新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「なんまんだあ絵」と「鹽壺の匙」などを読む。
ひとつ気づいた;
ある時、おかみはんは哲男が雪彦山で捕って来た「おおむらさき」という美しい蝶を見せられた。在所で生まれ育ったおみかはんには蝶など珍しくもないものだが、哲男が見せて呉れたそれは目を見はるばかり美しい蝶だった。 (車谷長吉、「なんまんだあ絵」、昭和47年(1973年)作)
おいらは、「おおむらさき」という美しい蝶といのがどのようなものかわからないので、ググった;
Google画像 オオムラサキ
うん、なるほど、確かに、「美しい」。
一方、同じく新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「鹽壺の匙」にある;
また次の日、吉田に行くと、市川の葭 [ヨシ] の繁みで捕えたばかりの翡翠[カワセミ]を見せてくれた。螽斯籠 [ギイカゴ] の中のそれは、目の底が慄 [フル] えるほどに美しい鳥だと思った。 (車谷長吉、「鹽壺の匙」、平成4年(1992年)作)
おいらは、翡翠は知っていた。誰でもしっているだろう。これだ;
Google画像 カワセミ
■ まとめ
車谷長吉は青くて飛ぶものが好きなんだよ。それは「美しい」:美しい蝶、美しい鳥。
そして、それらは捕えないと得られないものであり、しかも、逃げるものでもある。なにより、「自由」に空を舞うものたちである。
それにしても、小説で、「美しい」って言ってしまうことはどういうことなんだろう。 A(あるもの)は、美しい、と言ってしまうのであれば、表現活動など不要なのではないだろうか?なぜなら、Aは、「美しい」!、 Bは「美しい」!、Cは「美しい」!...陸続...で終わりではないか???
▼本愚記事、YouTube ブルー・ライトヨコハマ を聞きながら書きました。
後記: 1997年の迦陵頻伽は、多彩である。