いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

また、君か! 岩村高俊、あるいは、挑発して戦争を惹起させる人

2008年06月10日 19時08分29秒 | 日本事情


また、君か! 岩村高俊

■戊辰戦争は単に薩長クーデター (いか@さま) 勢力と旧幕府勢力、すなわち徳川勢との戦争ではない。これは、徳川勢以外にも奥羽越列藩同盟が薩長に抵抗したということを示すばかりでなく、奥羽越列藩同盟にさえ加わらなかった長岡藩が頑強に薩長に抵抗したことも示す。

長岡藩は家老の河井継之助が事実上指導し、薩長と徳川、東北勢力の覇権争いに中立を保とうとした。しかし、薩長と戦う結果になったのは、御存知、小千谷談判にて、薩長のちんぴら兄ちゃんとの会談が決裂したからである。大人であるはずの河井継之助が断固闘うことを決意した。

岩村高俊について;

高慢、無思慮な性格であったとされ、北越戦争においても、開戦後山県有朋が小千谷の新政府軍本営に着いた時、岩村は贅沢な朝食を地元の娘に給仕させており、激怒した山県は土足のままその膳を蹴り上げたという。

↑でもさ、この評価ってさ、岩村高俊も山縣有朋もみんな、チンピラ、だったっていうことだよね。)

▲その「薩長」ちんぴら兄ちゃんは、実は土佐の出のちんぴら兄ちゃん。岩村高俊。今夜の主役。

ウイキペディア;岩村高俊

■島判官
おいらが生まれて初めて覚えた歴史上の人物は島判官こと、島義勇。少なからずの札幌っ子はそうだ。なぜなら、島判官が「札幌」を創ったのだから。小学校3年生の郷土史で習う。3年生札幌の歴史、4年生北海道の歴史と習い、多少なりとも人物の名前を覚えた。クロダキヨカタとかなんとか。そういう人物が明治維新関連人物とは全然知らなかった。

むつひとさんと薩長ちんぴら兄ちゃん@仲間割れ前の絵、すなわち、この記事の2番目の絵を、おいらは小学校に入るくらいからたびたび見てはいたのだが、その絵の意味や「ありがたさ」は全くわからず、これら人物を同定できたのは最近。

さて、おいらが、そんな島判官のその後の人生を知ったのは30歳過ぎてから。西南戦争に先立って、政府要人なのに、「不平士族」の反乱を起こして、失敗、死んだと。
→参考; 佐賀の乱

島判官が、「不平士族」の反乱に至ったいきさつは知らなかった。

■先日読んだ本、小川原正道、『西南戦争』にある;

佐賀の乱

江藤は佐賀に帰り、続いて島義勇(元秋田県権令)も長崎入りした。島はもともと三条実美から佐賀鎮撫を託され帰郷してきたのだが、船中で鎮圧のため佐賀県権令として赴任する 岩村高俊 の傲慢無礼な振る舞いに憤慨して矛先を政府に転じ、憂国党を率いて叛起することになった。

そうなのだ、「大人」で中立であった河井継之助をして、反薩長(反新政府)に奔らせしめた岩村高俊は、またしても、ひとりの政府要人をして政府に矛を向けさしめることをする。

すごいぞ、その 挑発力!

▼蛇足

長男の岩村透(男爵サマ)は、「巴里の美術学生」などを書いた美術評論家。 ”毒舌家として有名だった”そうだ。血は争えない。

ウイキペディア; 岩村透



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