僕となり、仙台藩が蝦夷地警護を目的に構築した白老元陣屋と仙台をたびたび往復した。
維新後は北海道開拓を志し、勇払(現苫小牧市)、島松(現北広島市)で開拓に従事。島松では駅逓(現在は国の重要文化財)を開業した。
河内のおっさんのくせに、流浪の末、仙台藩士・片倉英馬の下僕、つまり、仙台伊達家の筆頭家老の家来の"非正規"サムライになったのだ。
でも、片倉家は伊達家から「召し放ち」、つまり、主従関係を関係したのである。理由は;
天皇の先駆けをする武士団、1863年の「皇軍」。片倉家家臣、1863年。これが最後の栄華の姿である。
孝明帝崩御、幼帝を担いだクーデター。時代は変わる。
戊辰戦争敗北後、仙台伊達家は62万石から28万石あまりに減封。
1868年の「賊軍」。
白石城片倉家は「召し放ち」、つまり主従関係の解消となる。
白石が(薩長クーデター政府に敗戦の処分として)接収されることとなってしまったから。
政宗と景綱以来の関係の消滅。
片倉家臣団は事実上の取り潰し。1868年。
京での天皇行幸のお供からわずか5年。
片倉家臣団の一部は北海道に渡る。 (愚記事;仙台参り③:【仙台市博物館】その2;片倉小十郎宗景 )
その、片倉小十郎家の出、それも"非正規"だったのだ、中山久蔵は。それを知って、おいらは、びっくりした。
▼そして、「百万石のお墨付き」の実現へ!
伊達政宗マニアならだれでも知っている、「百万石のお墨付き」。野心に逸る政宗が関ヶ原の戦いを前に家康の弱みに付け込んで、家康から取った証文。家康に味方すれば、これこれの領地を政宗に与える、と。その領地を合算すると、仙台伊達家は百万石になるはずだった。でも、わけあって、履行されなかった(そのわけは、伊達政宗マニアならだれでも知っているので今日は割愛)。百万石は政宗の夢だったのだ。美しい夢、ゆめぴりかに他ならない。
さて、世もくだり、仙台伊達家が奥羽越列藩同盟の盟主となり、戊辰戦争で敗残し、朝敵となり、62万石が28万石に処分された後、一度は竹雀を背負った、仙台の非正規サムライ・中山久蔵は北海道で百万石を実現させた。恐るべし、政宗・仙台伊達家のミーム!
こんな記録が残されています。
大正4年、久蔵が米寿(88才)をむかえたときの言葉。
「明治のはじめ、屯田兵に対してお米を作ろうとする者には罰をくだすという
命令がだされた。その時、私は長官に対してだいたんにも、2キロの種もみ
を使って、百万石の収かくを見ないうちは死ねないと言って、笑われた。しか
し、この分なら生きている間に、百万石の収かくがあるといっても、言いすぎ
ではないように思われる」
米づくりのはじまり 3 「中山久蔵」エピソード