いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第346週

2021年06月26日 18時00分07秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第346週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の ゆず

ゆず酸辣湯麺 脂と酸味はあう。辛味もそれほど強くなく、良かった。

■  今週の在北京日本主流媒体(2021年6月19日


日本人の友人たちは、中国共産党の生誕100周年を祝うために、頻繁に乾杯し、最高の願いを表明しました。(ソース) 

写真で立って両手を広げ演説しているのがホストの潘 慶林(はん けいりん)[wiki]。現代の郭沫若、あるいは、唐家璇 [wiki]。

香港の報道組織を叩き潰した中国共産党の100年の歴史について、「国民に奉仕することは中国共産党の真の党史である」と演説。在北京日本主流媒体は、特に反論することもなく、交流会は誠実で親しみやすい雰囲気の中で開催、飲み食いに耽ったと報じられている。

朝日新聞局長、TBSテレビ、日本テレビ、TV TOKYO、東京新聞、西日本新聞、日本経済新聞日本、NHK、フジテレビなど15社が参加。

場所は、(文革時には江青により独占されていた)釣魚台国賓館 [wiki]

■ 今週の訃報、あるいは、今週知ったこと; 宮本顕治・網走3ヶ月半

立花隆(愚ブログ内検索)が死んだ。訃報解説で、彼の業績として『田中角栄研究』ばかり取り上げられている。彼には、『日本共産党研究』もある。それに対する代々木のヒステリックな反応は、おいらが物心ついたころにも残響していた。自分の気に入らない報道は「反共」だとして、悪魔のように扱っていた。なので、赤旗のサイトを見にいった。特にニュースとして報道していないようだった。検索してみた⇒結果。やはり、訃報報道はないようだ。

そこで、知った。

宮本さんが戦争中の一九四四年十二月まで東京で法廷闘争をたたかったことや、網走刑務所におくられたのは四五年六月であることなどは、日本共産党の歴史を多少とも知っている人なら、常識になっている話です。2005年6月28日(火)「しんぶん赤旗」 こんなことも知らないで

当然、おいらは知らなかった。そして、誤解していた。宮本顕治は“獄中十二年”を網走で過ごしたと。という認識も間違いであった。

網走御大は(←まちがい。ちゃんと巣鴨拘置所の顕治宛って書いてあるね)、絵葉書で目の保養をしていたらしい。昭和17年にはまだ巣鴨にいたのだ。網走はその後か。

と、10年前の愚記事に書いていた。検索して、確認、思い出した。よかった忘備録としての自分のブログ。 日記は書いてるけど、検索機能がないからね。その点、ブログは便利。

網走に送られたのは1945年(昭和20年)の6月と今回初めて知った。ということは、東京の大きな空襲(ジェノサイド)3/11 - 5/25の後ということになる。

■ 今週の借りた本、読んだ本、あるいは、今週の寝台/ベット:「プロクルステスの寝台」


左:『リオリエント』(A.G. フランク)[Amazon]、右:『資本主義』(関曠野)[Amazon]

「プロクルステスの寝台」:捕らえた旅人を自分の寝台に寝かせて,その身長が短すぎると槌でたたくか重しをつけるかして引き延ばし,長すぎると,はみ出た分を切り落とした。現在でも杓子定規,容赦ない強制の意で使われるコトバンク

端的にいうと、相手をこちらの都合に合わせる、という意味。

今週、市立図書館から『リオリエント』(A.G. フランク)を借りて読み、一方、『資本主義』(関曠野)もあわせて読んだ。その両方に「プロクルステスの寝台」がでてきた。

ジャーナリスト出身だったマルクスは、自分好みの図式というプルクルステスのベットに合わせて事実を切り取るような著述家ではなかった。(関曠野『資本主義 ーその過去・現在・未来ー』、1985年)

これらの論争のそれぞれ全ては、一般的に受け入れられた諸理論の「アジア的生産様式」や「封建制/資本主義」や「世界システム」といったカテゴリーの観点からでしか、意味を成さないものである。しかも、これらのカテゴリーは、それ自体が、プロクルステスの寝台であるだけではない。それらはまた、世界史の分析の理解に役立たず、厳密にイデオロギー的な有用性しかないのである。それによって生み出される論争は、ばかげた神学論争と類同である。間違った答えには、火あぶりか、銃殺刑への道が待っているが、「正しい」答えをしたところで、(少なくとも科学的には)どこかへ道が続いているわけではない。(フランク、『リオリエント』(原本)1998年、翻訳2000年)

 アジア的生産様式という考え方に対する、また別の厳しい理論的・実証的批判としては、オスマン帝国に関する、イスラモグル・イナン()の編集に収められた諸論文を参照されたい。それによると、このようなプロクルステスの寝台(ギリシア神話中にある強盗の名。捕らえた旅人を鉄の寝台に就け、長い足は切り、短い足は引き伸ばした)に合うように、史証を搾り出してこようという試みが、いかに盲目的な骨折りであるかがよくわかる。(同上)

関曠野の『資本主義』には「プロクルステスの寝台」の説明は書いていなかった。『資本主義』は1985年の本。もう35年も前の本だ。おいらが10代の頃読んだ本だ。当時と今の大きな違いはネットの有無だ。わからないことはネットで調べればよい。昔は家に立派な百科事典でもないと調べられなかった。

■ 今週の 今昔  昔・大昔、あるいは、藤原良雄の息の長さ


『第三世界の経済構造』(湯浅赳男)[Amazon]で円本

フランク、『リオリエント』はもう20年前の本だ。原著は1998年。この本は読んでなかった。つまり、A. G. フランクが転向=re-orientしたとは知らなかった。そもそも、A. G. フランクにそんなに関心があったわけではない。10代の頃、マルクスの非西欧社会理解に関心があった。A. G. フランクは元々従属理論の人だった。おいらが十代の頃みた。さて、この2冊の本、湯浅赳男・『第三世界の経済構造』とA. G. フランク・『リオリエント』を繋ぐのが藤原良雄さんだ。『リオリエント』は彼が社長の藤原書店からこの翻訳が出て、『第三世界の経済構造』は彼が編集者となり新評論社から出た。1976年。この湯浅の本にA. G. フランクの従属理論、「低開発の開発」が紹介されていた。すなわち、資本主義社会は西ヨーロッパのような資本主義国のような発達段階を経て発達するのではなく、その西ヨーロッパの支配下、影響下に入ってしまった地域は西ヨーロッパのように発達できず/発達せず、従属的な立場におかれるという理論。だから、西ヨーロッパなどの「先進」資本主義国の「システム」から離脱すべきという政治イデオロギー。南米の左翼など。

そのA. G. フランクがマルクスの資本主義発達理論ばかりでなく、ウオーラーステインの「世界システム論」までをヨーロッパ中心主義と非難するようになったというのが、『リオリエント』。

背景には、サイードのオリエンタリズム批判とソ連崩壊がある。

なお、A. G. フランクが、マルクスの<アジア的生産様式>などいう「プロクルステスの寝台」をヨーロッパ中心主義と非難するのは、まだ生ぬるい。マルクスは「イギリスのインド支配」で<アジア的生産様式>をもつような社会はイギリス帝国主義に破壊されて当然とイギリスの帝国主義によるインドの伝統社会の破壊を推奨しているのだ。ヨーロッパ中心主義という認識の問題ではなく、帝国主義的侵略主義者なのだ。マルクスは。そこまで、A. G. フランクは踏み込んでいない。



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