いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

なぜプラタナス

2007年07月24日 02時52分14秒 | 欧州紀行、事情
なぜ、マドリッドの街路樹はプラタナスばかりなのか?








公園もプラタナス。

■日曜。マドリードから出張先の地方都市へ列車で行くまでの時間、デスカルロス・レアレス修道院に行く。支倉常長がスペイン国王立会いの元洗礼を受けたのがこの修道院(らしい)と(ある本には)書いてある。建物は古いのでその概観からすぐわかった。勝手口みたいな戸しかないので、正門にいこうと建物の周りを迂回するも、迷う。元の位置に戻るとその勝手口が世俗と修道院内部の入り口だった。礼拝堂の入り口もとなりに別途あって、俗人が入れる。修道院内部は1時間の巡回ツアーがある。20人ひとグループでまわる。キリストの血まみれの処刑の像ばかりが目立つ修道院内部を回る。引率者がスペイン語で説明しまくるがもちろんわからない。建物の真ん中にはパティオがあり吹き抜けの回廊がパティオを囲む。その回廊の片面の壁には個室が並び、そのひとつひとつに宗教像・絵画が展示してある。蝋人形館の原型だ。キリスト教ってやっぱ精神の変態なのではなかろうか?あんなキリストが処刑されるところをいつでも「見ている」。本当にいやだったら、忘れる・忘れたふりをするだろうに。あのキリスト処刑を何度も何度も再認識(再び感じること=re-sentimate=るさんちまん の定義)することはキリストの死を嘆くとともに残虐行為の存在をも認識している。一見残虐行為がキリストに向けられているので、その残虐行為とキリスト教徒は正反対の立場にいるように見せかけて、実はキリスト教徒は残虐行為そのものを忘れないように日々訓練してきたわけである。さて、もどって修道院内部は宗教像、宗教画、教会を護持したのであろう歴代王族の画が豊富。院内は撮影禁止だったが修道院解説の図版多い本を買ったので、今度勝手にこのブログに載せよう。

ちなみに、支倉関連のハナシ・痕跡は全くなし。