いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

朝日・読売は「おかしい」

2006年01月04日 19時06分49秒 | 日本事情
渡辺・読売主筆、本社主幹と対談 首相の靖国参拝「おかしい」

(朝日新聞)【総合面】2006年01月04日(水曜日)付


■読売ナベツネが小泉靖国参拝反対で朝日と「共闘」?。今日の朝日の記事にあるらしい。無料ネットでは閲覧不可。 実は共闘ではなく、

 米英撃滅国民大会主催

組織の自己保身のための禊ぎ(みそぎ)の確認である。渡辺主筆が首相の靖国参拝に反対するのは、いわゆるA級戦犯の戦争指導者が祀られているからだ。もちろん、戦争の責任、敗戦責任は、ばかであほで卑怯で無責任で独善的戦争指導者に第一にある。(戦争指導者はいわゆるA級戦犯ばかりではない、例えば近衛文麿とか。)そして、第二には議会と報道機関にある。

■開戦当時、男子普通選挙制が日本では採用されており、有権者たる日本男児は選挙の候補者選びの情報源として、電波としてのNHKラヂオと新聞報道のみがあった。その新聞社・報道社は紙面で開戦前から戦争を煽り、開戦後は米英撃滅国民大会を主催した。
その結果がこれだ↓。

<新撰組を滅ぼした国のなれの果て>←三谷さんへのおこたい。

■こういう亡国組織が名前も社主も変わらずそのまま現在まで存続しつづけているのである。こういうと、例えば、朝日は戦後反省の決議をした。したがって再生したのだから問題ないと。今、資料が手元にないが、朝日新聞社は戦後反省の弁の紙切れ1枚で戦前・戦中のでたらめ報道、戦争扇動の落とし前をつけたと考えているらしい。事実、A級戦犯を処刑した占領軍にお命を助けてもらい、その占領軍の検閲を受けながら、平和だ!民主主義だ!とまたご活動なされたのであります。 つまり、戦争中のプロパガンダとしての事実上の戦闘行為の責任を占領軍に見逃してもらって、占領軍に負い目をもちながら不自由な報道活動を再開したのである。その時作り出された物語が、戦争はA級戦犯ら戦争指導者ら一部の軍国主義者が国民を欺いて行ったのだ、という子供だましのようなものである。

■その子供だましの物語に基づき、極悪人にすべてを背をわせて、軍国新聞社の方々は無罪放免。 しかしながら、ナベツネさんの戦争体験に基づく戦争指導者への憤怒を、おいらは、全く承認する。それがどんなに私怨であろうとも。いや、私怨であるからこそ。そして、ナベツネさんの憤怒が承認されて、いわゆるA級戦犯が、腐ったみかんのごとく、抹消されねばならないのであれば、朝日や読売の軍国主義プロパガンダが国策を誤らせ戦争に突入したのであるから、兵士として戦死、無辜として戦災・空襲で死んだ者・遺族は、朝日や読売を腐ったみかんのごとく、抹消することができるはずである。

●ナベツネさんの考えで危険なのはむしろ別の点にある。

「(戦争責任に関し)身ぎれいにして、外国にものが言えるような立場にならなければならない。とりあえずは中立的な無宗教の国立追悼・平和祈念碑の建設を決定していただきたい」と要望した。

身ぎれいにしろ!、といっていることである。つまり、日本国も、朝日や読売のように反省の紙切れ証文1枚でも書いて、腐ったみかんを抹消して、新しい軌道を歩めと!。この考えは近代的 (モダーン)なもので、今はやりの言葉でいえば、グローバルスタンダードだ。例えば、米国。米国は先住民を殺戮し「自由と民主のため」建国、その後も世界中で「自由と民主のため」に戦争しまくっている。その過程で、先住民殺戮、ベトナムでの無辜虐殺、そしてイラクのこんなこと↓を出来させている。



●それでも、米国の「自由と民主のため」前進という原理はびくともしない。なぜなら、先住民殺戮、ベトナムでの無辜虐殺そしてイラクの蛮行は、「自由と民主のため」前進という原理にはずれたことであり、きちんと原理にのっとればそういう蛮行はおきないはずである。さらには、そういう原理にはずれたことを認識・批判できることこそが、「自由と民主のため」前進という原理に基づくのであると主張する。これは近代的理性の典型である。どんな野蛮が出来しようとも、それは近代的理性の原理にはずれたことだといいつのれば、つまりそのつど身ぎれいにすれば、「自由と民主のため」の前進は止めなくよいのである。

●読売流の「うす甘い」保守主義では今後対米従属路線での改憲を行い、米国の「自由と民主のため」前進にも従軍するのだろう。そして、「過失」があっても上記メカニズムで前進はとめない。ただし、その都度別の身ぎれいな新たな追悼施設が次々に日本という国に増えていくのである。


腐ったみかん


祀られなくてよかった。


マルクスボーイ → モボ


キンタマニギラレタ