いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

美しいうじ虫の品格

2007年07月09日 20時09分21秒 | 日本事情

- 都内、日枝神社境内 -

昨晩、やってましたね、今村昌平センセ。
今村昌平に捧ぐ - スコセッシが語る映像哲学 -

一番よかったくだりが;
 
「昭和三十二(一九五七)年、売防法成立の年、ヨコスカを舞台に『豚と軍艦』という映画のシナリオを書いている時、当時まだお元気だった小津安二郎師と野田高悟師、こぞって「汝等何を好んでウジ虫ばかり画く?」といわれた。その時決定「俺は死ぬまでウジ虫ばかり画く」。」(今村昌平『遙かなる日本人』 岩波書店同時代ライブラリー 1996年 p.83)
  (コピペ元;はんのら通信

なにがいいかというと、それはうじ虫という隠喩が的確ということばかりでななく、今村が小津・野田を師と認識し、その師から牽制あるいは教育的指導として発せられた「うじ虫」こそを背負って生きていこうとしたからである。なぜなら、それは今村やわれわれを取り囲む世の中はうじ虫の世界であるからだ。それは何も敗戦日本の横須賀だけにうじ虫がいたのでなく、はたまた、日本がうじ虫だらけだったというのでさえもなく、ぬんげんそのものがうじ虫であることを今村は悟り記録しようとしたからである。「取材」する今村は何も映画を作ってやろうなどといういじましい気持ちでやっていたのではなく、ただただ本当に覗き見根性で追求していったのだろう。うじ虫から目が離せなくなってしまって。

さて、ご承知のとおりこのブログもうじ虫ブログである。いきなりうじ虫で shock !、)これは昨晩のスコセッシ センセが連発していた語であるが、というのではなく、デジカメ画像をこけおどしのおきれいちゃんモノにしてある。ただ、このブログはぬっぽんのうじ虫が大好きである。最近の秀逸なるうじ虫は品格をみだりに口にするうじ虫である。大好きである。美しい。美しいうじ虫の品格こそうじ虫のウジたる本領である。虫酸が走りまくりである。

うじ虫の最終問題は、もつろん、これだ。→人類は存続する価値があるか?

でも、普通のうじ虫、『闇に顕れ生きる』がいいと思う。美しいとか品格とか言わずに。

「師とは偉大なる敵役であるべし」という師の定義そのものに他ならない小津・野田師を持った今村は幸いなるかな!

おいらに師なし。でも、おいら「は死ぬまでウジ虫ばかり書く」よ。