―さるすべりのたもとのあさがお―
■ハイデガーに関するメモ書き;
1.
事実、著者の研究分野は、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(一二六五~一三〇八)の哲学であるが、おそらく読者には信じられないだろうが、世界で専門に研究している人間はごく少数であり、その数わずか六、七名でしかない。関連して興味をもつ研究者の数でも数十名でしかない(ただし、この数は増加中である)。
八木雄二、『天使はなぜ堕落するのか』
2.
明らかに、ハイデガーの狙いは、まず第一に哲学界のうちに ―哲学界のうちにだけ、というわけではない― しっかり刻みこまれている。まさにこの点で、彼は哲学者である。彼は何よりまず、根本的にはカントとの関係で、より厳密に言えば新カント学派との関係で、明確な新しい哲学的立場を存在させようとする。新カント学派は、カントの作品・問題設定という象徴資本を盾にとって、哲学界を支配している。認識問題と価値問題という当時の正統な問いを巡る新カント学派内の葛藤というかたちで実現している問題設定を通して、哲学界とそこを支配する人びとは、ハイデガーのような新参者の企てる転覆を、自らの標的かつ限界ととらえる。ハイデガーは膨大な教養を備えている。そのうちには、正統なものばかりか、非正統なもの、さらには異端的なもの(ドゥンス・スコトゥスに関する彼の教授資格論文が証拠になる)すらある。彼はこうした教養を手に、或る理論路線(この言葉には政治的含みを持たせてある)から出発して、上述の新カント学派の諸問題に取り組んでいく。この理論路線は、ハビトゥスの最も深いところに根をはっているが、哲学界の論理の中にだけに原理を持つのではなく、次のような他の諸領域でも選択原理となっている。政治界・大学・哲学界は互いに相同的であり、特にそれぞれの領域を構造化している主要な対立は相同的である。
ブルデュー、『ハイデガーの政治的存在論』
3.
ヒトラーの手伝いとなり、現実の恣意による支配に結びつくことができるために、ハイデガーはまずカントの実践の理論を無視しなければならなかったからこそ、このハイデガーのカント解釈はきわめてグロテスクな解釈になっているのである。
ハイデガーのルサンチマンの根拠について、十分な論証を行うことができるのは心理学者だけだが、ハイデガーはカトリック神学者として「道徳性」に苦しめられたために、彼のルサンチマンはプロテスタント牧師の息子であるニーチェのルサンチマンに劣るものではない。
ハンス・エーベリング、『マルティン・ハイデガー』
4.
「学長辞任以降のハイデガーの影響」の章では、この時期のハイデガーがのちにみずから弁明するようにナチスに対し「内的抵抗」をしていたわけではけっしてなく、依然としてナチズムと縁を切っていないこと、むしろ「忠誠心の篤い党員であり続けた」ことが、カトリックに対するルサンチマン的な振る舞いと絡み合わせて詳述される。
フーゴ・オット、『マルティン・ハイデガー 伝記の途上で』の訳者(北川東子、藤澤賢一郎、惣那敬三)の解説
ハイデガーが生まれたのが1889年。ヒトラーと同い年。日本でいうと、和辻哲郎、石原莞爾など。ハイデガーの親はカトリック教会の樽職人。だから、高等教育を楽に受けられる貴族層とかプチブル階層ではない。耶蘇の坊主になって"出世"しようとしたらしい。少壮のとき 功名聊か(いささか)復(また)自私(みずからひそかに)期 したわけだ。
(がきんちょの頃読んだ日本昔話では、"昔は厳しい身分社会だったので、庶民、っていうか直截にいうと"百姓"の子供で"出世"するにはお坊さんになるしかありませんでした"とよく見た気がする。大日本帝国では貧乏で"出世"したい子は軍人か教師。)
ギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。20世紀のトマス・アクィナスを目指したのだろうか?もっとも、トマスはドミニコ会。しかし、健康上の理由で修道士になれなかった、とされている。どの伝記、あるいはハイデガー自身による履歴にも、健康上理由のみ書いてある。現代日本人なのでよく知らないが、修道士って強壮じゃないとなれないのだろうか?健康上理由のみではないとおいらが睨んでいるのはハイデガーがのちにカトリックにルサンチマンをあらわにするから。もし、本当に健康上の理由だけなら、体弱いという無力の典型にもかかわらず、「強大な世俗政治権力」を「無力な僧侶階級」に精神的に服従させる宗教権威であるカトリックのキリスト教の僧侶にさえなれなかったということになる。「無力な僧侶階級」の落ちこぼれ。つまりは、ルサンチマンの累乗か。かわいそうなハイデガー! 本当は修道院でニーチェとか読んでいたのを見つかったんじゃないのかなぁ?と妄想するとにこにこできる。
その後、ハイデガーは、神学⇒哲学へとシフトしていく。ただし、修道士になろうとした時は教会の援助があったが、修道士をあきらめた後の金策には苦労したらしい。この時友人(ラズロウスキー)が力になってくれた。友達いなさそうと思ってたのにね、ハイデガー。そして、修道士⇒神学⇒哲学シフトの間に、数学・自然科学修業時代というのがある;
5.
ギムナジウム第七学年時、数学の授業がたんに与えられた問題を解くことから理論的な方向に変わったときに、この学科にたいする私のたんなる愛好が現実的な事象関心へと変化し、それは物理学にも及んだ。これにくわえて宗教の授業から刺激を受け、私は生物進化論にかんする広範な読書を行った。
ハイデガーの自己履歴記述、フーゴ・オット、『マルティン・ハイデガー 伝記の途上で』より孫引き
さらに修道士を断念した後の1911年-1912年には自然科学-数学部に編入した。
したがって、木田元の下記記述は不十分である。フッサールとハイデガーを比較して;
6.
だが、この子弟関係には、はじめからさまざまな食い違いがあった。ユダヤ系のオーストリア人であるフッサールと、ドイツのなかでももっとも保守的なシュワーベンで生まれ育ったハイデガー。当初数学者として出発し、途中で哲学に転じたフッサールと、修道士になろうとしたり、キルケゴールやドストエフスキーを愛読した上で、アリストテレスやスコラ哲学について本格的な歴史研究から出発したハイデガー。
木田元、『ハイデガーの思想』
▼ ハイデガーは"理系"だった!、というのはヨタである。 理系とか文系とかいう分類ってまぬけだよね。 でも、ハイデガーはあまりに"理論"偏重だったのではないだろうか。アリストテレス読みのプラトニスト!