alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

内なる声とシンクロニシティ

2012年03月03日 | 私の人生
 

 「オムレツを作るためには卵を割らなきゃいけない」んだと
誰かが言った。それはフランスの格言で 何かを得るためには
何かを捨てないといけないという そういうことを意味するらしい。


 「そうかオムレツを作るためには、、、」


 その言葉が心に残った私はいくつも卵を割った。
どれくらい?卵の殻で なんど指を血まみれにしただろう
ボウルには どれほどの卵が入っているのだろう
時折血の赤い色が混じった卵は未だに オムレツにはならないようで
オムレツにしようと思っていたのに 生のままなのか
それともまちがえてスクランブルエッグになったのか
どうであれ 半生な状態なのは きっと間違いないのだろう。


 昔参加したワークショップで コーチングで有名な
榎本さんという人がこう言っていた。「内なる声に従うこと。」
内なる声に従えば きっとそれは自分にとって正しい選択。
そして彼はやっていたことをやめて北欧に家族を連れて移住をしたんだそうな


 そんな良さそうな話を聞きながら
女 という立場であった私は思った。
果たして彼の奥さんは 内なる声にその時従っていたのだろうか?
女が内なる声に従ったなら?家庭は一体どうなるのだろう?
それはいつ何時も 夫となった人の内なる声と一致するものなのだろうか?
私にはそうは思えなかった。


 女が内なる声に従ったなら? その時思った私の疑問は
かなり挑発のようなものだろう。だってそれは 多分 
許されてなんかいなかった。 私がいつも うらやましいな
あんな人みたいに私もなりたい そう自然と考えて
自然と自分と比べてしまうのは いつも男の友人たちで
「私もあんな風に」と思っていたら なんだかどこかで亀裂が入る
それが「女」ボーヴォワール風に言うなら「第二の性」ということなのだろう。



 さて 内なる声に従ったつもりでいても
『シンクロニシティ』の著者によれば
一度それに疑問を抱いたり大勢の人たちが自分と違うことを
言うからという理由で不安になったりしていくと
開かれたと思ってた扉も次第に閉まっていくんだそうな。
彼はこう書いている。

「私がワナという言葉を使って述べようとしているのは、
古い考え方や行動のしかたに後戻りさせ、ひいては
私たちが「つながり合う創造的な世界の営み」の一部になるのを
妨げるあらゆるもののことである。そうしたワナは強力だ。
そのくせ深いレベルにおいて、それらのワナは中身がない。
しかし私たちがそうしたワナに陥るとき、その結果は即座に
現れるうえ、きわめて不愉快な気分にさせられるものだ。
高みへと上る流れにあったのに、それを失うのは、精神的に
大変な打撃となる。すべての創造的活動を停止する。
すべてのシンクロニシティも突然、消え失せてしまう。」

 それで私みたいに中途半端なオムレツ未満みたいなものが
できてしまうわけだろうか。


 オムレツは どうやったらつくれるのだろう?


 一番大切なことというのは オムレツの姿をくっきりと描くことなのだろうか
それとも卵に熱を加えることなのだろうか スクランブルエッグにはならないように
それとも私の場合は卵に混じってしまった赤い血を まず取り除くことなのだろうか
それとも?食べたいのはオムレツなんだ!と声を大にして言うことだろうか
誰に向かって?天に向かって?そうしたら生卵は自分が火を加えなくても
気がついたらオムレツに変身してくれるのだろうか?


 今日は保育園の説明会に行って来て
驚いたのは「3歳児は定員割れなんです」と言われたことだった。
はあ?どういうこと?私この何ヶ月も役所の人に
「定員オーバーです。どこも空きがありません!」と
言われ続けていたというのに。ふたを開けてみたら
初の定員割れだったそうな。信じられない じゃあ
役所の人が私を泣かせ続けたあの脅しは一体何だったのだろう?

 それはかつてもそうだった。私がさんざん役所で
「空きがありません」と脅されて 仕方がないから
諦めていた そしたら紙を提出した人たちはみんな通って
「専業ママ」とは一年間でおさらばだった。私と彼女たちの違いは
それでも紙を出したか出さなかったかなんだよな。


 はじめから諦めていたら何にもならない。
でも扉をたたけば 叩き続けたら 開いてくれることもある
シンクロニシティが起こったら 扉を叩かなくってもスウッと開いてくれるけど
シンクロニシティが途中でやむと 何もかも中途半端だ。
(でも確かそんな榎本さんも北欧にきたけど何しに来たのか
わからなくて悩んだと言っていたような、、、)
もっと心を開いて内なる声に従ったなら
シンクロニシティは起きて助けてくれるのだろうか
外国に行くとシンクロニシティが起こる人というのは
外国だとオープンで素直になって楽しめているからなのだろうか

 私は『シンクロニシティ』の著者の言葉を信じたい。
「無上の喜びを追い求めるなら、ずっと前からそこにあって
あなたを待っていた道に身をおきなさい。そうすれば、
生きることになっている人生を、あなたは生きることになる。
このことがわかるようになると、無上の喜びという「場」にいる
人々に出会い、扉をひらいてもらえるようになる。

 いいですか。怖がらないで、無上の喜びを追い求めなさい。

 そうすれば、夢にも思わなかったところで扉がひらくようになるのです。」


 成せばなる こともある 成らないこともたくさんあるけど
でも紙を出さなければ本当に何にもならないわけであり
はじめから諦めるか 出してから結果をみて諦めるか
それともそれでも諦めないか もしくはどこかで奇跡が起こるか?
シンクロニシティはまた起こってくれるのだろうか?
もうさんざん 卵は割って 痛い思いはしてきたわけで
でもそれはただ 卵の殻で怪我をしたかったからではないはずだから
ちょっと元気になった今 オムレツにもっと意識をむけて
せめて生卵をかき混ぜてみよう。火を加えられる日もくるだろうか
いつの日か 笑って なーんだそうか このために
沢山の卵を割ったんだ いっぱいあるから美味しかったね
多少の血だって塩気がきいて ほら美味しいって
そういえる日が来てほしい。



社会不適応?

2012年03月02日 | カフェと社会変革


 「i phoneのことなんだけどね、オーストラリアで買おうかと
思ってるんだ。オーストラリアで買って、日本でシムカードを入れて
フランスでもシムカードを変えて」
「それってうまく行くの?オーストラリアのi phoneってフランスでも
使えるの?」「使えると思うよ。でも日本のはフランスでは使えない。
僕が使いたいのは3GのGPSだから。wifiじゃだめなんだ」
「フランスのiphoneを日本で使っても国際電話扱いになっちゃうしね
あなたはインターナショナルな人であっても
世界はあなたほどインターナショナルになってないってことね」

 と 笑いながら私は言った。


 そう 世界はまだそこまでインタナショナルになってない。
3カ国にビザを持って行き来している人がいるとしても
国の壁はまだ厚く、同じiPhone1つをとっても、色んな壁が待っている。


 広尾のカフェで 昨日はいろいろ考えていて
あるときはっと気がついた。


 もしかして、、、 私たちが社会に適応できてないんじゃなくって
社会が私たちに合っていないのだとしたら??


 こんなこというと男性陣にバカにされそうではあるけれど
でももしそれがそうだったなら これはコペルニクス的転換だ。


 そもそも社会って誰がつくっているんだろう?
社会って誰のためにあるんだろう?子育てを再生産と言ったりするけど 
もしかして私たちは子育てよりも 物事を深く考えることなく、
社会こそ再生産を繰り返してはいないだろうか?
チャップリンが私たちは歯車になってるんだよと警告しても
あまり深く考えることもなく 「こんなものだ」ということで
ただ与えられた 所与のものとして再生産を繰り返し
それを子供に教えて行くけど さて それで本当にいいのだろうか?


 正気って何なのだろう?と私は昨日考えた。
シュールレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンは
「私たちの属しているこの社会は私には気が狂っているという印象を
与える」と言っていた。社会からおかしいといわれていた
ブルトンが狂っていたのか はたして社会が狂っていたのか?
今の日本は 私の本を読んでくれた人も言うけれど
ブルトンやボーヴォワールが「そんなのおかしい!!」と思っていた
社会的制圧の強すぎる社会に似ていて 私が本の中で示した彼らの
苦しさを 自分のものとして感じてくれる人もいる。


 私はずっと自分がおかしいのかと思ってた。でも
正気といわれるものは結局その時点の社会構造にうまく
適応できているかどうかであって それは社会や時代によって変化する。
エーリッヒ フロムはこう書いていた。

 「よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値については
しばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいも
ありうるであろう。かれはよく適応しているとしても、それは
期待されているような人間になんとかなろうとして、その代償に
かれの自己を捨てているのである。

 これにたいして、神経症的な人間とは、自己のためのたたかいに
けっして完全に屈服しようとしない人間であるということもできよう。」
(『自由からの逃走』p.156)

 そしてアーティストといわれた人たちは自己を捨てるくらいなら
「病気」と言われる方がましだと思って生きた人たちだった。


 『cafeから時代は創られる』を書いてからだいぶ時がたち
私は最近思うけど アーティストなんて 実は特殊な才能を
持った人ではなかったんじゃない?クリエイティビティって人間に
備わった素質なんじゃない?誰かはそれを諦めなかった。
多くの人はどこかで諦めて「適応」する道を歩んだ
違いというのはそれだけのことではないのだろうか?

 だけど本当は 人間はこの社会に簡単に「適応」できるほど
シンプルになんてできていない。本当はもっと渦巻いていて
沢山の悩みや思いや才能があり 産業社会で求められるような
単純なことをずうっとしてたら幸せになれるようなもんじゃなく
もっとカオスで複雑なのが人間なのだろう。
人間はただのホモエコノミクスじゃないと思う
経済活動さえしてればそれで満足なんてことないのだろう
だからどこかで私たちは問題を抱えたまま生きる
そこである人たちは病気になって ある人たちは鬱になり
ある人たちは引きこもる。ある人たちは海外に脱出を試みる。
どこかがきっとおかしいのだけど 私たちはこう思う。
「適応できない私がおかしい」そうして自分を責め続ける。



 本当にそうなのだろうか?



 今朝ものすごくリラックスした気持ちで蓮太郎と
バカなことをやって遊んでいたら 2人とも
大笑いの連続で 私たちはとても気持ちがよかった。
ああそうか 蓮太郎ってやわらかくてしなやかで
なーんだこれくらいリラックスしてるから
だからいっつも笑っているのか!とやっと彼の人生を楽しむ秘訣を
理解できたような気がした。
彼はいつもバカでアホなことばかりするのだけれど
もしかしたらバカなことが本当で まじめくさって
しかめっつらした大人の社会が 実はおかしいのかもしれない。
子供は吸収が速いというけど それは子供の脳みそが
大人と全く構造が違うとかじゃなく もしかして
これだけリラックスしてまだ丸い頭でいられるから
スポンジのように沢山吸収できるのかもしれない。
だったら大人も?もっと子供のようにバカになりアホになり
力をだらりと抜いてみたら すごく変わるのかもしれない。
そしたら子供と同じくらい 創造的になれるのだろうか。
そうしたらリチャード・フロリダのいうような
かなりのクリエイティブな都市が生まれていくんじゃない?
(彼の理論ではそうして都市が活性化され経済的に成長する)


 19世紀末ウィーンも 大人は真面目くさってた。
ブルトンがいたころのパリの大人もそうだった
だけどカフェに集った彼らは挑発してって後の社会を
変えてった。だからだろうか 今はウィーンもパリも
そのころに比べればよほどリラックスして芸術にも寛容で
人々が生きやすい街に思える。日本もカフェから
何かが変わっていくのだろうか?
私たちの社会がもっと 私たちに合っていく日
もっと自然な顔して大人も笑える日というのが来るのだろうか
それが遠い未来であっても いつかそんな日が来てほしい



2冊目の本に向かって

2012年03月01日 | サードプレイスとしてのカフェ

 
 なんだか塩味の効いてないラーメンみたい。
それが自分のやろうとすること 書こうとすることに対して
ずっと抱いてきた感想で。きっと悪くはないと思う
きっと形にはなると思う。でもなにか 芯が足りない
芯がなければ本当はいけない。だからぐらぐら揺れている。


 じゃあその芯って何なのだろう?
それがあってこそなのじゃないのだろうか
まわりから攻めていったら芯が見つかるなんてこと も
あることはあるのだろうか あるかもしれない。そうして私はこうつぶやく

 「なかなかね すすまないんです、、、」


 「飯田さん、2冊目の本楽しみにしてますって 友達が言ってました!」
と大きな声で言われた時に 私はどうしようもない返答をしてしまう。
「子供がいるからあんまり時間もとれなくて」言いながらそれは嘘だと思った。
そんなのは嘘でしかない。本当はそうじゃなくって 私の問題
インスピレーション 降ってこないかな、、、 今日はぼんやり
そう考えていた。


 あんまりの大雪のため、電車が時間通りにこないだろうと予想して
秋頃から働かせてもらってるクルミドコーヒーにシフトの前から行ってみた。
こんな大雪!誰もいないかと思っていたら 予想通りでお店は閑古鳥が鳴いていた。
でもこのお店 ゆっくりできるときにこそ 力を発揮する店だから
そんな朝の時間を楽しもうと思っていたら アルバイトの男の子が
私の座っているカウンター席の近くで昼食をとりはじめてた。
そこで雑談。「なんかねえ 書けないんですよねえ、、、」
彼は確かこう言っていた。「僕なんかは気分のってきてよしやるぞ!って
決めた時にカフェに行こうと思いますけど パリなんかだと
気分がのるのをカフェで待ってる感じなんですかねえ」
「ああそうかもしれないね、、、そういえば京都のカフェに居たときは
そんな感じだったなあ、、、」

 それってとっても贅沢なこと。

 カフェで気分がのるのを待つ。

 カフェで何かを待ってみる。

 そういえば私はそんなことを自分の本に書いていたではないか



 そう カフェで待つ時間。

 そんな贅沢な時間というのが 京都に居た頃にはあった
パリでも来る日も来る日もカフェから外を眺めてた。
東京で そんなことはあまりなかった だけどクルミドは特別だ。


 私はそんなことしてる場合じゃないのをよく知ってても
特にシフトが終わった水曜の夜 美味しそうな匂いにつられて
ちょっとだけ!!急いで帰るから!そんな気持ちでスープを食べるのが大好きだ。
なんだかよく わからないけど この店には独特の魅力があって
そう ただ 本当は もっとその空間に居たいだけ。


 そこで私は何かが起きるのを待っている。


 そして不思議なことに この店では何かが起こる。
それはひょっこりと店に立ち寄ったアルバイトの子との偶然の出会いであったり
同じく書けないことで悩んでいる人との出会いであったり
息子さんがフランスで仕事をしている人との出会いであったり
クルミドの夕べに来た人との「あれ?あなた働いてたの?」という出会いであったり
なんとなく 期待していたような 何かがここでは働いて
だからなんだか守られている 魔法がちょっとかかってるような
そんな気持ちになってしまうから
なんだかんだと理由をつけて 私はちょっと残りたい

 そして私は待っている。

 「インスピレーションが降りて来たらいいんですけど、、」
とこれまた偶然出会った影山さんにこう言った。
今日は「どうやったら書けるのだろうか 書くとは
一体何なのか」とか そんな話ばかりしていて
結局何も書いてないけど でもなんだか実りもあった気がした。


 そうして家に帰ってきてから お風呂上がりにハッと気づいた。

 ついに来たか?

 私の中にはこんな言葉がやってきた。「近代を乗り越える、、、」
そうかつてレボキャンをもう一度しようとしたときに出たテーマ。
近代?なんか懐かしい 1つの道、1つだけの道 それは一体なんなのか
それと近代は関係あるのか なんだか関係がありそうで
私たちは違う方向に向かおうとしている気がする
そしてそのテーマの1つにサードプレイスや
インフォーマルパブリックライフがあるということだろう。


 そう考えて久々にノートに考えをメモしていったら
クルミドのみなさんと行った哲学カフェのテーマまで頭に出て来て
なんだかシンクロニシティみたい。そう あの日の朝、哲学カフェに行く前に
私はまさに あさま山荘事件と共産主義的な雰囲気だった日本について
熱く語った。すると哲学カフェのテーマは「正義と秩序」のなんたらで
あれはめちゃくちゃ難しかったけど かなり深かったようにも思う。
秩序のために権力者は力を行使することがある。
とくに共産主義はそうなっていく それは正義のための暴力という言い分になる。
それらは支配者の論理であって じゃあ もっと人々が自由に生きたなら?

 オルデンバーグは「共産主義や全体主義者の一番の敵は
人々の集会や人々が自由に語り合うことである」と言っていた。
そんな自由はアメリカでは普通にあるからどれほどの脅威なのか
実感しにくいものだけど 違う国へ行ったなら それがどれほど
統制されているのかよくわかり それこそが重要な印である
証拠なのだと述べていた。カフェはいつだって警察や権力と対峙してきた。
じゃあカフェで人々が自由になって もっとクリエイティブになったなら?
困るのは人々をコントロールしたい支配者だろう でも
それはカオスになるのだろうか?

 私の理解は追いつかなかったけど おそらくあの日の哲学カフェでは
けっこう深い議論がされてた。そして私がよくわからなかったことに対して
尋ねてみたら、皆の前でかっこよくと意見を述べてた移民系の青年はこう言っていた。
「ああ あれはね カオス理論のことだよ。国鉄の窓口にね 列で
きちんと並びなさいという印をつくっても全然うまくいかなかったのに
そういう列をなくしてちがうデザインで人々の自己組織化にまかせたら
うまくいったっていう話。」カオス理論か、、、 その時はよくわからなかったけど
あれって私に必要な話だったのかもしれない。


 ああバイリンガルだったなら!
ラジオもこんな議論もその場で全部理解できたら めちゃくちゃ面白いのにな
ものすごいリアルタイムで いろんなことを理解して伝えられるのにと思うけど
その前にするべきことは 私の中の塩味をきちんと効かせることなのだろう

 もっと違う社会のありかた もっと違う生き方
1つだけではない世界が ありうるかもしれないことを
私はもっと深い観点から追求してってカフェを通じてそれを提示するのだろう
もっと人々が持って生まれたものを 押さえ込んで生きるのではなく
活き活きと開花させたら?どんな社会になるのだろう


 少しずつどこかに近づいて来た 
インスピレーションを得るためには とにかく考え続けることだ
そのためにはノートをしっかり使うこと 明日雪が降ってなければ
広尾の図書館で頑張ってみよう。

フランスに行くなら

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