■聖上英霊に御親拝 昭和16年10月19日。折りしも、近衛内閣総辞職、東條内閣成立の日。
■戦前新聞は「天皇陛下」ではなく、聖上陛下といっていたことがわかる。靖国「参」拝ではなく、御親拝。「参る」は謙譲語だから、天皇は参拝とはいわないのだろう。ただし、朝日の岩井克巳の解説付きの『徳川義寛、侍従長の遺言』の岩井の解説では、「天皇は・・・・参拝・・・」という言葉づかいをしている。
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■昭和50年、ひろひとさん、そして天皇「最後」の靖国親拝。
時系列でいうと、昭和50年9月末の訪米の後ということなる。邪推すると、日米和解に一定の区切りがついたことの すめろぎ さんからの戦没者への「報告」か?
●上下の写真の間で、「英霊」の御霊が数百万柱増えたのである。八百万(やおよろず)のカミガミも一気に千万超えである。 ひろひとさんは、歴代すめろぎでいちばん、
海行かば
水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば
草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の
辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ
屍を築いた すめろぎ さんである。
■息子の流儀