いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

吸血の後で

2010年08月29日 18時16分43秒 | その他





今年の夏はやたら蚊にさされる。腕、足などやわらかいところがボロボロだ。家の周りで大発生しているのだろう。その割には御敵の姿を見ないと思っていたら、見つけた。束ねたカーテンの中にいた。

つぶした。普通こういう時はつぶしても、ポトっと床に落ちる例が多いと思っていた。でも、こうなった。どんだけ吸ったんだか!

カーテンが重なった状態で、御敵様を一撃したので、レース布は何重にも血塗られた。洗濯しなければいけなくなった。

■最近、ハイデガー熱が出て、伝記を見ている。ハイデガーはギムナジウムを卒業してすぐ修道士になろうとした。でも、健康上の理由で1か月で辞める。

結果的には、修道士⇒神学部⇒数学/自然科学⇒スコラ哲学⇒プロテスタント⇒現象学哲学⇒独自哲学/ナチスと変遷していく。

戦後(1953年)の手塚富雄のハイデガーへのインタビューより(手塚富雄『手塚富雄著作集 第五巻』を 淺野 章・「ハイデガーと宗教」)より孫引き;

手塚:: ヨーロッパに来て、一般生活人の精神的基盤となっているキリスト教の根強さにおどろいています。それらの人たちに信仰が厚いという意味ではありません。それでこれを市民化されたキリスト教と申しましょう。先生はこの市民化されたキリスト教のうちに、今後のヨーロッパ文化の新しい進展をうながしていく力があるとお考えでしょうか。

ハイデガー:: ―はげしく首をふって言下に答えた。―

「それはない。それがあるように誤信しているところに、ドイツの、ヨーロッパの、文化の最大の危機がある。あの因習的な宗教性と自己満足、……。まだしもイタリアの民衆には、生きた信仰の力が残っているがね」。

(手塚の感想);考えてみれば、かれがこういう答えをするだろうことは、当然予期されたのである。しかし彼の言い方には、他のヨーロッパ人にはとうてい見られないと思える強い放電があった。それは発止としていて、小気味よいものであった。文明批評の生きた力がこもっていた。


●で、今のおいらの課題はハイデガーが修道士を目指した意味を知ること。そもそも修道士ってわからない。(参考愚記事;現代日本人なのでよく知らないが、修道士って強壮じゃないとなれないのだろうか?

最近ちょっと知った;

 すでに述べたように、西暦五〇〇年から六〇〇年の間に、中世ヨーロッパがつくられていく条件が生まれた。西暦三〇〇年頃から異端は追い出され、東ローマ帝国内外にはいくつかの修道院がつくられていた。そこで育った修道士たちは、信仰を広めていく使命を実行しようと、未開の西ヨーロッパ各地に入り込んでいく勇気を持ていた。(中略)
 ブリテン島には多くの修道院がつくられ、ラテン語とギリシア語にもとづく聖書その他の知識が伝えられた。
 教育を受けた修道士たちは、現地で次の世代を育てていく。こうして都市ないし都市近郊でなく、未開の地で知識の伝承が可能になった。中世の修道院は古代におけるアカデメイアの役割を引き受けたのである。
 とはいえ修道士にとっては、祈り、はたらくことが生活のすべてである。けして研究生活が修道士の生活ではない。それゆえ、その知識レベルは特別に高いものではない。ごくまれに優れた知性が参加することがあっても、そのレベルがつづくことは望めなかった。


"知の砦となった修道院" 「第3章 中世一〇〇〇年」、八木雄二・『天使はなぜ堕落するのか』

やはり、修道士は強壮じゃないといけないのだ。祈りと労働のために。なお、ハイデガーが修道士を辞めたのは確かに健康上の問題、心臓病であるが、これは心因性のものであるという解釈が、ヴィクトル ファリアスの『ハイデガーとナチズム』でなされている。ウソかホントか、おいらにはわからない。

さらには、この知的に優秀というのが必ずしも必要条件ではなく、祈りと労働が第一に求められるという修道院の性格と、"理性"などには言及せず、勤労奉仕、国防奉仕を主張する1933年の『ドイツ的大学の自己主張』は、妙に共鳴しているではないか(参考愚記事: デリー化する東京で、松丸本舗参拝 )。

そして、蚊と修道士;

修道士の歴史における位置づけを調べようと、あちこち見てたら、あった。ビンゴ!

修道士----この日本語は味気ない言葉だ。

Monk(英)、Muench(独)などは、いずれもギリシア語のmonosから出ており、これは「一人住むもの」、「孤独な人」を意味する。  

最初の修道士―というよりは隠者―はエジプトに現れた。あの灼熱の太陽の下に広がる広大な砂漠や岩山、過酷な自然は、世を棄てて、神を求めようとする人々には理想の地だったのだ。  

この種の隠修士は次第にその数を増やしたが、その中の一人、アレキサンドリアのマカリオス(AD300頃~391)の修業振りを紹介しよう。  

彼の弟子パラディオス(367頃~431頃)の遺した記録の要約は、次のようなものだ。「ある日、マカリオスがその独房に座っていると、蚊が飛んできて彼を刺した。彼は痛みを感じてそれを叩き潰した。しかし、直ぐに、仕返しのために蚊を潰したことを悔い、セテの沼地に6ヶ月の間、裸体のまま留まる決意をした。そこは人気のない広大な場所で、雀蜂程もある大きな蚊がおり、その針は猪の皮をも刺し貫く程だった。  

彼が独房に戻った時は、その蚊のために姿が変わり果ててしまい、誰もが彼は癩病にかかったのだと思った程で、声によってやっとそれが聖マカリオスだと知れた」  マカリオスに限らず、この時代のエジプトの隠修士達には、野獣や小動物への暖かい思い遣りを示した逸話が多い。  マカリオスは更に、洗礼を受けて以来、地に唾を吐かず、7年間なま物だけを食し、20日間眠らず、40日間断食をして、同じ場所で動かなかったという。


http://www.geocities.jp/kdi1995/news176.html

なお、この話はギリシア語からラテン語に翻訳された時、蚊を叩きつぶしたエピソードは落ちたそうだ。それでもラテン語バージョンで話が成り立ったのは、蚊を殺したことの後悔から沼地に行ったのでなく、性欲を封鎖するため沼地に行って、自分を痛めつけ、性欲から逃れたという解釈に基づいたからだそうだ(桜井万里子/木村凌二 『世界の歴史5, ギリシアとローマ』)。