いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

車谷長吉の 「青」 ; 20年の時を超えて、あるいは、「美しい」と言ってしまうこと、そして、迦陵頻伽への路

2015年07月05日 21時32分53秒 | 

新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「なんまんだあ絵」と「鹽壺の匙」などを読む。

ひとつ気づいた;

ある時、おかみはんは哲男が雪彦山で捕って来た「おおむらさき」という美しい蝶を見せられた。在所で生まれ育ったおみかはんには蝶など珍しくもないものだが、哲男が見せて呉れたそれは目を見はるばかり美しい蝶だった。 (車谷長吉、「なんまんだあ絵」、昭和47年(1973年)作)

おいらは、「おおむらさき」という美しい蝶といのがどのようなものかわからないので、ググった;


Google画像 オオムラサキ

うん、なるほど、確かに、「美しい」。 

 一方、同じく新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「鹽壺の匙」にある;

 また次の日、吉田に行くと、市川の葭 [ヨシ] の繁みで捕えたばかりの翡翠[カワセミ]を見せてくれた。螽斯籠 [ギイカゴ] の中のそれは、目の底が慄 [フル] えるほどに美しい鳥だと思った。 (車谷長吉、「鹽壺の匙」、平成4年(1992年)作)

おいらは、翡翠は知っていた。誰でもしっているだろう。これだ;


Google画像 カワセミ

■ まとめ

車谷長吉は青くて飛ぶものが好きなんだよ。それは「美しい」:美しい蝶、美しい鳥。

そして、それらは捕えないと得られないものであり、しかも、逃げるものでもある。なにより、「自由」に空を舞うものたちである。

それにしても、小説で、「美しい」って言ってしまうことはどういうことなんだろう。 A(あるもの)は、美しい、と言ってしまうのであれば、表現活動など不要なのではないだろうか?なぜなら、Aは、「美しい」!、 Bは「美しい」!、Cは「美しい」!...陸続...で終わりではないか???

 本愚記事、YouTube ブルー・ライトヨコハマ を聞きながら書きました。

後記: 1997年の迦陵頻伽は、多彩である。



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