alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

2冊目の本に向かって

2012年03月01日 | サードプレイスとしてのカフェ

 
 なんだか塩味の効いてないラーメンみたい。
それが自分のやろうとすること 書こうとすることに対して
ずっと抱いてきた感想で。きっと悪くはないと思う
きっと形にはなると思う。でもなにか 芯が足りない
芯がなければ本当はいけない。だからぐらぐら揺れている。


 じゃあその芯って何なのだろう?
それがあってこそなのじゃないのだろうか
まわりから攻めていったら芯が見つかるなんてこと も
あることはあるのだろうか あるかもしれない。そうして私はこうつぶやく

 「なかなかね すすまないんです、、、」


 「飯田さん、2冊目の本楽しみにしてますって 友達が言ってました!」
と大きな声で言われた時に 私はどうしようもない返答をしてしまう。
「子供がいるからあんまり時間もとれなくて」言いながらそれは嘘だと思った。
そんなのは嘘でしかない。本当はそうじゃなくって 私の問題
インスピレーション 降ってこないかな、、、 今日はぼんやり
そう考えていた。


 あんまりの大雪のため、電車が時間通りにこないだろうと予想して
秋頃から働かせてもらってるクルミドコーヒーにシフトの前から行ってみた。
こんな大雪!誰もいないかと思っていたら 予想通りでお店は閑古鳥が鳴いていた。
でもこのお店 ゆっくりできるときにこそ 力を発揮する店だから
そんな朝の時間を楽しもうと思っていたら アルバイトの男の子が
私の座っているカウンター席の近くで昼食をとりはじめてた。
そこで雑談。「なんかねえ 書けないんですよねえ、、、」
彼は確かこう言っていた。「僕なんかは気分のってきてよしやるぞ!って
決めた時にカフェに行こうと思いますけど パリなんかだと
気分がのるのをカフェで待ってる感じなんですかねえ」
「ああそうかもしれないね、、、そういえば京都のカフェに居たときは
そんな感じだったなあ、、、」

 それってとっても贅沢なこと。

 カフェで気分がのるのを待つ。

 カフェで何かを待ってみる。

 そういえば私はそんなことを自分の本に書いていたではないか



 そう カフェで待つ時間。

 そんな贅沢な時間というのが 京都に居た頃にはあった
パリでも来る日も来る日もカフェから外を眺めてた。
東京で そんなことはあまりなかった だけどクルミドは特別だ。


 私はそんなことしてる場合じゃないのをよく知ってても
特にシフトが終わった水曜の夜 美味しそうな匂いにつられて
ちょっとだけ!!急いで帰るから!そんな気持ちでスープを食べるのが大好きだ。
なんだかよく わからないけど この店には独特の魅力があって
そう ただ 本当は もっとその空間に居たいだけ。


 そこで私は何かが起きるのを待っている。


 そして不思議なことに この店では何かが起こる。
それはひょっこりと店に立ち寄ったアルバイトの子との偶然の出会いであったり
同じく書けないことで悩んでいる人との出会いであったり
息子さんがフランスで仕事をしている人との出会いであったり
クルミドの夕べに来た人との「あれ?あなた働いてたの?」という出会いであったり
なんとなく 期待していたような 何かがここでは働いて
だからなんだか守られている 魔法がちょっとかかってるような
そんな気持ちになってしまうから
なんだかんだと理由をつけて 私はちょっと残りたい

 そして私は待っている。

 「インスピレーションが降りて来たらいいんですけど、、」
とこれまた偶然出会った影山さんにこう言った。
今日は「どうやったら書けるのだろうか 書くとは
一体何なのか」とか そんな話ばかりしていて
結局何も書いてないけど でもなんだか実りもあった気がした。


 そうして家に帰ってきてから お風呂上がりにハッと気づいた。

 ついに来たか?

 私の中にはこんな言葉がやってきた。「近代を乗り越える、、、」
そうかつてレボキャンをもう一度しようとしたときに出たテーマ。
近代?なんか懐かしい 1つの道、1つだけの道 それは一体なんなのか
それと近代は関係あるのか なんだか関係がありそうで
私たちは違う方向に向かおうとしている気がする
そしてそのテーマの1つにサードプレイスや
インフォーマルパブリックライフがあるということだろう。


 そう考えて久々にノートに考えをメモしていったら
クルミドのみなさんと行った哲学カフェのテーマまで頭に出て来て
なんだかシンクロニシティみたい。そう あの日の朝、哲学カフェに行く前に
私はまさに あさま山荘事件と共産主義的な雰囲気だった日本について
熱く語った。すると哲学カフェのテーマは「正義と秩序」のなんたらで
あれはめちゃくちゃ難しかったけど かなり深かったようにも思う。
秩序のために権力者は力を行使することがある。
とくに共産主義はそうなっていく それは正義のための暴力という言い分になる。
それらは支配者の論理であって じゃあ もっと人々が自由に生きたなら?

 オルデンバーグは「共産主義や全体主義者の一番の敵は
人々の集会や人々が自由に語り合うことである」と言っていた。
そんな自由はアメリカでは普通にあるからどれほどの脅威なのか
実感しにくいものだけど 違う国へ行ったなら それがどれほど
統制されているのかよくわかり それこそが重要な印である
証拠なのだと述べていた。カフェはいつだって警察や権力と対峙してきた。
じゃあカフェで人々が自由になって もっとクリエイティブになったなら?
困るのは人々をコントロールしたい支配者だろう でも
それはカオスになるのだろうか?

 私の理解は追いつかなかったけど おそらくあの日の哲学カフェでは
けっこう深い議論がされてた。そして私がよくわからなかったことに対して
尋ねてみたら、皆の前でかっこよくと意見を述べてた移民系の青年はこう言っていた。
「ああ あれはね カオス理論のことだよ。国鉄の窓口にね 列で
きちんと並びなさいという印をつくっても全然うまくいかなかったのに
そういう列をなくしてちがうデザインで人々の自己組織化にまかせたら
うまくいったっていう話。」カオス理論か、、、 その時はよくわからなかったけど
あれって私に必要な話だったのかもしれない。


 ああバイリンガルだったなら!
ラジオもこんな議論もその場で全部理解できたら めちゃくちゃ面白いのにな
ものすごいリアルタイムで いろんなことを理解して伝えられるのにと思うけど
その前にするべきことは 私の中の塩味をきちんと効かせることなのだろう

 もっと違う社会のありかた もっと違う生き方
1つだけではない世界が ありうるかもしれないことを
私はもっと深い観点から追求してってカフェを通じてそれを提示するのだろう
もっと人々が持って生まれたものを 押さえ込んで生きるのではなく
活き活きと開花させたら?どんな社会になるのだろう


 少しずつどこかに近づいて来た 
インスピレーションを得るためには とにかく考え続けることだ
そのためにはノートをしっかり使うこと 明日雪が降ってなければ
広尾の図書館で頑張ってみよう。

フランスに行くなら

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